178 第三層の住人たち
階段を下りた先に広がっていたのは、広大な緑の草原だった。
風が光りながら吹き抜ける。空は青く透き通っていて、すべてを鮮やかに映し出していた。
「なんて開放感……まるで、外を旅しているかのようですね」
リゼットは感激しながら新緑の草原を見回し、手を伸ばして風に揺れる草花に触れる。微妙な湿り気を含んだやわらかさが伝わってきた。
「これは、綿花です……ダンジョン内でこれが咲いているなんて」
綿布の材料となる植物だ。細い茎から白く膨らんだ綿毛が風に乗って揺れていた。
丘陵の草原を進んでいくと、レオンハルトが何かに気づいて身を低くする。
「アクリスだ」
レオンハルトの視線の先には、大型の獣の姿があった。
【鑑定】アクリス。大きく平たい角を持つ草食モンスター。
「アクリス……とても大きくて、立派な角ですね」
一見、大きな平たい角を持つ、大柄な鹿のようだ。野生の力強さと、どこか気だるげな、のんびりした動きが印象的だった。
「あんなとぼけた顔してて、危険なモンスターなんだろ? 騙されねーぞ」
「いや……人間に危害を加えることはないし、致命的な弱点がある。後ろ足を見てくれ」
レオンハルトに言われて後ろ足に注目する。
「――膝がありません。一本の棒のようです」
「あの構造のせいで、アクリスは倒れると起き上がれない。大抵はそのまま死んでしまう」
「何だよその儚い構造はよ」
アクリスを更に観察する。
「後ずさりしながら草を食べています」
「首が短いのに後ろ膝がないから、ああするしかないんだろう」
レオンハルトは言いながら、近くにあった草をちぎり、風に飛ばす。
「ちょうど風下だな。身体を隠しながら接近しよう」
草で身を隠しながら、ゆっくりとアクリスに近づいていく。
ようやくアクリスまでの距離が縮まったところで、リゼットは魔法を放った。
「ストーンピラー!」
アクリスの足元から石柱が生える。足を取られたアクリスはバランスを崩し、地面へ倒れ込んだ。
「あれでもう起き上がれない」
「なんか……哀れになってきた」
レオンハルトが剣で静かに止めを刺す。
リゼットは水魔法で獲物の熱を下げ、浄化魔法で汚れを取る。
そして解体を進めていく。
「本当に立派な角ですね……あら? これは傷でしょうか」
角の隅に、深く刻まれた痕跡のようなものがあった。
「オス同士で戦い合って、傷がついたりするんだろう」
アクリスの解体が終わると早速料理をしていく。解体時に取れたフィレ肉でステーキをすることにした。
周辺には食べられそうな野菜も多く生えていたので、スープも作ることにする。
「どうしてこんなに食べられそうなものが生えているんでしょう……? このトマトのような実も、この葉も、このイモも――まるで、誰かが種を持ち込んだか、近くで栽培されて種が飛んできたかのようです」
「元から自生してんだろ?」
「ここに訪れた誰かの荷物に、種が混じっていたかもしれないな」
火をおこし、肉を焼くのをレオンハルトに任せ、リゼットはスープを作る。
野菜を細かく切って、軽く炒めて、水を加えて旨味をじっくりと引き出していく。塩とスパイスで味を調えて完成だ。
「アクリスのフィレステーキと、ダンジョン野菜の具沢山スープ……どちらもとてもおいしそうです。いただきます」
リゼットはまずはステーキを食べた。
じっくりと焼けた肉から、香ばしい匂いが誘うように立ち昇ってくる。
「おいしい!」
ステーキの表面はカリッとしていて、中はジューシーで旨味がたっぷり詰まっている。
ダンジョン産の新鮮な野菜たっぷりのスープは、地上の野菜で作るのとは少し違う風味がする。
それらが身体の中で肉の旨味と合わさって、深みを増して、とても美味に感じた。
「ダンジョンの恵みに感謝します……」
「アクリスってやつ、地上にいたらあっという間に全滅してるだろ」
ディーが肉を噛みながら言う。
「俺なら、家畜として繁殖させるかな」
レオンハルトの考えに、リゼットは笑いながら頷いた。
「それは、とても素敵でしょうね」
その光景を想像し、思いを馳せる。その平和さと暖かさに笑みが浮かんだ。
「こらー!」
風に乗って響いてきた女性の声に、現実に引き戻される。
驚いて顔を上げると、茶髪の女性が丘を駆け下りてくるのが見えた。
女性はあっという間にリゼットたちの前にやってきて、焼いているアクリスの肉を強く指差す。
「あたしのアクリスを勝手に食べるなんて!」
「あ、あの――」
リゼットは戸惑うばかりだった。
ダンジョン内で他の人間に出会うことにも、アクリスを自分のものだと主張されることにも。
「とぼけたって無駄だよ。ほら、この角のところに、目印描いてるんだから」
彼女が指差すアクリスの角には、確か特徴的な四角い模様が描かれていた。傷と思ったものだ。
「あ、そ、そうなんですね。大変申し訳ありません。弁償しますので。ミノタウロスの肉と交換でいいでしょうか?」
食材の弁償は食材で。ダンジョン内で普通の通貨が通用すると思えなかった。
「ミノタウロス? ん? んん? ……もしかして、君たち新入りさん?」
形の良い眉をひそめて、じっとリゼットたちを見る。その目は少し冷ややかで、だが好奇心を帯びている。
ふっと顔から怒りが消え、楽しそうに笑った。
「なんだぁ。じゃあ、今回は大目に見てあげる。後で労働で返してもらうことにするね。あたしはブローケ、よろしくね!」
その笑顔は新鮮な風のように爽やかだった。
「うぅ~ん、やっぱりアクリスは最高だぁ。このスープもおいしいぃ」
ブローケと一緒に食事をし、自己紹介も行なう。
「リゼット、レオンハルト、ディー――うん、覚えた。ダンジョンの住人同士、これからよろしく。あ、ミノタウロスの肉も、よかったら少し分けてよ」
「はい、それはもちろん……それで、あの――ここは、ダンジョンの中ですよね?」
自分の問いがどれほど奇妙なものであるかは理解していた。
だが、もしかしたら、気づかないうちに外の世界へと抜け出してしまったのではないかと思ってしまう。
それくらいブローケの態度や人柄は普通だ。
リゼットの言葉に、ブローケはにっこりと笑う。
「そうだよ。あたしたちはダンジョンの中で生きてるの」
すべて食べ終わり、片づけも済んで立ち上がる。
「ほら、こっちこっち」
ブローケは小高い丘を指差し、その方向へと軽やかに足を進めた。
リゼットたちは顔を見合わせつつも、ブローケの後姿を追って、草原を歩きだす。
まるで夢の中にいるような不思議さだった。
だが、風が頬をくすぐる感覚も、花や草や土の香りも、踏みしめる地面の感触も、すべて現実感に満ちている。
「あそこがあたしたちの村」
ブローケの指差す先には、信じられない光景が広がっていた。
家が建ち並び、外を人々が行き交っていた。緑が茂る畑が整然と並び、牧場ではモンスターが放牧されていた。
それはまさに一つの村、人々が生活を営む場所だった。
これが他のダンジョンなら、ダンジョン内で生活をしているなんてすごいと思っただろう。
だがこのダンジョンは、普通のダンジョンとは違う。
「詳しいことは、歩きながら話そう。ほら、行こ」
ブローケは颯爽と歩きだす。
リゼットたちは顔を見合わせたが――
「――行ってみましょう」
リゼットは決断し、ブローケの後を追いかけた。