102 ボイルドエッグ
朝の光が差し込んでくる宿の一室で、身支度を整えたリゼットは一通の手紙を持って、窓から外を見た。
目覚めたばかりの街はまだ静かだが、人々はもう動き出している。
ダンジョンを出た後、道の途中で出会った商隊に護衛として雇ってもらい、一番近いこの街まで馬車で移動できた。
この街で二日間、英気を養うと共に食材やアイテムの補給をすることになっている。
商隊にキリングベアーの毛皮とミスリルの一部を高く買ってもらったため、資金は潤沢だ。
(今日は買い出しに行かないと。まず油とバター、小麦粉と塩と香辛料と、砂糖と魚醤も手に入れたい)
理想を言えばダンジョン内で取れたものだけで食事をしたいが、調味料系は外の方が潤沢だ。組み合わせていくのがベストである。
(パンを焼いて、パイアカツレツとリヴァイアサンフライをサンドイッチにして……ああ、お腹が空いてきました)
先に朝食を食べておこう。ここの宿はサービスが良くて、朝食が無料でついてくる。
手紙を胸元にしまって部屋を出ると、隣の部屋から出てきたばかりのレオンハルトと鉢合わせた。
「おはよう」
「おはようございます。ディーは?」
「よく寝てる。昨日は随分飲んでたからな」
レオンハルトは部屋の中を見ながら言って、ドアを閉める。
昨夜は近くの酒場の《黄金の牡鹿亭》で宴会をした。ディーは随分楽しそうに飲んでいたので、まだその余韻に浸っているようだ。
「じゃあ、先に朝食をいただきましょう」
「うん。ところで……その手紙は、誰に?」
レオンハルトの視線は、リゼットの胸元からわずかに飛び出していた手紙に向けられていた。
「あ、これは従兄のアドリアンに転移郵便で出そうと思って。邪魔になるから置いてきます」
離れた場と場を繋ぐ転移魔法を使った郵便は、利用料金は高価だが瞬時に転送されるという大きな利点を持つ。この街に転移郵便の中継所があるのは確認済みだった。
「……アドリアンって誰?」
聞き返されるとは思っていなかったので驚く。
顔を上げると、ふてくされたような子どもっぽい表情が見えた。
怒っているような、不安がっているような、それを隠しているような表情だった。
視線は逸らされているが、意識はしっかりとこちらに向いている。
(従兄ですけれど……)
その説明では足りないのだろう。
どうして彼がアドリアンのことを気にしているかはわからないが。
「その手紙、もしかして、恋文とか……」
「まさか!」
リゼットは驚いて叫んだ。大声を出してしまったことに気づき、慌てて自分の口を押える。
どうしてそんな誤解をしてしまっているのだろう。しかもどうしてそんな深刻そうな顔をしているのか。早急に誤解を解かなければ。
「アドリアンはただの従兄です。兄妹みたいな、友人のような関係だと私は思っていますが……そうですね、ここで立ち話は他の方に迷惑なので、部屋の中にどうぞ」
「い、いや、それはいい」
「わかりました。では少し待っていてください」
部屋に戻って手紙をベッドサイドに置く。
そのときふと、部屋に男性とふたりっきりになるようなことはしてはいけないと、貴族時代の教育係に強く言われていたことを思い出す。もう貴族令嬢でもないのに。
(レオンも、同じようなことを気を付けているのかしら)
王族として育ったのだから当然かもしれないと思いながら、すぐに部屋から出た。
宿が用意してくれている朝食は、焼きたてのパンと、それに塗る木苺のジャムとバター。ゆで卵とスープ、そして食後のお茶もついていた。
リゼットたちは食堂の隅の、窓際の席に向かい合わせに座る。
せっかくの食事を前にして、レオンハルトはなんだかそわそわとして落ち着かなかった。
エッグスタンドからゆで卵を取り、手で殻をむいていくが、それにも失敗していた。卵が潰れてしまっているし、殻が少し残っていた。それを気にせず食べている。
そしてリゼットは衝撃を受けていた。
ゆで卵の殻を手でむいてかぶりついて食べるなんて、と。
普通は卵の上部をスプーンやフォークでヒビを入れて取り、殻の中にスプーンを入れてすくって食べるものだ。
これも文化の違いだろうか。
リゼットは動揺を静めるためにまずスープを飲む。周囲の客の様子を聞きながら。
皆それぞれで自分たちで話していて、リゼットたちを気にしている様子はない。
リゼットはスープを置いて、少し身を乗り出し、隣の席には聞こえない程度の声量で話し始めた。少し目を伏せ、スープを見ながら。
「――アドリアンは歳の近い従兄で、昔からよく一緒に遊んでいたんです」
まさかアドリアンのことを話す日が来るとは思っていなかったので、リゼットはどこから話すべきか迷い、結局うんと子どもの頃のことから始まってしまった。
「元々、家は私が継ぐことになっていて、アドリアンが入り婿になる予定だったのですが……」
リゼットはクラウディス侯爵家の長子であり、跡取り娘だった。他に兄弟はなく、家は女が継ぐことも多かったのでリゼットはごく自然に跡取りとして育てられた。
「当時の当主だった母が、私が継ぐことを嫌がって……私自身は幼いころから当主になるものと思って勉強していたのですが……」
当主の決定は絶対である。
その直後にはリゼットは公爵家の嫡男と婚約が決まった。
リゼットはエッグスタンドからゆで卵を手に取り、テーブルの面で叩いて殻にヒビを入れて、殻をむいていく。
「私は公爵家に嫁ぐことになって、アドリアンが本家に養子として入って当主を継ぐことになっていたのですが……それからは母が亡くなったり、妹のことや聖痕のことで色々とあって……ダンジョン送りになって……」
当主代行だったリゼットの父も、いまは教会で修道士として働いているはずだ。
「アドリアンは今頃侯爵家を継いでくれていると思いますが、ほとんど丸投げしてしまったようなもので……本当、アドリアンにはとっても迷惑をかけてしまっているんです」
家の都合で彼の人生をどれだけ振り回してしまったことか。
「私はもう家に戻れませんが、手紙で生きていることだけでも伝えようと思って」
物理的に戻れないわけではない。
だが帰ったとしても、余計ややこしいことになるのは目に見えている。アドリアンと後継者争いをするつもりはないし、今更彼と結婚するつもりもない。
殻をむいたゆで卵は、どうやっても殻を戻すことはできない。一度壊れたものは元に戻すことはできない。
きれいにむけた卵に、塩を少しつける。
白く丸い表面をじっと見つめる。ゆで卵にかぶりつくなんて初めての経験だ。
亡き母や教育係が見たら卒倒するだろうと思いながら、リゼットはゆで卵を食べた。半熟より少し硬くて、ちょうどいいゆで加減だった。