168 レッドクラーケン
セイレーンの羽根が浮かび上がってくる水面を、巨大な存在が奥から荒らす。
水面が盛り上がり、真紅に染まった触手が飛び出してくる。それは丸太のように太く、長さも人間の身の丈をはるかに超えていた。表面は不揃いの吸盤がついていて、次の獲物を探すように不気味に蠢いていた。
「赤い――クラーケン?」
レオンハルトの声が洞窟に響く。
リゼットは外した耳栓を鞄に入れ、ユニコーンの角杖を手にする。
「私、知っています……この色は――タコです!」
【鑑定】レッドクラーケン。嵐と共に圧倒的な暴力を拭き荒らす。
水飛沫と共に、レッドクラーケンが襲い掛かってくる。
波のように変幻自在に躯を蠢かせ、無数の足の内の二本が、バラバラの動きで振り下ろされてくる。
当たれば押し潰される。
かすめれば弾き飛ばされる。
【聖盾】
空気を裂く音と共に下りてきた足を、レオンハルトの魔力防壁が弾き返す。透き通った盾は煌めき、強力な一撃を跳ね返す。
だがすぐに別の足が迫ってくる。まるで別個の生き物のように。
レオンハルトは黒い剣を抜き、迫りくる足を斬り落とした。
「凍れ!」
リゼットは水面を凍らせ、レッドクラーケンの動きを鈍らせる。分厚い氷が瞬く間に池の表面を覆い、足の動きを阻む。
だが、その氷の表面にひびが入る。
めきめきと音を立て、氷を割って飛び出してくるレッドクラーケンの頭。
丸みを帯びた身体の一部が現れると、二つの目が見開かれた。巨大で黒く、無機質な輝きが、リゼットたちを見つめる。
レッドクラーケンが黒い粘液を吐く。黒い液体が周囲を侵食する。
【聖盾】
再びレオンハルトの魔力防壁が黒い粘液を防ぐ。
さらりとした墨が辺り一面に広がり、地面と氷を黒く染めた。
【水魔法(神級)】
「フリーズランス!」
氷槍がレッドクラーケンの目の間に突き刺さる。
【魔力操作】
「凍れ!」
リゼットは刺さったままの氷槍に更に魔力を注ぎ込み、レッドクラーケンを身体の芯まで凍らせた。
すべての足と全身が凍ったレッドクラーケンは、池の中で氷像のように固まった。
「勝ちました?」
「ああ、勝った」
レオンハルトの声を聞き、リゼットは安心して息を吐いた。
「足が全部で八本……形状も違うし、太くて力強い。クラーケンとは全然別種のモンスターだな」
レオンハルトはレッドクラーケンの氷漬けをまじまじと見つめ、興味深そうに言う。
ノルンのダンジョンで見たクラーケンは、イカと同じく十本足だった。
「クラーケンはイカっぽかったですが、こちらは足の数といい、色といい、タコにすごく似ています。早速料理しましょう」
「さっき熊食ったばっかだろ……」
ディーが呆れたように呟く。
確かに、いまのリゼットは満たされている。レオンハルトとディーもそうだろう。
「そうですね……とりあえず凍らせておいて、休んだ後で処理しましょう」
リゼットはクラーケンを更に大きな氷で包み、池もしっかりと凍らせる。休んでいる間に溶け切って、沈んでしまわないように。
「――おい、池の向こうに階段があるぜ」
ディーが対岸を遠目で見ながら言う。目を凝らすと、青い光を帯びた壁の中に、黒い四角の穴があった。
「レッドクラーケンがボスだったんだろうな。探す手間が省けた」
池から少し離れたところで結界魔法を使い、キャンプ地をつくる。魔法の火をおこし結界の中央で燃やす。
次はレオンハルトが寝ずの番をすることになり、リゼットは心地よい疲労感に包まれながら、そしてレッドクラーケンを食べることを楽しみにしながら眠りについた。
途中で交代して、レッドクラーケンが凍っているのを確認して、念のために更に凍りつかせて。
全員が充分な休息を取ってから、レッドクラーケンの解体に取り掛かる。
「誰にも横取りされていなくてよかったです」
「誰が食べんだよ、こんな不気味なもん」
「見かけは少々アレですが、タコならきっとおいしいですよ」
「はあぁ……マジで食うのか……」
げんなりしているディーに、レオンハルトが声をかける。
「あまり見た目はよくないが、クラーケンはおいしかった。きっと、このレッドクラーケンも問題なく食べられる」
「なんの気休めにもなんねえ……」
リゼットは氷を融かし、完全に凍っているレッドクラーケンの身体を端から解凍していく。肉を切り出して、よく洗ってぬめりを取る。
解体中に、レオンハルトの手が止まった。
「墨袋がある。あと魔石も」
「まあ、タコ墨ですか?」
リゼットの喜びの声が洞窟に響き渡った。
ディーが「げぇ」と呻き声を上げる。
「どうすんだよ、そんな墨。インクにでもすんのか?」
イカ墨は茶色の顔料として使われることもある。
「食べられそうですよ」
「お前……本気で言ってるのか?」
「ちゃんと味見してからにしますから、安心してください」
解体の続きを任せて、リゼットは朝食の準備をしにいく。
レッドクラーケン墨はオリーブオイルと共に煮詰めていき、念のためユニコーンの角杖の先で一混ぜして解毒する。
軽く味見をしてみると、口の中に強い旨味と風味が広がり、リゼットは顔をほころばせる。
「あっ……これは美味の予感です」
数々のモンスター料理の経験から、直感でそれがわかるようになっていた。
パスタを茹でるための湯を沸かしながら、レッドクラーケンの身を少し小さめ――食べやすい大きさに切っていく。
少し芯が残った状態のパスタと、レッドクラーケンの身を一緒にフライパンで火を通していく。火が通ることでレッドクラーケンの皮部分はますます鮮やかな赤色に、中の半透明の身は乳白色になり、パスタも絶妙な加減になる。
最後に黒々とした墨ソースを入れて、香り高いオリーブオイルをかけて。すべてが一つになり、食欲を誘う香りが漂う。
「できました! レッドクラーケンの墨パスタです!」
全員で火を囲んで座り、早速食べていく。
つるつるとしたパスタ、その表面にまとわりつく墨ソースと、具材のレッドクラーケンが一体となって、深い旨味と風味が口の中で広がっていく。
リゼットは本物の海を知らないのに、まるで海の中にいるかのようだ。
「この味……ぷりぷりとした歯ごたえ……たまりません。いくらでも食べられそうです」
「ソースの旨味がすごい……身もコリコリしてて、食感がおもしろいな」
リゼットはすっかりレッドクラーケンの味に魅了される。レオンハルトも興味深そうに食べている。
ディーはリゼットたちの様子を見ながら、慄きながらも、慎重に食べ始めた。
「――あ、うめえ」
心底意外そうに感嘆を零す。
「クラーケンとはまた違った味わいです。本当に世界は広いですね。もしかして、ブルーやグリーンのクラーケンもどこかにいるのかも?」
「スライムじゃないんだから……でも、もしかしたら、どこかにいるかもしれないな。外の海にだって、似たようなモンスターがいるんだ」
レオンハルトの言葉に、夢がますます広がっていく。
残ったレッドクラーケンの身は凍らせ、アイテム鞄に入れる。
片づけを終わらせ、出発の準備を整えて、リゼットは池の対岸を見た。
「では、そろそろ池を渡って、階段を下りましょうか」
「それはそうと、帰還ゲートはねえのかよ」
「そういえば……ないですね」
帰還ゲートは基本的に階段のすぐ近くに出る。
出ないダンジョンもあるが。
「ないものは仕方ありません。行きましょう」
【風魔法(初級)】【魔力操作】
「ウィンドリフト」
風魔法を使うと、微風が足元をくすぐり、ほんのわずかに身体が浮く。
ふよふよと不安定に浮かぶリゼットを見ながら、レオンハルトとディーはどこか乗り気ではない表情を浮かべた。
「この前とほっとんど変わんねぇように見えるけど……なあ、これ、池の途中で魔法が切れたらどうなるんだ?」
「もちろん水の中でしょう。困りましたね。私、泳げないんです」
言い終えると同時、ふわりと風魔法が解け、すとんと地面に下りる。
これが水の上でだったら、まっすぐに水の中に沈んでいっていただろう。
「ピンチに対して呑気すぎねえ……? お前、これが水の上だと溺れてるぞ」
「浅いならともかく、あのレッドクラーケンが棲んでいた場所だ。おそらく相当深いし、水中で別の場所と繋がっているかもしれない」
「どこに繋がるかは気になりますが……水中探索は厳しいでしょうね」
ディーがため息をついて、髪をくしゃりとする。
「お前、色んな魔法が得意なくせに、風は全然だよな」
「風魔法はなんだか、感覚がつかみにくいんです。瞬発力ではなく継続力が大事みたいで。――この調子で、あの大穴を登れるのでしょうか……」
弱気が零れ、リゼットは慌てて口を噤んだ。
「誰にだって得手不得手はある。得意なところを伸ばせばいい」
「ありがとうございます……」
レオンハルトが改めて池を見る。
「俺たちは泳げるからリゼットを助けられるけれど、水中でモンスターに襲われると厳しい。ここは水面を凍らせてもらって渡る方がいいと思う」
「そうですね。厚い氷で覆ってしまえば、水中モンスターに襲われることもありませんものね!」
リゼットは岸から階段の見える対岸まで、一気に氷の道をつくった。
分厚い氷の道の上に乗る。やや滑りそうになるが、揺れもせずに安定感は抜群だ。
「さあ、行きましょう!」
氷の上を慎重に歩いて対岸へ辿り着き、階段を下りていく。
更なる深淵へ向かって。