167 セイレーンの歌声
ウルファネの姿が、現れたときと同じように唐突に消える。
リゼットはびっくりしたまま、ウルファネがいた場所をじっと見つめた。
「不思議な方ですね」
「ダンジョンマスターと言うのは本当みたいだけど、あまり信用はしない方がよさそうだ」
レオンハルトが冷静に言い切る。
「そうですね。ではとりあえず、竜鱗果を食べましょう」
竜鱗果をひとつ取り出し、赤い実を縦に三等分に割る。
真っ赤な皮の中には、黒い種がたくさん浮かんだ、雪のように白い果肉が詰まっていた。
「おいしい……シャクシャクしてますね」
たっぷりの果汁が溢れ出して、喉を潤していく。
「うん。さっぱりした甘さだ。おもしろいな」
「見た目派手な割に、味薄いのな」
アウルベア肉の一部はジャーキーにすることにして、塩とスパイスで一晩漬け込む。明日になれば塩抜きをして乾燥させることにして、今日の探索は一度終わらせることにした。
「ナイフ研いどくから、お前ら先に寝てろ」
そう言ってディーが最初に寝ずの番となった。
リゼットは就寝準備を整えて、装備を外して枕元に置き、寝袋に入る。
ナイフを研ぐ音を聞きながら、横になって目を閉じる。いつものように心地いい疲労感に包まれて、休息を取ろうとしたのだが。
(――眠れない……)
いつもはすっと寝付けるのに、今日は全然眠れない。いつまでたっても睡魔が訪れない。
つい考えごとをしてしまい、胸がざわついて、頭が冴えてしまう。
ダンジョンのこと。
これからのこと。
いまできるのは進むことだけだ。
わかっているのに、進むことが怖い。
ダンジョンの中で何と出会うのか。
ダンジョンの最奥で、何が起こるのか。
(せめて、おふたりだけでも外に――)
巻き込んでしまったふたりを、こんな暗い場所で終わらせるわけにはいかない。
ストレッチでもして心を落ち着けようと起き上がると、ディーと目が合う。
「眠れねぇのか?」
「はい……」
「ま、あんまり気にすんなよ。難しいだろーけどさ」
ディーはナイフを見つめ、研いだ刃の調子を確かめながら言う。
「オレもやらかしたことあるからな」
にっ、と笑う。
「いちおう言っとくけど、あいつは自分から落ちたし。オレだってヤバい橋渡ってるのはわかってたし。一個もお前のせいじゃねーからな」
「…………」
研ぎ上げたナイフを地面に広げた布の上に置く。三本目だ。
「お前も苦労してんよなー。適当なとこで全部投げ出して平和に暮らすこともできたろーにさ」
「……そうですね。そういう生き方もあったと思います。でも私は、おふたりと一緒に自由に冒険ができることが、楽しくて仕方なかったんです」
「ま、お前らしーけど」
「付き合ってくださってありがとうございます」
「……いまさらお前を見捨てて、まともに生きていけねーよ。こいつもオレも」
レオンハルトに視線を向け、誤魔化すように笑う。
「ほら、いい加減寝ろ」
「はい……」
いまならきっとよく眠れそうだ。
――そのとき、どこかから綺麗な音が聞こえてくる。どうやらそれは歌声のようだった。誰かが美しい声で、悲しい響きの歌を歌っている。
「誰が歌っているのでしょうか……ディー?」
ディーがふらりと立ち上がり、歌声がする方角――川下の方をじっと見つめる。
そしてそのまま、リゼットの呼びかけにも応えず結界から出ていこうとする。
「ま、待って」
リゼットは思わず後ろから抱きしめて引き留めようとしたが、止まらない。さすがにおかしい。普通じゃない。
ディーの意識は歌声のする方にだけ囚われている。
「レオン、起きてください! ディーが変です!!」
叫ぶと、レオンハルトが飛び上がるように起き上がった。
ディーの様子とリゼットの様子を見て一瞬呆然としていたが、急いで両手で耳を塞ぐ。
「この歌声はセイレーンだ! リゼット、歌いながら耳栓を用意してくれ!」
「は、はい!? 歌?」
「歌声で歌声を掻き消す! なんでもいい!」
リゼットは歌った。
記憶にあるメロディーを適当に。歌詞も滅茶苦茶に。声が洞窟に響いて反響する。
レオンハルトも大きな声で歌いながらディーを引き倒し、足で抑え込みながら、再び自分の耳を押さえる。そして歌い続ける。
まったく知らない歌だが、力強い歌だった。
リゼットはディーをレオンハルトに任せ、負けじと歌いながらアイテム鞄を探す。そしてようやく耳栓を探し出す。念のために買っておいたものがこんな風に役立つなんて。
リゼットは歌い続けながら、耳栓をレオンハルトに渡す。
「――うるせええええ!!」
レオンハルトは叫ぶディーの耳に耳栓を入れ、再びリゼットから耳栓を受け取って自分の耳に入れた。
リゼットも耳栓をする。セイレーンの歌はリゼットには効かないようだが、念のため。
ディーが何やら騒いで耳栓を取ろうとしたが、レオンハルトがディーの両耳をしっかり塞ぎ、目で説得するように顔をじっと見つめる。
ディーは何かを感じ取ったようで、黙って自分で耳を塞いだ。
リゼットも耳栓をする。セイレーンの歌はリゼットには効かないようだが、念のため。
そしてようやくリゼットとレオンハルトは歌うのをやめる。
レオンハルトが紙を一枚取り出し、ペンを走らせる。
「セイレーン。歌で男を誘惑して、食い殺す」
リゼットもその下にペンで書く。
「倒しましょう。方向は私が確認します」
レオンハルトとディーがリゼットを見て頷く。
すぐに装備を整え、ディーが向かおうとしていた川下の方向に歩き出す。
時折耳栓を少し外して確認するが、歌声はいまだ流れ続けている。美しい歌声だが、洞窟の中では不気味に響く。しかもこの声で獲物を呼び寄せて捕食するなんて、恐ろしい。
(早くやめさせないと)
洞窟の奥へと進んで行くと、川の流れが大きな池に繋がっていた。静かな池のほとりには、大きな白い鳥の姿をしたものが佇んでいた。
毛羽立つ羽毛はまるで真珠のようで、光を反射し虹のように輝いている。
頭部は美しい女性そのもので、長い黒髪をなびかせながら、誘惑的な微笑みを浮かべ歌っていた。
【鑑定】セイレーン。女性の頭に鳥の身体を持ち、美しい歌声で人を惑わし、捕食する。
【先制行動】【水魔法(神級)】
「フリーズアロー!」
驚いて飛び上がろうとしたセイレーンの翼を、氷の矢が貫く。
セイレーンはそのまま力を失い、水面に落ちていく。
しかしその寸前、水面から出現した巨大な触手がセイレーンを絡めとる。
触手は瞬く間にセイレーンを水中に引き込み――
そして、水面に、赤い血がぶわっと広がった。