139 ブドウとバターキャラメル
マリオネットたちに案内されて、リゼットたちは食堂に通される。
広い食堂は、まるで城の一室のようだった。
長いテーブルの一番奥の席に、屋敷の主であるエルクドが座っていた。
「ふん。少しは見れる姿になったな」
マリオネットに案内されるままに、それぞれ椅子に座る。奥の扉から現れたマリオネットたちが運んできたのは、銀の盆に乗った白ブドウの山だった。
あとは水が、それぞれの席の前に置かれる。
「我らが父祖の恵みに感謝を」
エルクドが彼流の祈りの言葉を口にして、ブドウを食べ始める。
(いきなりデザート? いえ、前菜なのかも)
客人の身分なら、出されたものは主人に倣って食べなければならない。
リゼットはウキウキしながら、白い陶器の皿に取り分けられた白ブドウを食べる。ハリのある薄い皮が弾けると、中から甘い果汁が溢れ、瑞々しい果肉が舌に触れる。
(甘くて、おいしい……!)
リゼットは夢中でブドウを食べる。時々水を口に含んで。
レオンハルトとディーもブドウを食べているが、その顔には警戒心がわずかに浮かんでいる。
しばらく無言で食べ続けていると、テーブルの白ブドウの量が減ってくる。次に出てきたのは赤ブドウだった。メインディッシュとばかりにテーブルで存在感を発揮する。
リゼットはさっそく赤ブドウも食べる。やや渋みがあるが、これもまた甘味が強くて美味しかった。
しかしブドウばかりなのは何故なのか。
エルクドのこだわりなのか、好物なのか。
レオンハルトとディーは二人とも困惑したような表情をしていた。――うんざり、とばかりの。
「お前たちは外から来たのだろう?」
エルクドは涼やかな顔で口と手を拭き、聞いてくる。銀色の瞳がリゼットを見ていた。
「は、はい」
「――外は、どうなっている? 起源の森の世界樹は見たのか? ドライアドたちは健在か?」
「起源の森の、世界樹ですか……?」
どちらも聞いたこともない言葉だ。
「申し訳ありません。わかりません」
「世界樹も知らないのか?」
エルクドは驚きをあらわにする。
大きくため息をついて頭を抱える。落胆も荒立ちも隠す様子がない。
どうやらエルクドは、外――この街の外側がとても気になっているようだった。
「気になるのでしたら、外に見に行きませんか? 私も見てみたいです」
「貴族たるもの、やすやすと出歩けるわけがないだろう。しかもこのようなときに」
――この街は、彼の領地なのかもしれない。
少なくとも、エルクド自身はそう思っている。ダンジョンの中であろうと、住人がいなかろうと。
「……空の光が強まってから、悪いことばかりが起きる。大地は乾き、星詠みどもは世界の終わりなどと嘯く。不快極まりない」
声には苛立ちが滲んでいた。
「貴族は変化から逃げるように踊り、歌い、堕落するばかりだ。そこに出てきた、我らに似た種族――……まあ、下等種族に言ってもわからんことか」
その言葉は皮肉のようにも聞こえたが、エルクドの表情は少し寂しそうでもあった。
リゼットには、エルクドの話は理解できない。だが、ままならないことへの苛立ちは伝わってくる。
彼は煩悶している。現状に、未来への不安に。
エルクドはここで生きている。
生きて、悩み、苦しんでいる。彼の言葉には感情がある。色がある。無色透明ではない。
「――エルルさん、やっぱり見に行きましょう。自分の目で見ないことには何も始まりません」
窓の外、夕日に染まる景色を見ていたエルクドの目が、リゼットに向けられる。
「この僕にそんなことを言うとは、面白いやつだ」
口元に小さな笑みが刻まれる。
「外、か……本当に、外というものはあるのだな……」
ぽつりと零された声は、孤独に彩られていた。
給仕のマリオネットたちが食堂に入ってくる。最後に運ばれてきたのは、白ブドウのシャーベットだった。
「まだ甘い匂いがする……」
食事が終わり部屋に戻ると、レオンハルトがぐったりとしながら呟く。
ディーもげっそりしていた。
「ブドウは好きですが、ブドウばかりだと胸焼けしますね……」
結局最後までブドウ以外に出てこなかった。
食文化の違いをまざまざと実感させられる。
「クソ……ヒューマンは鳥じゃねえんだよ……」
「エルフ族は菜食主義者が多いからな……」
全員ブドウを食べすぎてぐったりとしている。
完全に栄養が偏っている。
「困りましたね。お肉はもう残っていませんし……朝になったらここを出て、次の階層を目指しましょう」
「さんせー」
「そうだな……彼は思っていたよりも話が通じるようだし、落ち着いて話せば妨害もされないだろう」
部屋にマリオネットたちが入ってきて、盛装から寝間着に着替えさせられる。元々着ていた服は衣装箱に入れられ、ベッドの横に置かれた。
その日はいつものように交替で見張りをしながら眠った。
◆ ◆ ◆
リゼットは空の上にいた。
風は穏やかに下ろした髪を揺らしている。
顔を上げると、紺碧の空にいまにも降り注いできそうなほど眩く大きな星の海が広がっている。
前を見れば地平線と夜の空が遥か彼方まで伸びている。
下を見れば広大な森が広がっている。
リゼットは太い枝の上に座っていた。
樹の大きさは定かではないが、おそらくリゼットの知る最も大きな建築物――王城よりもずっとずっと大きい。
どれだけの時間を経てここまで育ったのか。巨大な古木なのに枝も葉も瑞々しい生命力に満ち溢れている。
何故か、ひどく切ない気持ちが込み上げてきた。
「これが世界樹ユグドラシルだ」
声のする方――枝元に、銀髪の黒い衣のエルフが立っていた。端正な顔立ちと均整の取れた肉体はまさに完璧で、完成されている。
「エルルさん……ああ、これは夢なんですね」
「察しのいいことだ。起きている内だと番犬がうるさい。まるでガルムやケルベロス……いや、フェンリルのようだ」
エルクドが枝の上をまったく危うげなく歩き、リゼットに近づいてくる。そして、リゼットの隣に片膝を着いた。
「しかし、見れば見るほど間抜けな姿だ。特に耳が丸いのが致命的だな」
エルフの美醜は耳で判断されるのだろうかと考えていると、伸ばされた指が耳に触れる。
触れられているのに実感があまりない。嫌悪感や危機感を覚えないのも、夢だからだろうか。
「……お前を見ていると、胸がざわめく」
ひどく不本意そうに小さく呟く。
(もしかして、記憶があるの?)
耳を触る指に力がこもる。
「八つ裂きにしてしまいたい」
「まあ……」
やはり記憶があるのかもしれない。
理性で抑制されつつも垣間見える激情に、そう思う。
「ふふっ、私たちは本当に相容れないのかもしれませんね」
リゼットはそっとエルクドの腕に触れ、耳から手を離させた。
「きっといつか私たちは、お互いの譲れないもののために戦うのでしょう」
「戦うなどと、野蛮な考えだな。我らには言葉があるではないか」
立ち上がり、リゼットを見下ろしながら憮然と言う。
「言葉があり、話が通じる。ならば話し合えばいい。戦うなどと野蛮なことは最後の手段だ」
「まあ。意外と理性的なのですね」
「僕を何だと思っている?」
リゼットは苦笑した。
エルクドの銀色の瞳は、月夜の湖面のように静かに、そして奥に白い炎を灯してリゼットを見ている。
「お前は美しい」
「…………」
予想もしていなかった言葉に、声が出ない。
「いっそ、このまま夢に閉じ込めてしまおうか」
「まあ。それは困ります。それに閉じ込めるのは野蛮な手段ではないのですか?」
冗談めかして言うと、エルクドの眉間に力がこもる。
「決闘は正々堂々と、己のすべてをかけて行なうものです。搦手など無粋かと」
「意外と好戦的だな」
「でなければここまで来ていません」
こうやってダンジョンを潜ったりなどしていない。
「だが、夢はあらゆることを可能にする。酔いしれるのにはちょうどいいだろう」
――まさか本気だとは思えないが、閉じ込められるのは困る。こんなところで冒険を終わらせるつもりはない。
――これは夢だ。
レオンハルトは、夢魔に囚われたとしても、夢だと気づけば打ち勝てると言っていた。
(これは夢……私の夢。だとしたら、なんでも思い通りのはず)
空を飛ぶことも。ここから飛び降りることも。エルクドを突き飛ばすことも。
そしてここはエルクドの夢でもある。彼に危害を加えることはきっとできない。
自力で目覚めるしかない。
リゼットはスカートのポケットに手を入れる。そこにあるものを確認し、微笑んだ。
紙に包まれたバターキャラメル。そっと包み紙をはがし、香るそれを口に入れる。たちまち強烈な甘さが全身に響いた。
「何だそれは」
「エルルさん。私は、前に進みます」
甘さの衝撃で、視界が白く霞む。夜景が遠ざかる。エルクドの驚いたような顔が印象的だったが、すぐに何もかも忘れてしまった。
――眠りから覚める。
薄暗い部屋の中、肉体の重みを感じる。つい先ほどまでは空を飛んでいたかのような身軽さだったのに。
ベッドから身体を起こし、ランプの明かりで書き物をしているレオンハルトにそっと声をかける。
「レオン、交替しましょう」
「ああ……」
「ふふっ、甘い夢を見ました」
渡されるランプを受け取りながら、リゼットは小声で話しかける。
「甘い夢?」
「はい。バターキャラメル味です」