181 記憶の喪失
頭の奥がずきずきと痛む。
目を開くが、何も見えない。
「明かりはどこに――」
その声に応えるかのように、ぽつりと灯火が生まれる。
びっくりして見つめるが、その火は熱くもなく、激しくもない。優しく静かに辺りを照らし出す。
明かりを頼りに周囲を見渡す。
「地下の倉庫かしら……」
壁に沿うように組まれた棚に、あちこちに積み上げられている木箱や麻袋らしきもの。
肌に触れる地面や空気は冷たく、いかにも地下の貯蔵庫という雰囲気が漂っていた。
――どうしてこんなところに寝ているのだろう。
不思議に思いながら立ち上がる。
冷気で身体が完全に冷えてしまっていた。――寒い。
出口を探してみるが、ドアが見当たらない。
近くを漂う灯火を頼りに、あまり広くもない室内をくまなく探す。やはり出口はない。あまりの進展なさに悲しくなってきて、思わず上を仰いだ時――天井に扉らしきものを見つける。
しかし、一メートルほどの距離があまりに遠い。
きょろきょろと辺りを見回すが、梯子のようなものはない。
木箱を移動させることはできるが、その上に乗っても届きそうにない。木箱を積み上げるのは、大きさ的にも重さ的にも無理そうだった。
(手詰まり……?)
自分では何ともできなさそうだった。もっと声を上げてみようか。
誰かが助けてくれればいいが、危害を加えられる危険性もある。まったく状況がわからない。
――それに、運命を誰かに委ねたくない。
唇を噛んだ瞬間、目の前で炎が爆ぜるように広がった。
赤い光が膨らみ、空間を照らし尽くす。
そして、炎の中から赤い髪の少女が現れる。
空中にふわふわと浮き、腕を組み、胸を張り、自信に溢れた表情で見下ろしてくる。
『我は女神』
「女神様……?」
『うむ。お主の使命は母神と一体化すること――早く――…持っとらんじゃないか!』
「はい? ……何をですか?」
『置いてきたのか? 信じられん! 肌身離さず持っておけぃ!!』
――理不尽に怒られている気がする。
訳がわからず困惑していると、今度は目の前に水の塊と、それを纏う少女が現れた。
『お姉様、超ダサいですの』
『なっ……なんだと!?』
『弱っているところに付け込もうなんて、すーっごくダサいですの』
『うぐぅ……だが……』
『わたしたちは見守るだけであるべきなのです。そういう契約なのですから』
水の少女が諭すように言うと、火の少女は苦々しい表情をして消えた。そして水の少女も消える。
「いまのは、何……? 幻覚……? 幻聴……?」
現実なのか。幻なのか。
まったく訳がわからない。闇に呑まれた迷路の中にいるようだ。
そして、気づく。
「――私は、誰……?」
最も根本的な疑問が浮かぶ。
自分が何者なのか。ここがどこなのか。これからどうするべきなのか――そんな疑問が次々と湧き出してくる。
しかし、答えは何ひとつ浮かんでこない。
(――どうしよう、何もわからない)
混乱は増すばかりで、希望の灯火が見えない。すべてが真っ暗闇の中に飲み込まれていく。
(……何か手掛かりになるようなものはないかしら)
それがあれば、この状況に立ち向かう力になる。
切なる思いを胸に、身に着けてある腰のポーチを探った。そして、硬い質感の四角く平たいものに触れる。
「これは――」
ポーチから出てきたのは、手帳だった。
灯火を頼りに、中を見てみる。
そして目を見開く。
そこに記されていたのはモンスターの記録。そしてモンスターの料理の記録だった。
解体時の注意点、美味しい部位、試した調理法、次に試してみたい調理法、味に食感。詳細に書かれている。ただの妄想とは思えない。これは記録だ。実際あったことの記録。
「なんてこと……」
手と声が震える。
「なんて……なんて、面白いのかしら」
リゼットは夢中で手帳をめくった。
なんて刺激的、そしてなんておいしそうな内容だろう。
そして、ふと気づく。
文中のあちこちに、同じ名前の記述があることに。
「レオン……ディー……」
それぞれの名前に続くのは、料理に対する感想や評価だ。
長らく行動を共にしていることが推察できる。
不思議な気持ちが湧いてくる。胸があたたかく、同時に締め付けられるように苦しい。
その時、後ろの方のページからひらりと紙が落ちる。
すぐに拾って見てみると、知らない文字が目に入る。それでも何が書いてあるかは自ずと理解できた。
「――レオンハルト・ヴィルフリート……」
そしてその下に。
「リゼット……」
知らない文字だが、何故か自然と読み方がわかった。
とても懐かしく、しっくりとくる響きだった。
「――そう。私は、リゼット」
もう一度声にして、胸に刻む。
それこそが自分の名前であると自信が持てた。
「レオンハルト……この方はどのような方なのかしら……」
手帳に何度も何度も登場していたレオンと同一人物だろうか。
肉が好きで、苦手なものは特になさそうで。
そして何よりも、優しくあたたかい人柄が記述からは伝わってきていた。
綴られている名前を指でなぞり、リゼットはその紙を再び手帳に大切に挟んだ。手帳をポーチに戻し、冷たい地面からゆっくりと立ち上がる。
――ここから出たい。
そう、強く思う。
「何か、他に踏み台があれば――」
声に応えるように、地面が盛り上がる。
驚いているうちにそれはみるみる階段の形に変わり、天井の扉に手が届きそうなぐらいになる。
リゼットはゆっくりとその階段を上り、扉を押し開けてみる。
しかし、動かない。鍵がかかっているのか。上に何か乗っているのか。
リゼットはひとまず階段から降りて、床の少し離れた場所から天井の扉を見つめた。
いままでの経験から、望めば何かが起こることはわかっている。
「えいっ」
蓋に向けて意識を飛ばすと、扉が爆散した。
ボンっと音を立ててバラバラに崩れ落ち、破片が落ちてくる。
光は差し込んでこないが、少し空気が新鮮になったような気がする。
リゼットは再び階段を上り、今度こそ地下倉庫から脱出した。
地下から上に出るが、そこも知らない場所だった。どうやら誰もいない民家のようで、明かりの一つもなかった。
いまは物置になっているようで、木箱やら袋が積んである。
ドアを発見するが、外から鍵がかかっていた。
「えいっ」
破壊のイメージを持って気合を入れてみると、鍵の部分が爆散する。
リゼットは深呼吸をして心を落ち着け、警戒しながら外に出る。
ひやりとした風が髪を揺らす。
外も闇に閉ざされていたが、空からの星明りが周囲を照らしていた。
顔を上げれば満天の星がきらきらと瞬いていた。
(なんて、星がきれい……)
そして自分の近くを漂う灯火を見つめる。
「この明かり、邪魔かも……」
呟いた瞬間、灯火が消えた。
一瞬暗さが増すが、すぐに星明りに目が慣れる。
リゼットは改めて周囲を見た。
どうやら集落の外れのようで、周囲に人の気配はない。家はあるが、誰も住んでいないようだ。
しかしそこがどこなのかはわからなかった。近くに畑が広がっていることだけはわかる。
下を見てみると、地面に足跡が見えた。つい最近誰かが通ったのだろう。
記憶を失ったリゼットにとって、唯一の手がかりだ。足跡を辿って歩き出す。
(何も覚えていない……これはきっと記憶喪失というものね)
歩きながらリゼットは、状況を冷静に確認していた。
記憶はまったくない。自分が何者で、どこから来たのか、何をしたかったのかも。
手がかりは手帳に書かれたモンスター料理の記録と、レオンハルトとディーという名前。
(それにしても静かね……)
その時、遠くの方から人々のざわめきと、高く鋭い女性の声が聞こえてきた。
リゼットは建物の陰に隠れるようにして立ち止まった。
ざわめきに近づくべきか、それとも逃げるべきか迷う。
きっと自分は何者かに閉じ込められていた。
見つかれば、助かるかもしれないが、また同じことが起こるかもしれない。次は、もっとひどい目に遭うかもしれない。
悩んでいたその時、急に後ろから口を塞がれ、利き手を掴まれた。
驚きと恐怖で固まっているところを強引に後ろに引かれ、身体がぶつかる。
その力は強く、抵抗できなかった。
「――静かに。手荒な真似はしたくない」
男の声が耳元で響く。
声は緊張しているが、理性を感じられる声だった。
リゼットは黙ってこくこくと頷いた。
口と手が解放される。
身体は自由になったが、竦んで動けない。
「ゆっくり振り返るんだ」
声が再び響く。
リゼットはその言葉に従い、ゆっくりと振り返った。
そこには金髪の男性が立っていた。
顔立ちは整っており、鍛えられた身体は均整がとれている。格好はとても軽装だ。集落に住む人間だろうか。それにしては――ひどく、気が立っているように見える。
エメラルドのような緑の瞳が、リゼットを見つめていた。
(誰――?)