195 共生関係
「ウルさん――お久しぶりです」
微笑むリゼットとは対照的に、ウルファネは困ったような顔をしていた。
「女王、このダンジョンを脱出するつもりはない?」
「え?」
「ダンジョンマスターはどこにでも帰還ゲートを作れる。帰りたいなら、帰してあげる」
「いきなりどうしたんですか? ウルさんは、私が使命を果たすのが望みなのでしょう?」
突然の申し出に、喜ぶよりも疑問が先に浮かんでくる。
「そうなんだけど……うん、そうなんだけどね」
「このまま俺たちが進むことに、不都合でもあるのか?」
ウルファネは、警戒しているレオンハルトを一瞥して視線を虚空に浮かべた。
「――正直、もっと早く折れると思っていたよ。世界を想って膝を折り、使命を果たすと思っていた。それがいつの間にか、いままで誰も来ていなかった深度まで来ている」
ウルファネは遠い目をする。かつてここに訪れた聖女たちを思い返しているのだろうか。
「どれだけサポートしても、四層がヒューマンの限界深度だと思っていたのに……」
自嘲的に微笑む。
宵闇のような瞳が、リゼットを見つめる。
「ここから先は、僕も知らない世界だ。女王の行動が、何を起こすかわからない」
「ウルさんは、変化を恐れているのですか?」
「エルフは平穏を求める生き物だからね」
「そういうものですか……?」
リゼットはいままでに出会ったエルフの人々を思い返しながら、レオンハルトを見上げる。
「平穏を好むエルフは、そもそもヒューマンの前には現れないから」
「なるほど……」
納得する。
リゼットは胸を張り、まっすぐにウルファネと向き合った。
「ウルさん。私は前に進みます。変化を引き起こすために」
「うん、その選択は正しい。だって、脱出ゲートを通ったところで、外には出られないから」
「――そんなの、罠じゃないですか!」
「あははっ、そうなのかな?」
リゼットは困惑した。ウルファネが何をしたいのか、何を望んでいるのか、いまひとつわからない。
(ウルさん自身も、わからないのかも)
長い年月を生きてきた彼にとっても、初めてのことで正解がわからないのかもしれない。
「教えておいてあげるよ。ゲートを通っても、行けるのは最初の穴までだ。そこから外へは出られない。――誰もこの場所から出さない。それがこのダンジョンのルールであり、僕とアマスフィアとの誓約だからね」
――女神教会の教皇アマスフィア。
幼く老練な、老人のような少女。
「……このダンジョンをクリアしても、外には出られないということですか?」
「とりあえずそういうことかな?」
曖昧な返答をする。本当によくわかっていないようだ。
「なんとか出る方法はないのでしょうか……ドワーフの方々がいらっしゃったら、ダンジョンを掘って外に出られたでしょうに……」
ドワーフはツルハシ一本でダンジョンの底から地上まで道を開く。
だがここにドワーフはいない。ブローケたちの集落にも、ドワーフの姿はなかった。
「――そうだ! レオン、ダンジョンって、育ち切ると表に出るものなのですよね?」
「あ、ああ。そうだ」
「では、このダンジョンが育ち切るのを待てば脱出できるかもしれません。このダンジョン、かなりの歴史がありそうですから、意外と早くその時がくるのでは?」
ウルファネは苦笑する。
「それはかなり気の遠い、分の悪い賭けになりそうだよ」
「そうですか……」
「でも、女王の望みが叶う方法が、ひとつだけあるよ」
「教えてください!」
前のめりになるリゼットに、ウルファネはにこやかに告げる。
「代替わりを果たし、このダンジョンを完全に掌握することだ。そうすれば、このダンジョンのすべてが女王の思い通りだ。脱出路をつくることも」
「――甘言だ」
レオンハルトがリゼットを庇うように割り込む。ウルファネに敵意をむき出しにして。
「だとしたら、三層の住人たちはとっくに解放されているはずだ。お前の言うことは何一つ信用できない」
「はは、嫌われたものだね。それじゃ、いまの話はなかったってことで」
ウルファネは困ったように笑う。灰色の髪がさらりと揺れた。
「脱出方法はひとまず置いておいて――ウルさん、そろそろ教えてください。あなたはいったい何者なのですか?」
リゼットはずっと抱いていた疑問を直接投げかける。
――ウルファネ・アスライ。エルフであり、ダンジョンマスターであり、リゼットを女王と呼ぶ。リゼットが知るのはそれだけだ。
「――僕は、七賢者の一人だったものさ」
過去形で言う。
「エルフの特別な魔術師たちのことさ。ラニアル・マドールは言っていなかったかな?」
親しげにエルフの錬金術師の名前を呼ぶ。
「ではやはり、飾られていた絵に描かれていたのは――」
「そう。僕たちの姿だ」
ウルファネは世界を抱くように両手を広げる。
「この塔は僕の住処だった場所。ここを誰かに見せたのは初めてだ。少し恥ずかしいね」
少しだけ照れ臭そうに笑う。
しかしその表情はすぐに悲しげなものに変わった。
「ここで隠居生活をしていたのに、女神が訪れて、すべてが変わった……多くのエルフは女神に忠誠を誓ったよ。もちろん僕も。僕はめでたくこのダンジョンのマスターとなった」
いったいどれぐらい長い時間を生きているのか、想像もつかない。
「ずっとこのダンジョンの中にいたのですか?」
「そうだよ。ここからは世界のすべてが見えるし、何もかも僕の思い通りにつくれるし、不自由はない。時々女王たちと会えるし、時には珍しい生き物たちを観察もできる。アマスフィアと話もできるしね」
浮かべた笑みは、子どものように無邪気だった。
「……女神教会とはどのような関係なのですか?」
「仲間……いや、共生関係かな。持ちつ持たれつさ……ああ、そうそう。勘違いしないでほしいんだけれど、教皇のアマスフィアはヒューマンだよ」
ウルファネは秘密を明かすように言うが、リゼットは驚くよりも納得した。
確かにアマスフィアの身体的特徴はヒューマンの――それも幼い少女のものだったが、その精神構造は長命種のものだ。その瞳には深い知識が宿っており、視野が長く、個より全体を尊重する。
「教皇は、初代アマスフィアからの歴代の記憶を受け継いでいくんだ。だから代替わりをしても中身は変わらない。アマスフィアは、器が変わってもアマスフィアだ」
「…………」
「ただ、その情報量はヒューマンが受け止めるにはあまりにも膨大過ぎるから、長くは生きられないんだけどね」
ウルファネの口元に浮かんだ笑みには、アマスフィアへの慈しみと憐れみに満ちていた。
だがそれは、優しさではない。
自分よりも哀れなものに向ける、高慢さだ。
その時、レオンハルトが割って入る。
「それで、お前たちは結局何が狙いだ」
「僕は女王を守りたいだけさ」
ウルファネはリゼットを見つめる。静かな灰色の瞳で。
「ヒューマンはすぐに死んでしまう。どれだけ強くても、心も身体もあっという間に壊れる。女神はなんて無慈悲なんだろう……あまりにも可哀そうだ」
「…………」
「――ああ、怖がらないでほしい。女王を継ぐのは、そう悪いことじゃないよ。囚われの身のように思えてしまうかもしれないけれど、永遠に近い命が手に入る。それに、全然囚われじゃない。退屈でもない。世界のすべてが見えるんだから」
リゼットは目を閉じ、深く息を吸った。
呼吸を整え、自分自身を確認し、目を開いてまっすぐにウルファネを見る。
「私が望むのは、永遠の命でも、世界のすべてを見ることでもありません」
リゼットはゆっくりと胸に手を当て、その手で感じる鼓動を確認する。
それは辺りに響く巨人の心音とは違うリズムだ。リゼット自身の生命力だ。
「ただ見るだけより、その場に行きたい。孤独な永遠の命よりも、大切な人たちと同じ時間を過ごしたいですから」
リゼットが口にしたのは、ごく平凡な願いだ。
ウルファネはわずかな沈黙の後、すっと杖を下に向けた。
「――話の続きは、女王が使命を果たしたときにするとしよう」
現れたときと同じように唐突に、ウルファネの姿が消える。
彼の姿を見ていて、リゼットにもようやくわかってきた。ウルファネの抱いている孤独と、それに起因する歪な優しさが。
だが、それと共に歩むわけにはいかない。
リゼットはそっと右腕を触りながら、レオンハルトの顔を見上げる。
「――レオン。ひとつだけ、お願いがあるんです」