119 ラニアルとイレーネ【side イレーネ】
封鎖された黄金都市――ランドールの空の下で、イレーネは高台からぼんやりと広場を眺める。
ドワーフの市長の銅像の下にはダンジョンへの入口が開いていて、その周囲には多くの人が集っている。
広場では食料が振る舞われていた。
街からの配給ではない。冒険者たちがダンジョン内で倒してきたモンスターの肉が振る舞われているという、異常な光景だった。
最も異常で信じがたいのは、イレーネ自身もその肉を食べたことであるが。
空腹は判断力を低下させる。食欲を満たすことしか頭になくなり、食べられるならなんでもいいという状態になる。
食料が不足しているこの状況下で、ダンジョンから持ち帰られるモンスターの肉は、貴重な食料となっていた。どんなに高価でも。
(馬鹿馬鹿しい金額だわ)
どうせ食べるなら、自らダンジョンに入ってモンスターを倒した方がいい。ゴールドを払わなくて済むし、食べきれない分は売ればいい。
だがいまのイレーネは、パーティを組んでおらず、ひとりでダンジョンに降りる勇気もない。
誰も信用できない状況下で女が一人で下手にパーティを組むのは危険だ。判断を間違えれば、どんな目に遭うかわかったものではない。
だからたったひとりで、離れた場所から広場を見ている。
(どうしてわたくしが、こんな目に……)
理解、できない。
欄干を強く握りしめる。冷たさと、痛みが、身体に刺さる。
理解、できない。
どうして自分がこんな惨めな気持ちにならないといけないのか。どこで間違ったのか。
「こーんにーちはー。おかわいそうなイレーネ様」
明るいのにどこか退廃的な響きの声に呼ばれ、イレーネは警戒して振り返る。そこにいたのは黒髪緑眼のエルフだった。
「あなたは……」
イレーネは杖を握る。
エルフの錬金術師――ラニアル・マドール。
イレーネも見ていた。聞いていた。このエルフがこの街をダンジョンにして、中の人々を閉じ込めたのだと話していたことを。
「まあまあ、怖い顔はやめて。あたしはイレーネ様に同情しているんですよ」
「あなたに同情されるようなことは何もないわ」
「せっかく王子様のためにいろいろ気を回したのに、全部誤解されちゃってさ」
「――――ッ」
「イレーネ様は何も悪くないですよ。全部、王子様を守るためだったんでしょう?」
イレーネはしばらく息をするのを忘れた。
そのとおりだ。
レオンハルトは危険なドラゴン討伐なんてしなくていい。ドラゴンの子どもの血を浴びれば充分なのだ。そうすれば兄である王太子に警戒されることもなく、血の呪いから解放される。
竜殺しの英雄譚なんて自己満足に過ぎない。
本気で王太子の座を狙うのならば、ともかく――……
彼にそんな気配はなかった。野心はなかった。レオンハルトは幼いころからの夢を追っていただけだ。
夢とは呪いだ。イレーネは、レオンハルトを呪いから解放してあげたかった。
そのことを、このエルフは完璧に理解している。
「自分のためにもやめてほしかったのに、断られて傷ついてついダンジョンに置いてきちゃったんだよね。じっくり反省してほしかったんだよね。――でもさ、死んじゃうと思わなかったの?」
「レオンハルト様はあれぐらいで死なないわ……ヒルデも、行ったし……」
もし死んでしまっていても、ヒルデなら生き返らせられる。いつものように。彼女は非常に優秀な回復術士だ。
「そうかなぁ。心中しちゃうかもしれないよ」
「そんなわけがないわ」
ヒルデの気持ち――レオンハルトへの憧れには、イレーネも気づいていた。だが、そこまで愚かな娘ではない。
(それにしてもこの錬金術師。さっきから心を読んだかのように……これだからエルフは嫌いなのよ!)
何もかもわかったような顔をして。
「馬鹿なことばかり言っていないで、いますぐ街を元に戻しなさい。エルフ」
「そう? そんなに現実に戻りたい? 苦しくてみじめなばかりの現実に。あたしなら、イレーネ様の夢をすべて叶えてあげるよ? 愛する人に愛されて、美味しいものばかり食べられて、皆に尊敬されて、安全に眠れる――そんな夢をさ」
エルフは笑う。明るく、無邪気に。
「現実なんてクソだよね。愛する人は他の女に夢中で、食べたくないもの食べなきゃいけなくて、満足に眠ることもできないし、誰もイレーネ様を敬ったり労わったりしてくれない」
「…………」
「おかわいそうなイレーネ様」
杖を握る手が震える。
エルフは何もかもを理解している。イレーネの痛みを。
「ねえ、リゼットはどうしてあんなに強いか知ってる?」
「えっ……?」
「リゼットは聖女なんだよ。女神に愛された、女神の娘」
「馬鹿言わないで。聖女なら、女神教会で守られているはずよ……あんな能天気に冒険者なんてしているはずが……」
「そうは言っても事実だし。だからあんなに強いんだよ」
リゼットは、魔法の威力も、魔力の高さも、魔力の回復速度も、どれをとっても異常だった。聖女だからと言われれば、納得だった。特別な存在だから、特別な力があるのだと。
そして聖女だから――利用価値があるから――レオンハルトは傍に置いているのだと。
「イレーネ様も聖女になれば、王子様に愛されるかも。リゼットよりも君の方が役に立つってわかったら、きっと振り向いてくれるはずさ。だってあの王子様、本当は王様になりたいんだもん。卑怯な兄上を嫌悪してるし、自分の方が王に相応しいと思ってる!」
このエルフの錬金術師はよくわかっている。
イレーネのことを。当然の理屈を。何が正しいのかを。誰よりもよくわかっている。
イレーネは安堵した。こんなに救われた気持ちになったのは、初めてのことかもしれない。
「でも……聖女は生まれながらのものでしょう。それぐらい知っているわ」
「ふふっ。ねえ、イレーネ様。黒魔術って知ってる?」
イレーネの顔が強張り、身体が震える。
黒魔術は禁忌の術だ。魔術の名門である家系に生まれたイレーネはよく知っている。
「あなた……まさか、黒魔術師?」
「そこは大した問題じゃないなぁ。大切なのはイレーネ様のお気持ちだよ」
微笑むラニアルは、外見は少女のようなのに、どこか妖艶な雰囲気を醸し出していた。
エルフは何百年――下手をすれば何千年も生きている。この少女も見た目通りの年齢ではない。老獪な高位貴族たちよりも、よほど長く生きて、息をするように陰謀を張り巡らせている。
だがイレーネには、そんなことはどうでもよかった。
(わたくしが、聖女に……?)
その土地の聖女が資格を失えば、次代の聖女に聖女である証――聖痕が浮かび上がり、大地に祝福を施す力を得るという。
次代の聖女が誰かは、聖痕が現れるまではわからない。聖女になれるかどうかは、生まれつき決まっていると言われているが、実際誰がそうなるかは、聖痕が現れるまで誰にもわからない。誰にでも可能性があるとも言える。
(聖女になれば、レオンハルト様もわたくしを愛してくださる……?)
政略結婚だが、イレーネはレオンハルトを愛していた。愛しているからこそ旅に付き従い、愛しているからこそ試練を課した。それは最悪の誤解を生んでしまったが、愛する人の愛が得られるのなら――……
誰もに讃えられる強い力が得られるのなら。
栄光が得られるのなら。
――聖女に、なりたい。
――どんなことでも、する。
「知ってる? 聖女ってヒューマンにしかなれないんだよね」
ラニアルは独り言のように呟く。
「リゼットはなんだかんだで、気が強くて頑固で強欲だからさ。芯の部分では絶対に自分を曲げないんだ。あたしとしては、もっと素直なのが欲しいんだよね」
緑色の瞳が星のように輝く。
「イレーネ様はその点、申し分がない。高貴で、美しくて、最高だよ」
この錬金術師には、彼女なりの目的がある。そのためにイレーネを利用しようとしている。それくらいイレーネにもわかった。だからこそ信用できた。
利用されてやろう。利用してやろう。無償の親切ほど恐ろしいものはないのだから。
「さあ、行こう。イレーネ様」
伸ばされた手を、イレーネは取った。それが破滅へ続く道だという予感があっても、イレーネにはもう他の道はなかった。