194 第五層の階段
エンシェントドラゴンの部屋の奥には、石造りの階段が現れていた。
帰還ゲートは近くにはない。
「やっぱり、帰還ゲートはなさそうですね」
「ああ。気をつけて行こう」
静寂の中、リゼットはレオンハルトと共に階段を下り始めた。
――第五層。
足音と呼吸の音が、灯火の魔法で照らされた空間に響く。
レオンハルトの後ろを歩くリゼットは、焦りと期待が混ざった緊張感を覚えながら、進み続けた。
――階段はいままで下りてきたものの中で一番長く、まるで終わりが見えない。
途中で座って休憩しながら、ひたすら進む。そのうち慣れてしまって、緊張感も緩んでくる。
突如、視界が揺らぐ。
まっすぐだった階段は、いつの間にか丸い塔の内壁に沿うように、階段は螺旋を描いていた。
遥か下からは、神秘的な黄金色の光が噴き出している。
壁はいつの間にか石造りから、ずらりと本が並ぶ本棚に変わっていた。
革の表紙に刻まれた模様や文字が、整然と並んでいた。
そして、本棚の本が時折するりと浮かび上がって、水中を漂う藻のように、あるいは蝶のように舞う。
「不思議な光景です……いったい何が書かれているのでしょう」
リゼットは壁の本を一冊手に取る。古代の知識と歴史を求めて。
そして、口元を歪める。
「……読めません」
「俺もだ」
本を覗き込んできたレオンハルトが、同じように無力感に満ちた声を零す。
ページの上にはリゼットたちにはわからない未知の文字が記されていた。
慎重に本を元の場所に戻し、別の本を手に取ってみるが、それも同様だった。まったく読めない。
リゼットは残念に思いながら、どこまでも続く本棚を見つめた。
一体どれだけの情報がその中に刻まれているのだろう。
だが、言語がわからなければ、それはただの模様の羅列に過ぎない。
「文字が伝わらなければ、過去は本当に失われてしまうのですね」
その時、遥か下の方からどくん、どくんと、一定のリズムを刻む音が響いてくる。
「なんだか、心臓の音みたいですね」
「巨人の音だろうか……」
――大地の巨人。
この音が心臓の音なのだとしたら。
「まるで、伝説の巨人の国――ヨトゥンヘイムだな」
「いよいよ底が近くなってきた気がしますね。……それにしても、モンスターがいなさそうなのは困りましたね」
「あ、ああ……」
いまは食料が豊富だが、食料は食べればなくなる。
この階段の終わりは見えず、目的地である巨人の心臓までどれぐらいの日数がかかるかわからない。
それに、目的を果たしたら戻らなければならない。
戻る分の食料は足りるだろうか。
(この階段を上るのも、いまから憂鬱ですね……帰還ゲートが現れればいいのですが)
あまり期待はしないことにして、冒険を再開する。
一段、また一段と螺旋階段を下りていく途中で、休憩所のような平坦な部分が続く場所が現れる。
「ここで休憩しよう」
「はい。それにしても、立派な絵ですね」
その部分は本棚も途切れ、代わりに大きな絵が描かれていた。
何かの話し合いの場面だろうか。絵画に描かれているのは七人のエルフだ。全員、鮮やかな衣装を身に着けて、異なる表情と姿勢で描かれている。
「どういう人々なのでしょう……あ、この人、ラニアルさんに似ていませんか?」
黒い髪に緑の瞳の、どこか幼い表情のエルフ。
リゼットたちの知る錬金術師ラニアル・マドールにそっくりだ。
「こちらはウルさんに似ている気がします」
「そうだな。言われてみれば、そうかもしれない」
「ええ。すごくロマンを感じながらも、なんだか身近な感じですね」
休憩を終えて更に進んでいくと、壁の様子が変わり始めた。本棚から、冷たく硬い石壁へ。そして暖かみを持ち、触れるとほんのりと柔らかな壁に。
リゼットは壁に手を当ててみる。
なんとなく生々しく、まるで呼吸をしているかのようだ。
「この壁……まるで生きているみたいじゃないですか?」
「……巨人の一部なのかもしれない。心音と同じリズムで動いているようだ」
「不思議ですね。巨人は死んでいるはずなのに……あ、なるほど。『母神の右手』が抜けているから、生きているみたいになっているのかも」
レオンハルトがなんとなく嫌そうな顔をする。
そんな会話を交わしながら、二人は下へ、下へと降り続けた。未知の深淵へと。
疲れては休憩をして、料理をして、就寝して。
「いったい何日、歩き続けているのでしょうね……」
休憩中、リゼットはげっそりしながら呟いた。
モンスター料理とレオンハルトの回復魔法に助けられて、何とか歩き続けられている状態だ。
「たぶん、三日目だ……」
――三日。もう三日、ひたすら階段を下り続けている。
リゼットは螺旋階段の中央にぽっかりと開いている穴を見つめた。
「いっそ穴に飛び込みたくなりますね」
「――リゼット」
「風魔法で無事着地できれば、かなりの時間短縮にもなると思います」
「底がどうなっているかわからないし、失敗したときが怖すぎるから賛成できない」
「レオンはいつでも理性的ですよね……尊敬します」
言いながら、アイテム鞄の食料を覗く。そしてため息をつく。
確保しておいた肉や野菜、パンも残すところわずかだ。とっておきのドラゴンフルーツも二人で分けて食べてしまった。
本当のとっておき――エンシェントドラゴンの肉は、すべてが終わったときの楽しみとして大切に取ってあるが、この分ではすぐに手を付けることになるだろう。
「…………」
じっと壁を見る。
生々しい肉壁を。
「この壁、本当に生きているみたいですよね」
「リゼット……まさか……」
「食べてみましょう」
「流石にそれは!!」
レオンハルトは顔を真っ青にし、驚愕と恐怖に声を震わせた。
「これはきっと、巨人の一部だ。ひ、人型のモンスターは食べないって約束だったじゃないか」
「でも、他に食べるものがありませんし。苦肉の策です」
「絶対に楽しんでいる……」
リゼットは意気揚々とオリハルコンの包丁を取り出す。
「怯んではいられません。モンスター料理愛好家として!」
リゼットは包丁を握る。新たな冒険の一幕を開くために。
「お願いだから、これだけはやめてくれ!」
「どうしてですか?」
いままでたくさんのモンスターを食べてきた。
だが、健康に害はなかった。しっかり火を通し、解毒し、料理し、しっかり噛んで食べてきたおかげもあるだろう。
なのになぜ、こんなに反対するのだろう。
「――直感だ!」
「……なら仕方ありませんね。レオンがそこまで言うのなら――」
リゼットは渋々包丁を下ろす。
レオンハルトがそこまで嫌がられるものを食べさせるのは、さすがに気が引ける。
「よかった……本当によかった……」
レオンハルトはあからさまにほっとした顔をした。
「――今回の女王は、最高にエキセントリックだなぁ」
楽しそうな笑い声が響く。
振り返ると、ダンジョンマスターのウルファネが、虚空に浮かんで笑っていた。