173 遺物の欠片
「――あら?」
リゼットは物音に気づいて顔を上げ、耳を澄ます。
「井戸の方から声がしませんか?」
「ぎゃああああ!!」
「ディー……」
ディーが怯えてレオンハルトの後ろに隠れる。
レオンハルトは呆れた表情で剣を鞘に納める。
「井戸は異界に繋がっていると言われる。それでなくても暗くて狭い水場だから、レイスやサーペントとかが棲みつきやすい」
「蛇は普通喋れないでしょうから、やはりレイスでしょうか」
三人で家の中に戻り、井戸のある裏口の方へ向かう。
「お、おい、見に行く気か?」
「放っておいて眠れないでしょう?」
「そりゃそーだけどさぁ……」
裏口の前まで移動する。やはり声は、この扉の向こうから聞こえてきている。
「ディー、鍵を開けてください」
「マジかよぉ」
渋々、ディーがピッキングツールで裏口を開ける。静かにカチッと音を立てて扉が開く。
扉の先――暗闇で静かに存在する古井戸から、煙のようにレイスが立ち上っていた。
淡い金髪に、透き通るように真っ白な肌、そして本当に透き通っている身体。
『こんばんは』
レイスは、リゼットを見て親しげに微笑む。
その表情にはなんとも言えない安らぎが宿っていた。
「……エルテリアさん?」
半信半疑で名前を呼ぶ。
井戸に浮かぶレイスの気配は、大聖堂の神の座で出会った聖女――エルテリアと同じものだった。
深淵のような灰色の瞳の持ち主は、こくりと頷き、少女のように微笑む。
『……以前、ここに落ちかけたことがあるから』
視線が、井戸の底に向く。
『きっと、わたくしの一部が残っているのね』
「エルテリアさんも、このダンジョンに潜ったのですね」
考えてみれば当然のことだ。エルテリアも『母神の右手』を持って、ダンジョンを潜ったはずだ。使命を果たすために。
「――それが聖遺物となった、ということでしょうか。エルテリアさん……貴女は、女神になったのですか?」
『さあ……わたくしにはわからない……』
エルテリアは困り顔で首を横に振る。
『わかることは、ひとつだけ……貴女に、お願いがあるの』
星のように煌めく瞳が、リゼットを見つめる。
『――あのイヤリングを、返してあげて――』
その次の瞬間、エルテリアの姿が消えた。まるで最初からいなかったかのように。
リゼットは最初の穴底で拾った、エルテリアのイヤリングをアイテム鞄から取り出す。
「エルテリアさんの言っていたのはこれでしょうね……」
「外に出ろということでしょうか。それとも、このダンジョンにいるのでしょうか……?」
「ダンジョンの中で生きてられるかぁ?」
「……最初の落とし穴さえどうにかなれば、生きていくことはできそうな気はする」
「はい。キノコも花もありましたし、植物があります。他にもっと住みやすい階層もあるかもしれません」
もしそんな階層が存在するのなら、誰かが生きている可能性は充分にある。
――このイヤリングを返す相手も、ダンジョンにいるのかもしれない。もしダンジョン内にいなければ、外の世界で探すことになる。
「――承りました」
井戸に向けて語りかける。もうそこには誰もいないとわかっていても。
「そろそろ休みましょう。私が最初に番をしますね」
寝室で寝ずの番をしながら、リゼットは窓から外を見ていた。
空に月はなく、雲に覆われて星も見えない。そもそも星も存在しないのかもしれない。
光のない世界を深い闇が包み込んでいて、まるで時間が止まったかのようだ。
暗闇を眺めるリゼットの心に映し出されるのは、エルテリアの姿だ。
――美しかった。神々しいばかりに輝いていて、光そのもののようだった。
そして、恐ろしかった。
エルテリアのあの姿は、リゼットの未来の姿かもしれない。
「…………」
身体が震える。
――もし、自分がエルテリアのようになったら。このダンジョンのあらゆるところに現れるようになるのだろうか。
それとも、これまでに旅した各地に、生きた証を残した場所に、姿を見せるようになるのか。
そのとき、リゼットに意識はあるのか。
それともただの亡霊なのか。
――自分がどこまで自分であり続けることができるのか。
いくら考えても、そんなことわかるはずがない。それでも、嫌な予感ばかりが胸をよぎって止まらない。
このまま暗闇にどこまでも沈んでいってしまいそうだ。
――ふと、灯火の光が揺れ、微かなざわめきが起こる。
レオンハルトが目を覚まし、身体を起こしていた。
「まだ大丈夫ですよ」
眠りの続きを促す。
寝ずの番を交替したところで、どうせ眠れない。
「いいから交替しよう」
レオンハルトがベッドから降りる。声は柔らかいが、頑なだった。
リゼットは言われるままにレオンハルトの寝ていたベッドの方に行き、靴を脱いでベッドに入る。シーツには体温が残っていて、その暖かさに安心する。
座ったまま顔を上げると、レオンハルトと目が合う。
そのエメラルドグリーンの瞳には、包み込んでくれるような優しさが宿っていた。
――ぐっ、と胸が苦しくなる。言葉にならない感情が込み上げてくる。
「レオン……私、怖いんです」
思わず、本心が零れ落ちる。
そして一度溢れ出した感情は、押さえ込むことができなかった。
「自分が消えてしまうのも、自分を失ってしまうのも……怖いんです」
「…………」
「でも、一番怖いのは――……おふたりを、このままここに閉じ込めてしまうことです……」
自分だけのことなら、きっと耐えられる。
だが、ふたりを巻き込んでしまったら――……想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。
「ダメですね。弱気になってしまって」
自己嫌悪まで零れてしまう。
弱さを口にしてしまったことを、情けなく思う。
だが、誤魔化したくなかった。弱いところを見せたくないが、本当の気持ちを知っていてほしい。覚えていてほしい。忘れないでいてほしい。
「大丈夫だ」
レオンハルトの声が、力強く心に響く。
彼の大きくて暖かい手が、リゼットの手を優しく握る。
「絶対に何とかなる。俺たちは、全員でここから出られる」
それは、冒険者のおまじないだ。リゼットが祖母から教えてもらい、レオンハルトに言ったことのある言葉だ。
レオンハルトの中に、自分の存在が刻まれている。
そのことをリゼットは嬉しく思い、安心した。
レオンハルトの手に自分の手を重ね合わせ、微笑む。
「――はい。私たちは、一緒にここから出ます」
「ああ。そのためにも、いまは眠って力を蓄えるべきだ」
「はい、おやすみなさい」
ここから出るために、力を蓄えなければならない。食事と休憩の大切さを改めて思い出し、リゼットはベッドに横たわった。
眠りに落ちる瞬間まで、レオンハルトの言葉が胸に響いていた。