132 思い出のアヒージョ
リゼットはレオンハルトと共に、自分が生まれ育った屋敷へと入る。
建物の構造はよく知っている。床のタイルの模様も、壁の色も、花瓶が置かれている場所も、覚えている通りだ。当然だろう。リゼットの夢の中なのだから、リゼットの知らないものは再現されない。
――だがすべてが再現されているわけでもない。
屋敷の中は不気味なほどに静かだった。人の気配がまったくしない。まるで悪夢の中のようだ。
「一階から一か所ずつ確認していきましょう。私ではおかしいことに気づけないかもしれません。変なところがあったら教えてくださいね」
ここは記憶の中だが夢の中だ。リゼットでは奇妙さに気づけないかもしれない。
「ああ、気をつける……」
レオンハルトはやや緊張しているようで、どこかそわそわとしていた。
彼にとってはまったく見知らぬ場所だ。そして夢の中という異空間だ。警戒しているのだろう。
まずは玄関ホール。次は応接間。廊下を歩いて、キッチン。どこも使用人一人いない。だが、応接間に飾られている花は鮮やかで、掃除も行き届いている。キッチンでは料理の準備が行なわれている。
「ここは食堂です」
リゼットは食堂の扉を開ける。
部屋の中央には白いテーブルクロスがかかった長いテーブルがあり、両側に椅子が並んでいる。テーブルの上には料理がずらりと並び、燭台のロウソクに火が点り、グラスにはワインが満たされていた。
そして――リゼットは息を呑んだ。
席には人が座っている。上座の方から三人。
「何を騒いでいるの、リゼット。早くお座りなさい」
一番上座にいる女主人が、リゼットを見ながら言う。
「お母様……」
そこに座っていたのは、リゼットが十三歳のときに亡くなった母親――クラウディス侯爵だった。
綺麗に纏めた銀髪。涼やかな青い瞳。貞淑な黒いドレスに、鮮やかな化粧。
「あら、お友達がいらしていたのね。よかったらあなたもどうぞ」
母親である女主人は優雅に微笑み、レオンハルトに着座を促す。
(お父様……メルディアナも……)
ノルンで修道士となっているはずの父親と妹が、無表情で並んで座っている。まるで人形のように動かない。
リゼットは呼ばれるままに、用意された席まで歩いていく。誰も動かしていないのに椅子が引かれ、エスコートされるままに椅子に座る。逆らうことは考えもしなかった。
レオンハルトもリゼットの隣に座る。
「さあ、いただきましょう。今日はあなたの好きなものばかりよ」
母が言うとおり、食卓には豪勢な料理がたくさん並んでいる。
その中には魚介類のアヒージョもあった。
海産物は遠くの港町から魔法で冷凍して運ばれてくる贅沢品だ。それを贅沢に使ってオリーブオイルで煮た料理だ。
リゼットの大好物だった。
「女神の加護に感謝を」
「女神の加護に感謝を。いただきます」
全員で女神に祈りを捧げてから、リゼットは早速アヒージョを食べた。
「食べるんだ……」
レオンハルトが戸惑ったように言うが、大好物を前にして止まることなどできない。
それは想像通りの味だった。エビに牡蠣にイカにタコ、大好きな海産物にオリーブオイルの風味が染み込んで、美味しい。
「思い出通りの味です」
――でも、何かがおかしい。首を傾げながらバケットを手に取る。出汁がたっぷりと染み出しているオリーブオイルにバゲットを浸して食べると、爽やかで旨味の強い風味が口いっぱいに広がる。
美味しい。けれどもやはり何かが足りない。記憶どおりの味と食感だが。
「……初めて見る料理だ」
レオンハルトもリゼットと同じように食べる。そして眉を顰める。
「……味がしない」
「やっぱり夢だからでしょうか。私もなんだか物足りません」
食べても元気が湧いてこない。満たされる感覚もない。美味しいのに、絵や幻を食べているようで味気がない。この料理を知らないレオンハルトは尚更だろう。
リゼットもレオンハルトも、まったく食が進まなくなる。
母は優雅に、楽しそうに食べている。父とメルディアナも食べてはいるが、その顔に感情はない。
「あなたはどちらの家の方? その格好は、もしかして冒険者なのかしら?」
母に問われ、レオンハルトは返答に迷った顔をした。
「俺は――」
「冒険者とお友達だなんて、リゼットは本当に困った子ね」
レオンハルトの言葉を遮るように、嫌悪感をあらわに息を吐く。
その態度はあまりにもレオンハルトに失礼だ。リゼットが声を上げようとした瞬間、氷のように冷えた青い瞳がリゼットに向けられる。
「リゼット。冒険者に憧れることも、ダンジョンに興味を持つのも、もうやめなさい」
「お母様……」
「貴族として、侯爵家の跡取りとしての自覚を持ちなさい。わかりましたね?」
「わかりません」
リゼットは椅子から立ち上がり、母をまっすぐに見た。
「座りなさい。はしたない」
リゼットは従わなかった。いままで母に逆らったことはない。初めての反抗だった。
「夢でも、偽物でも、本物でも、レオンに失礼なことはしないでください!」
「なんてことを……お母様はあなたのためを思って言っているのよ?」
「わかっています。お母様がずっと、私のことを考えてくださっていたことは」
母はずっとリゼットを心配していた。ずっとずっとリゼットの将来を考えていた。
そして爵位を継がせるよりも、より高位の貴族に嫁がせる方がいいと考え、公爵家との縁談をまとめた。爵位は従兄のアドリアンに継がせると決めて。
それを聞かされたとき、納得が行かなかった。だが逆らうことはしなかった。母が決めたことなら従うほかなかった。
「私もいまは冒険者です。クラウディス家の跡取りでも、貴族でも、公爵家の婚約者でもありません。そして私は、自分の選択に誇りを持っています」
「な……な……」
白い肌がさらに青ざめ、わなわなと震え言葉を失う。
目許から一筋の涙が零れる。
「……なんてこと……わたくしがどれだけ苦労をしてきたと……」
嘆く姿にリゼットの胸が痛む。
「あなたには冒険者なんて道には行ってほしくなかったのに……お母様の言うとおりにしていれば、幸せになれたのに……どうして……?」