165 第一層~青い洞窟
長い長い階段、精緻に組まれた硬く冷たい石段を、一歩一歩慎重に下りていく。
下りた先に広がっていたのは、上とは違って美しい洞窟だった。
床や壁、天井の石が青く仄かに光を帯びている。その光は洞窟の全体をぼんやりと照らし出し、まるで夜空の星々のように煌めいている。
「ダンジョンですね」
「ああ。ものすごく普通のダンジョンだ」
わずかに湿った空気の中、青く照らされる洞窟を、慎重に進んでいく。
進んでいくうちに、どこからともなく水音が聞こえてきた。
そしてすぐに、小川を見つける。冬に積もった雪が溶けて、水が染み出しているのかと思ったが、ここがダンジョンであることを思い出す。
流れる水の中からは、光の球が浮かび上がり、ふよふよと漂っては、ふっと消えていく。
幻想的な光景に、リゼットは感嘆の息を零した。
「きれいですね」
「ウィル・オ・ウィスプだ。攻撃はしてこないけれど、炎が燃え移ると危険だ。近づかないようにしてくれ」
【鑑定】ウィル・オ・ウィスプ。ランタンの光のように揺らめき、見る者を迷わせる。
「川の中に虫や魚とかいないのでしょうか」
水面を覗き込んでみるが、透き通った水の中から光が浮かび上がってくるだけだ。下にモンスターがいる気配はない。
美しいせせらぎの中に光が浮かんでは煌めいて、消えて。川全体が一つの宝石のようだ。
「どうやら何もいなさそうですね……」
小魚も、虫もいない。水底に水草も生えていない。
「ボーっとして川に落ちんなよ」
ディーが地図をつくりながら警告してくる。
「大丈夫です、浅いみたいですし」
リゼットが顔を上げると、ディーの背後で赤い炎が揺らめいた。
こちらを見つめる黒い影は、猟犬によく似ていた。黒い毛並みはふさふさとしていて、触れてみたくなるほど魅力的だが、真っ赤に燃えるその目は、明らかに敵意を示していた。
レオンハルトが緊迫した表情を浮かべ、リゼットをひょいっと肩に担ぎ、ディーに向かって叫ぶ。
「ディー、川向こうへ!」
【鑑定】ヘルハウンド。炎を吐く猟犬。身体は実体がないため、倒すことはできない。
激しい水しぶきを上げて川を駆け抜け、対岸へ渡る。
ヘルハウンドから硫黄の臭いがした瞬間、口から炎が吐き出される。
【風魔法(初級)】
「エアブラスト!」
炎を魔法の突風で押し返している間に、無事に川を渡り切る。
「追いかけてこねえぞ?」
「ヘルハウンドは川を渡れないんだ。どんな浅い川でも」
「レオン、あの、私はこれぐらいの川なら渡れますので」
「あっ――ああ、ごめん」
地面に下ろされる。
「過保護」
ディーがヘルハウンドを警戒したままボソッと呟く。
「マジで追いかけてこないのな。犬のくせに泳げねーのか?」
「流れる水が怖いのかもしれないな」
「まあ……少し気持ちはわかります」
ヘルハウンドはもどかしそうに対岸をうろうろしている。
その巨体がぴたりと止まると、身体の内側から一筋の閃光が発せられた。
――ドォォォォン!!
【聖盾】
その一瞬後、爆風が川面を飛び越えて襲いくる。レオンハルトは冷静に炎と風を防いだ。
「……そんな……」
硫黄の臭いが充満する中、リゼットはショックを受けながら爆発の痕跡が残る地面を見つめた。
爆発四散したヘルハウンドの残骸は、バラバラになり過ぎていて、とても食べられない。
リゼットが嘆き悲しんでいる背後から、どすんっと重低音が響いた。
弾かれたように振り返ると、灰色の大きな体躯が洞窟の暗闇から飛び出してくる。
「アウルベアだ」
レオンハルトの声が響く中、巨体が突進してくる。
見た目は大型の熊に似ているが、その頭部はフクロウに似ていた。大きくて丸い顔に、短いくちばしと大きな目。
オレンジ色に輝く瞳が、獲物を狩ろうと見開かれている。
「熊肉!」
【鑑定】アウルベア。強靭な熊の身体と、夜闇を見通すフクロウの頭を持つ。強力な爪や嘴で獲物を捕食する。
アウルベアの突進を、レオンハルトが盾で流して軌道を変えさせる。体勢が一瞬揺らめいたところを、アダマントの剣で横から突きを入れる。
鋭く研がれた剣はアウルベアの内臓を切り裂き、一撃で致命傷を与えた。
アウルベアは血を流しながらふらふらと倒れた。
結界魔法で周囲の安全を確保し、浄化魔法でアウルベアを清める。水魔法でアウルベアの体温を一気に下げたあと、流れる川の水でよく冷やす。肉をおいしく食べるための処理だ。
「これだけ大きいと、たくさん肉が取れるでしょうね。ステーキ、シチュー……ああ、夢が膨らみます」
「脂がよく乗っている部分をステーキにしよう」
レオンハルトとディーが解体を進めている間に、リゼットも料理の準備を進める。オリハルコンの包丁を取り出したそのとき、突然、目の前で空気が震え始めた。
周囲の景色が一瞬だけ歪み、リゼットの目の前で白い煙がゆらゆらと立ち昇る。
レオンハルトが剣を手に、リゼットと煙の間に割り込む。
煙は次第に人のかたちを取り始める。煙が薄まり、灰色の長い髪が揺らめく。
磨き上げられた大理石のように真っ白な滑らかな肌。宵闇のような深みを帯びた瞳。
耳は長く、尖っていた。
――エルフだ。
「やあ、こんにちは」
美しく繊細な顔で、親しみの溢れた笑みを浮かべる。
彼はその場で膝を折り、優雅に頭を下げる。リゼットに向けて。
「僕はウルファネ・アスライ」
リゼットは困惑しながらその姿を見つめる。
【鑑定】エルフ。もっとも古き人族。
「モンスターと誤解させてしまったのなら申し訳ない」
顔を上げ、微笑む。
とても柔和な表情で、敵意や悪意は見えない。
そして穏やかな視線は、リゼットの持つ包丁に注がれていた。
「その包丁、まさか、オリハルコン?」
「まあ! 見ただけでわかるんですか? そうです! ドワーフの方に打っていただいたんです!」
この包丁の価値がわかるなんて。リゼットは心の底から嬉しくなった。
エルフは苦笑する。
「はは……当代の女王は、どうやらとても変わったお人のようだ」
「女王……? 何のお話でしょうか」
「おっと、自己紹介の途中だった。僕はこのダンジョンの管理者、ウルファネ・アスライ。以後お見知りおきを。我が女王」