133 夏の景色
「……私は幸せです」
リゼットは目を伏せる。幸せだと、自信を持って言えるのに、母の顔を見ることができない。
父とメルディアナは人形のように座っているだけで、微動だにしなかった。しかしその身体が不意に揺らぎ、テーブルに突っ伏す。操っていた糸が切れてしまったかのように。
その上に、漆黒のビロードのようなものが落ちる。父とメルディアナは闇色のそれに呑み込まれて消えた。
「――嗚呼、リゼット……わたくしのリゼット……」
嘆く母の、黒いドレスの裾が広がり、部屋を暗く染めていく。呑み込んでいく。料理も、テーブルクロスも、テーブルも椅子も、部屋もすべて。
そうして生まれたのは穴だった。光も呑み込む深淵が、母のいた場所に現れる。
ジャラジャラと鎖の鳴る音が響き、いくつもの目が穴からこちらを覗いている。
「……わたくしのリゼット……」
深い場所から包み込むように、声が響く。
リゼットは立ち竦んだ。
戦わなければならない。
あるいは逃げなければならない。
なのに、頭がぐわんぐわんと痛み、身体が硬直して動かない。
――怖い。
逃げ出したい。逃げる場所などない。道はすべて閉ざされている。
闇から伸びた鎖が、不快な音を立ててリゼットを絡め取ろうとする。それでもリゼットは動けなかった。
【聖盾】
リゼットの前に立ったレオンハルトが、光の盾で鎖を弾き返す。
「リゼット、大丈夫だ。俺が君を守る」
「レオン――」
「ここは君の夢だ。なんだってできるし、絶対に負けない!」
「……はい!」
リゼットは信じた。
レオンハルトが信じてくれた自分を。
このモンスターはきっと、リゼットの中にある恐れだ。母への恐れ、期待という重圧、閉ざされた未来が形を得たものだ。
その恐れを認める。
ずっと怖かった。定められた未来も。重圧をかけられ続けることも。
子どもであるリゼットはそれに従うしかなかった。
だが、心の奥底では、ずっと。解放を望んでいた。
(――負けない)
全身に血が巡る。しっかりと地面を踏みしめる。ユニコーンの角杖を強く握る。
打ち破れ。恐れを。自分を縛る鎖を。――打ち破れ。
「ブレイズランス!」
魔力を燃やして発動させた白い炎は、闇を燃やし、深淵を消し飛ばした。
淡雪のように光が散り、溶けて消えて。視界が、白一色に染まった。
眩しさに目を細めるが、光は徐々に弱まり、慣れもあって目を開く。
そこに広がっていたのは屋敷の食堂ではなく、初夏の日差しに照らされた丘の上から見える光景だった。
遠くには街と森が、後ろには屋敷があった。
鳥のさえずりが青い空に響く。
「ここは……?」
レオンハルトが戸惑ったように言う。
「ここは、王国のクラウディス領ですね。私の家の領地です」
屋敷にも街にも、見える景色すべてに見覚えがある。
夢というのは、一瞬で時間も場所も飛び越える。
そして強い記憶は時間を飛び越える。
「毎年夏になると、ここでおばあ様と訓練をしていました」
冒険者としての訓練を。それはリゼットにとって一年で一番楽しみな時間だった。
(お母様はいい顔をしませんでしたが……)
それでも家族揃って領地に帰る時間は、幸せそのものだった。その日々のことを思い出していると、リゼットを見ていたレオンハルトの瞳が笑った。
「リゼットにとって、大切な時間だったんだな」
――どうしてわかるのだろう。
「顔を見ればわかるさ」
――何もかも読まれている。そんなにわかりやすいのだろうか。
「はい、そのとおりです」
気恥ずかしさを感じながら頷く。
レオンハルトは小さく笑って、丘の上から見える景色を一望する。吹き抜ける風で緑が揺れて光っていた。丘も、森も、草原も川も。
「――綺麗だな。夏の景色だ」
「はい。森では色とりどりのベリーがたくさん実っていて、皆でそれを集めるんです。干したり、ジャムをたくさんつくって冬に備えて。時々熊が出たりして、それを皆で食べて」
思い出すのは楽しいことばかりだ。
もう二度と訪れることのない、宝石のような日々。
リゼット自身、この地を訪れることはもうないだろう。最後に胸に刻み込むように、景色を眺める。
目が覚めてすべてを忘れてしまっても、この光景は一生忘れない。
レオンハルトも同じ景色を見つめていた。
「夢でも、君の生きた場所を見れてよかった。あまり力にはなれなかったけど――」
「そんなことはありません。守ってくださいましたし……私は、レオンがいてくれるだけで、勇気が湧いてくるんです」
光が強まり、景色が白くなっていく。
もうすぐ夢が終わる。
(そうだ――)
どうせ夢なのだから、すべて無くなってしまうのだから、少しくらいわがままを言ってもいいだろう。
リゼットはレオンハルトの目をまっすぐに見つめて、微笑んだ。
「――レオンの生まれ育った場所も、いつか見せてくださいね」
目が覚める直前、リゼットは声を聞いた。懐かしい声が、子どもをあやすような優しい声が、遠くから響く。
――リゼット。私の可愛いリゼット……
――あなたが幸せなら、わたくしは他に何もいらないの……