125 バターキャラメル
(眠れない……)
リゼットは寝袋の中で悶々としていた。一度眠りに落ちたものの、すぐに目覚めてしまい、もう一度寝直そうとしたが眠れない。
寝なければと思うほど、逆に頭が冴えて眠れない。
しばらく奮闘したのち、諦めて寝袋から出る。隣のレオンハルトを起こさないように、静かに。
わずかな明かりを頼りにして、枕元に置いておいたマントを羽織り、音を立てないようにして部屋を出る。
静かな穴の中を、外を目指して歩く。足元に注意しながら。
(無理やりにでも眠っておくべきなのに)
――何をしているのだろう。自嘲しながら外に出ると、洞窟と地面の段差を覆うようにウッドデッキが広がっていた。
なんて丁寧な仕事なのだろうと感動しながらデッキの上を歩き、段差に座る。
目の前に広がるのは、ダンジョンの夜空と大地。顔を上げると、吸い込まれそうになるほどに深い濃紺の空に、色とりどりの星が瞬いていた。
「寒い……」
結界を張っていても冷気は防げない。
マントの前をしっかりと閉め、星空を見上げる。
ここはダンジョンの中なのに、こんなに空も大地も広い。ここには間違いなく世界がある。外とは違う世界が。
そしてこのダンジョンは、繊細で丁寧につくられている印象がある。ラニアルの性格が出ているのだろうか。
不思議な光景をぼんやりと見つめながらも、ひとつのことが頭を占める。
――欲望。
それがリゼットの頭の中でずっと渦巻いて、眠りをも妨げている。
リゼットにも欲望はある。それは黄金ではなく、不老不死でもない。もっと単純で利己的なことだ。
――自分の中の聖遺物を取り出したい。
火の女神ルルドゥの髪。
水の女神フレーノの眼球。
それらの神の力を。
――神の力を受け入れると決めたのは自分自身だ。
なのにこんなことを考えるなんて。自分勝手さに眩暈がする。
いまはリゼットが聖遺物の力を支配しているが、いつか乗っ取られるかもしれない。
神の力を頼りにしてしまえば、力に溺れ、失くしたくないと思ってしまうかもしれない。
――そんな自分は嫌だ。
(私は、ひとりの人間でありたい……)
神の器でも、聖遺物の使い手でも、聖女でもなく。
自分の尊厳を保ちたいという気持ちと、自分自身として生きていきたいという気持ちが、常に心の底に存在する。
(受け入れたのは自分なのに)
すべてを覚悟して、戦うために、守るために、受け入れた。
だからこんな弱音は誰にも言えない。言ってはいけない。
心に深く誓いを刻む。
その時、背後の方で足音がした。
人の気配に顔を上げて振り返る。
「レオン……ごめんなさい。起こしてしまいましたか」
「いや、俺も眠れなかったから」
マントを羽織ったレオンハルトが、ウッドデッキの上を歩いて、リゼットの方へやってくる。
「隣、いいかな」
「はい」
リゼットの隣に、レオンハルトが座る。
割と長い間一緒に冒険をしてきたのに、何故か少し緊張した。
身体を強張らせたリゼットの前に、レオンハルトの手が伸ばされる。
差し出された手の上には、小さな包みが一つ、乗っていた。
「これ、よかったら。バターキャラメル。街で買ったはいいんだけど、俺には甘すぎて」
言いながら、はにかむように笑う。
「ありがとうございます。いただきます」
甘いものが好きなリゼットは喜んでそれを受け取る。
早速包み紙を開け、ブラウンのキャラメルを食べる。濃厚な甘さと、わずかなほろ苦さ、そしてバターの風味が、柔らかく口の中に広がった。
「おいしい……幸せの味がします」
頬が緩む。
こんなに美味しいのに甘すぎるだなんて、本当に味覚は人それぞれだ。
「リゼットが気に入ってくれてよかった」
笑顔が太陽のように眩しい。
リゼットの顔が熱くなる。寒空の下なのにおかしい――誤魔化すように天を仰ぎ、ゆっくりと息をした。バターキャラメルを舐めながら。
「星が、すごくきれいですね」
「うん。ここの空は、ノルンとよく似ている」
ノルンのダンジョンでもこうして、並んで星を見上げた。その時のことを懐かしく思う。
あの頃から随分遠くに来たような気もしたし、まだあの場所にいるように錯覚もした。
「――リゼット」
名前を呼ばれて顔を向けると、目が合った。
真剣な眼差しがまっすぐに胸を射抜いた。
「もし、悩み事とか、困っている事があったら、話してほしい」
――ごくん。
驚いて、ほとんど溶け切っていたバターキャラメルを飲み込む。
「俺にはどうしようもできないことかもしれない。けれど、一緒に考えることはできるから」
どうして。
どうして悩んでいることに気づいたのだろう。態度に出した覚えはない。
リゼットは困惑した。動揺して、考えがまとまらない。何も言えないのに、瞳から目が逸らせない。
なんとか誤魔化そうと考える。
本当のことを言ったら嫌われるかもしれない。がっかりされるかもしれない。
そう思うと、怖い。
「――リゼット。俺は、何があっても君の味方だ」
その言葉と熱は。瞳の奥で揺れる光は。
リゼットの強張った心を、固く結んで封じ込めたものを、簡単に解いてしまう。
「ほ、本当に大したことじゃないんです。私の中の聖遺物、できたら取り出したいなって、それだけで――」
「……聖遺物を……?」
「あっ、いえ、その、とっても大切な、思い出の品でもあるわけですし、この力があるからこそ、いまこうしていられるわけで……あってよかったと思うんですけど――」
聖遺物はリゼットの力だけで得たものではない。レオンハルトやディー、多くの人々の助けのおかげで、リゼットは聖遺物を得て、自由を手にすることができた。
そして何より、最初に聖遺物を自分の身体に受け入れたのは自分自身だ。
こんなことを言うべきではない。資格はない。なかった。
だが、一度口にした言葉はなかったことにはできない。間違いに気づくのは、いつも手遅れになってからだ。
「……ごめんなさい……」
「謝ることじゃない。自分の中に他人がいたら、誰だって落ち着かない気持ちになる」
「そ、そうでしょうか」
「うん。少なくとも俺はそうだ」
断言されて、ほっと肩の力が抜ける。
――自分の中に誰かがいて、自分が別物になるかもしれないと思うと、誰だって落ち着かないのかもしれない。
そして、向こうも――女神たちも同じなのかもしれないと思う。
他人の身体にいるなんて、きっと落ち着かないだろうと。だから滅多に出てこないのだと。
(お互い様なのかも)
そう思うと、少し気が楽になった。
「レオン、ありがとうございます」
味方になってくれる人が、すぐ近くにいる。心強さと嬉しさに、笑みが零れる。
リゼットの笑みを見て、レオンハルトが安心したように笑った。
――優しい人だなと、リゼットは思った。
「それにしても、君は強いな」
「えっ?」
自分では思ってもいないことを言われて驚く。
「君は、力に頼ろうとしない強さがある」
「そうでしょうか。使えるものは使いますよ」
「うん、そういうところも。俺も見習わないとな」
「レオンの方が、私よりずっとずっと強いです」
心からの言葉を口にすると、レオンハルトは少し困ったように笑った。
「――そろそろ中に戻ろう。ここは冷えるから」
「はい」
立ち上がるレオンハルトに続こうとすると、手を差し伸べられる。その手を握って、立ち上がる――が。
段差に足が躓き、よろける。
その瞬間、力強く手を引かれ、気がついたらレオンハルトの腕の中に抱き留められていた
(あ――)
頭が真っ白になり、その姿勢のまま、動けない。
身体の動かし方が思い出せない。
「ご、ごめんなさい」
「あ、ああ……怪我、は……?」
「ない、ないです……」
動揺しながらもなんとか体勢を立て直す。ぎこちない動きのリゼットを、レオンハルトは何も言わず、わずかにも動かず、支えて待っていてくれた。
一瞬のことだったのだろうが、とても長い時間に感じられた。
無言のまま一緒に部屋に戻り、お互い背中を向けて寝袋に入る。
しばらく心臓の音が激しくて、とても眠れそうになかったが――
ふわりと漂うバターキャラメルの香り。甘い余韻に包まれて、リゼットはゆっくりと眠りに落ちていった。