163 母神の右手
アマスフィアは振り返り、母神の右手を見つめ、話を続ける。
「母神の右手が空に還えれば、巨人は『死』から解き放たれて目覚めるでしょう。それは世界の終わりをもたらします」
――もしも巨人が起き上がれば、大地の上にあるものはすべて下に――死の海へと落ちる。
そうなれば、いま生きている人々の多くが死ぬ。それは確かに、世界の終りの始まりだ。
「聖遺物は彼女と一体化しているように見えます。どうやって引きはがすのですか?」
「あなたが触れれば、聖遺物はあなたに宿ります」
「……それでは、いまの彼女はどうなるのですか?」
アマスフィアは憐れみと喜びが混ざったような、不思議な微笑みを浮かべる。
「先代は長い時間で削り取られ、既に魂が消えて器だけが残っている状態です。あなたの御手が触れれば、母神の右手はリゼット殿に宿るでしょう」
それは彼女をいまの状態から解放することになるのかもしれない。だが――……
「その後、彼女はどうなるのですか?」
「使命を果たし終えた身は、世界と一体化し聖遺物となります。女神と成るのです」
「そうですか……」
リゼットは先代聖女を見つめる。
そして静かに瞼を下ろし、首を横に振った。
「申し訳ありませんが、お断りします」
教皇アマスフィアは不思議そうな顔をする。まるで年相応の少女のように。
「何故? あなたが拒否すれば、世界は滅びます。あなたの大事な人々も」
「ひどい脅しですね」
「事実です。信じられないなら、試してみましょうか? まず、巨人が動き出して大地震が起こります。巨人が立ち上がれば、天地が入れ替わることでしょう」
教師のような口調に、リゼットは懐かしさを覚えた。教育係の一人がよくこういう話し方をしていた。
「――ですが、そんなことはさせません」
アマスフィアは強く言い切る。
「身共は世界を守るためならば、千の槍に貫かれようと、万の矢に撃たれようと、あらゆる恨みを向けられようと――身共の使命を果たします」
確固たる意志のこもった声だった。言葉のひとつひとつから、彼女の決意が滲んでいる。
「――真の聖女殿。器に意思など、要らぬのです」
教皇アマスフィアは、リゼットに、あるいは自分自身に向けたように呟く。
彼女を奮い立たせているのは使命感だ。世界を守るという決意。そのために己のすべてを捧げようとしている。
それでも、リゼットは受け入れられなかった。
ここで大人しく受け入れられるほど、物分かりはよくない。
「私はまだ何も試していません。他の方法を探してみます」
「他の方法? そんなものはありません」
「どうして断言できるのですか?」
「――この地に、あらゆる魔術を集めてきました。汚らわしい術も、禁忌の術も。大地の果てからも、海の向こうからも」
エルフの錬金術師ラニアルは、女神教会の本山にはあらゆる魔術が揃っていると言っていた。
女神教会の審問官であるケヴィンは、本山に黒魔術師を集めているようなことを仄めかしていた。
「ですがどれひとつとして、何の成果も出ませんでした、これ以上何を試すというのです?」
教皇は教皇で努力し、挑み続け、そして打ち砕かれ続けてきたのだろう。
だからといって、リゼットはこの運命を受け入れることはできない。女神の力の器となり、大地と繋がれ、自由を失うなど。意志なき装置として生きることなど。
「やってみなければわかりません。最後の最後まで、あらゆる可能性を探ってみます。私は冒険者ですから。それでも無理なら、覚悟します」
事の重要性はよくわかっている。
それでも最後まで足掻きたい。
受け入れるのは、すべてを試し、打ち砕かれてからだ。
「――リゼット、そんな覚悟はしなくていい」
レオンハルトが言い、ディーもため息をつく。
「オレも死にたくねーけど、お前を犠牲にしてまで生きたくねえぞ……」
「……ありがとうございます。ですが、私ひとりで済むのなら安いものです」
「リゼット、二度とそんな言い方はしないでくれ」
レオンハルトの声は静かだが、本気で怒っていた。
リゼットは、どうして彼が怒っているのか、咄嗟に理解できなかった。
考える暇もなく、アマスフィアの大きなため息が響く。
「――余計なものを連れてきてしまいました。事の重大さがまるでわかっていないようですね」
レオンハルトは剣の柄に手を置き、アマスフィアと対峙した。
「俺は、女神の信奉者じゃないからな」
「身共を斬り、真の聖女殿と共に逃げますか? それで気が済むのなら、どうぞお好きに。ですが最早、運命は変わりませんよ」
アマスフィアは死を恐れていない。自分を世界の一部に組み込み、己の使命を果たすことだけを考えている。
小柄な身体から発せられる迫力は、大型モンスターにも引けを取らないものだ。
「――エルテリア殿」
アマスフィアが誰かの名前を呼んだ瞬間。
上から凄まじい圧力がかかり、レオンハルトとディーが圧し潰されるように床に膝を着く。
リゼットは急いでユニコーンの角杖を手にした。何故か、リゼットだけは平気だった。圧力は感じるが、圧し潰されるほどのものではない。
「何をしたんですか! ふたりに手を出せば、私は――」
「エルテリア殿もまた、聖遺物『風女神の踵骨』を持つ真の聖女です」
アマスフィアがちらりと神の座を振り返る。
視線の先で、ぐったりと寝そべっていた聖女――エルテリアと呼ばれた女性が、身体を起こす。深淵のような瞳で、リゼットをまっすぐに見つめながら。
目が合った瞬間、リゼットの髪に宿る『火女神の髪』が赤く燃えた。
左目に宿る『水女神の眼球』から涙が零れた。
足は導かれるように、神の座へ向かう。『母神の右手』――その存在が愛しくてたまらない。
――触れてはならない。
頭の奥で警鐘が打ち鳴らされても、リゼットは歩みを止めなかった。聖女の元に膝を着き、伸ばされた左手に触れる。
――その瞬間、極彩色の光と共に思念が流れ込んでくる。
喜びに悲しみに解放感、そして慟哭と、慈しみ。
リゼットがぬくもりと安らぎを覚えた刹那、聖女エルテリアの身体が倒れる。女神となるはずの身体は砂のようにさらさらと崩れて、光となる。右手と、小さな丸い骨――そして片方だけのイヤリングを残して。
そして、骨も光砂となって消える。すべての役目を果たし終えたように。
「どうして……同化しない?」
アマスフィアの動揺の声が響く。
「ええい、もういい――!」
苛立たしげな叫びと共に、先代聖女がいた場所――神の座に、穴が開く。
真下にぽっかりと穴が開き、リゼットの身体はなすすべなく吸い込まれていく。聖遺物と共に。
「リゼット!」
駆けつけたレオンハルトが手を伸ばす。
リゼットも、その手をつかもうとした。
――だが、届かない。
レオンハルトが強く踏み出し、リゼットを抱き締める。
そして、共に落ちていく。
真っ暗な闇の中へと。
――落ちる。
深い。まるで山頂から麓まで一気に落ちていっているように、底が来ない。
このまま下に叩きつけられたら命はない。穴を満たすくらいの水を生み出せば、衝撃を受け止められるだろうか。
「――リゼット、大丈夫だ」
そう聞こえた気がした。頭を包み込まれた気がした。
心が少し落ち着く。リゼットはレオンハルトから離れないように彼を抱きしめながら、下を見た。
穴の底が見えてくる。わずかに青く光る底が。
【聖盾】
地面に接触する寸前、レオンハルトの魔力防壁が発動する。
下に向かっていた勢いが、弾き返され、相殺される。
激突は回避され、しかし勢いは完全には無にならず、地面を転がり、壁にぶつかってようやく止まった。