145 聖遺物の欠片
「ふっ……うふふ……少々、実力行使が必要かしら。正気に戻して差し上げるのも、妻の務めですもの」
イレーネを中心にして強い魔力の流れが生まれる。赤い炎の魔力が。
(まさか、ここで強力な魔法を使うつもり?)
屋内の閉鎖空間で。
「大丈夫。あなただけは、傷つけませんから」
リゼットは急いでドレスの裾をたくし上げ、ユニコーンの角杖を手に取る。
「――インフェルノ!」
【水魔法(神級)】【魔力操作】
「リヴァイアサン!」
リゼットは極限まで魔力を圧縮して、水魔法を放つ。
火魔法と水魔法――反属性の強い魔力がぶつかり合って、互いを打ち消し合う。水と水蒸気、熱と煙が、風を起こして渦を巻き、大広間を、シャンデリアを揺らした。
その中を、レオンハルトが動いていた。
黒い剣がイレーネを斬り払おうとする。一切の容赦も躊躇もなく。
だが剣が触れる直前に、イレーネの姿が消える。影すら残さず、一瞬で。
「……大魔術師殿。そちらのゲストはどうも礼儀を知らないようだ」
室内を結界魔法で守りながら、エルクドが呆れたようにラニアルを見上げた。イレーネの腕を握って空中――シャンデリアの隣に浮かぶラニアルを。
「ラニって呼んでってば。ごめんねー、あとでちゃんと直すからさ」
「まあ見世物としては面白い。我らエルフ以外でここまでの魔法を使う種がいるとは」
「真面目だなぁ」
ラニアルは明るく笑いながらイレーネを見る。イレーネは恐怖で顔を青くし、ガタガタと震えていた。
「そんな……レオンハルト様が……わたくしを……」
剣を向けられたことがショックだったらしい。目からは涙が零れ落ちていた。
「本当、現実なんてクソだよねー。イレーネ様どうする? このままじゃリゼットに絶対に敵わないよ。同じ聖女でも、中身が違っちゃってる」
「……錬金術師、あれを寄越しなさい」
「覚悟決めた? 偉い偉い」
ラニアルは一本の赤い糸を取り出す。
「ねえ、リゼット。これ、なんだと思う?」
糸は赤く揺らめいている。まるで炎のように。
「まさか――……」
――糸ではない。それは髪だ。赤く燃える女神の炎。
「リゼットの持ってきた聖遺物、一本だけ預かってたんだ。いやー熱かったよ」
ラニアルの持つそれを、イレーネが引っ手繰るように奪う。目を見開き、苦痛に耐えながら、女神の聖遺物――火の女神の髪を呑み込んだ。
「うっ……ぐっ……」
「はい、よくできました」
ラニアルが手を離し、イレーネの身体が下りてくる。雪が舞い落ちるようにゆっくりと。
ふわふわと揺れる赤い髪の後ろに、ルルドゥの姿が浮かび上がる。全身に炎を纏った少女の姿が。
『何を驚く』
ルルドゥの声がリゼットの内側から響く。
リゼットの髪の一房が赤い炎を纏う。――熱くはない。
『我は神だぞ? 分体の数だけ我はいる。あれは我と言いたくはないほど脆い存在だが――……エルフというのは愚かだな』
ルルドゥの気配が消え、リゼットの精神の海に沈んでいく。見るべきものは何もないとばかりに。
床に降り立ったイレーネの身体が傾ぎ、足元がよろめく。それでも決して倒れるようなことはせず、イレーネはリゼットを睨む。
赤い瞳に宿るのは、憎しみの炎。
消し去りたいという強い願い。
「イレーネさん、落ち着いてください」
「あなたに何がわかるのよ……わたくしの欲しいもの、すべて持っているあなたに……」
「…………」
「でもこれで、わたくしもあなたと同じよね……?」
イレーネは期待の眼差しをレオンハルトに向ける。
だがレオンハルトは静かに剣をイレーネに向けた。
「君が聖女だとしても、聖遺物を取り込んだとしても」
すっと息を吸い。
「君はリゼットじゃない」
はっきりと断じた。
イレーネの瞳が涙で滲む。
「……どうして……」
リゼットはイレーネをまっすぐに見つめた。
「イレーネさんは、きれいです」
「……はあっ?」
「誇り高くて、矜持があります。イレーネさんの持っているものは、私の持っていないものです。私たちは別々の人間ですから、持っているものが違うんです」
持っているものはそれぞれ違う。
相手の持っているものを欲しがっても、きっと永遠に満たされることはない。たとえ手に入れられたとしても、それは望んでいたものと違う形をしているだろう。
「私はイレーネさんをきれいだと思います」
「何を……」
「イレーネさん、お腹空いていませんか?」
空腹になると悲しくなる。
満腹になると楽しくなる。
リゼットはモンスター料理の力を知っている。
「一緒にペリュトンを食べましょう!」
「食べるわけないでしょう!!」
イレーネの魔力が一気に燃え上がる。髪もドレスも赤い魔力に染まる。
魔力の爆発――あるいは暴走。
「重いんだよクソ!」
ディーの叫び声と共に、レオンハルトの盾が床の上を回転しながら滑ってくる。
イレーネの魔力が炎となる。揺らぎ、弾け。何もかも燃やし尽くす、原初の炎の輝きを、熱を放つ。
【聖盾】
神炎は赤に金に煌めいて、渦を巻いてすべてを燃やし尽くそうとする。己の敵を。許せないものを。世界を。ダンジョンを。
レオンハルトの魔力防壁は、神の炎すら防ぎ切った。
炎の嵐が静まったとき、大広間は何も変わっていなかった。
ただ、マリオネットたちは動きを止めていた。音楽は途切れ、踊っていたマリオネットたちは床に伏している。繰糸が切れたように。
イレーネは大広間の中央で、血を吐いて倒れていた。
血の中で、か細い炎がゆらゆらと燃えていた。飲み込んだはずの聖遺物が。
「ああー、やぱりダメか……がっかり。仕方ないね」
ラニアルが苦しむイレーネの傍に立ち、見下ろす。
「やっぱり器が違うみたい。偽物はどうやっても本物にはかなわないのかなー。ま、とりあえず戻っててくださいなっと」
ラニアルは短剣を取り出すと、躊躇なくイレーネの心臓を貫いた。