101 名もなきダンジョン領域クリア
すべてが終わって、リゼットは深く息をついた。
日差しがまぶしい。そしてひたすら眠い。身体のあちこちが痛い。何より、疲れた――
全身から力が抜け、よろけた身体を後ろから支えられる。
目線を上げると、レオンハルトの顔が見えた。ずぶ濡れだった。そして自分も。
「レオン、火傷は――」
「もう治してる」
「よかった……回復魔法ってすごいですね」
そう言っているうちにレオンハルトの手がリゼットの手に触れ、優しいぬくもりが流れ込んでくる。
――回復魔法だ。
「私は、怪我はしていませんが……」
そうしてリゼットは気づいた。自分の身体のあちこちに、火傷や傷ができていることに。おそらく炎の中を突っ切ったときだろう。
「気づかなかった……」
「君は、本当に――」
苦しそうな声を聞いて、申し訳なく思った。
その間にも身体の痛みは消えていき、どんどん楽になってくる。このまま眠ってしまいそうなほどだった。
「さすがリゼット様!」
ユドミラが興奮しきった声と表情でリゼットに詰め寄ってくる。
「やはりあなた様は本物です! どうか、一刻も早く本山へ!」
「本山とやらで何させる気だよ」
ディーが引いたように聞く。
「それはもう! 聖遺物の使い手様として歓待いたします。教皇様もとても喜ばれるでしょう」
「それなんかこいつにメリットあんの?」
「メリット――? これ以上の誉れはない!」
前のめりになったユドミラの後ろにケヴィンが立つと、ユドミラは一瞬で気絶した。
「悪いな。こいつ割と周りのこと見えなくなる性格でな」
倒れそうになったユドミラを支えて、肩に担ぐ。
「《シルフィード》」
優しい風が吹き、濡れていた服と髪が乾く。
「本山にはいつか来てほしいが、まあ、いつか物見遊山がてらでいいさ。一見の価値はあるぜ」
人懐っこい顔で笑う。
「んじゃ、また会おうぜ」
去っていく二人を、リゼットはぼんやりと見送った。ちゃんと挨拶をしたかったのに、いまだに身体が重くて動かない。
「そういやレオン、ユドミラと何話してたんだ? 告られた?」
「そういうのじゃない……」
「どーだかなぁ」
ディーとレオンハルトの会話も一枚布を挟んでいるかのように遠い。その間も回復魔法はリゼットを癒し続けている。
「色々と言われたけれど、彼女の目的はきっとパーティを解散させることだろう。リゼットを本山に連れて行くためには、俺たちは邪魔だろうからな」
――解散。
その言葉に胸が詰まる。
「本山ねぇ……こいつには向いてないだろ――って何暗い顔してんだよ」
「レオン、ディー……私は、あなたたちが必要です」
「なっ、いきなりなんだよ。恥ずかしいやつだな」
「でも……別の道を歩まれるなら……」
リゼットはノルンからこの冒険に出るとき、ふたりを半ば強引に引っ張ってきた。一緒に冒険がしたかったから。
だがそれが自由を邪魔してしまっているのなら。
「応援、します……」
目を固く閉じ、何とか言葉を絞り出す。
「応援してる顔じゃねーだろそれ」
「……顔は、見ないでください」
ディーはため息をついて、くしゃくしゃと自分の髪を掻き乱した。
「抜けるつもりはねーよ。お前らといるとすげー儲かるし……キリングベアーの毛皮も、ミスリルも、リヴァイアサン素材も高く売れるだろーし……でもな。別にそれだけじゃねーから」
――ぽつりと。
「もうとっくに、儲かるからとかそれだけじゃねぇから安心しろよ」
「……はい」
安心して、ほっと身体の力が抜ける。
「レオンも、その……」
「――リゼット。俺はリゼットと共にいる。何があっても、この気持ちが変わることはない」
重なっていた手がぎゅっと握られる。
大きな手から体温とともに熱いものが伝わってきて、リゼットは思わず顔を伏せた。
(……回復魔法ってこんなに時間がかかるものだったでしょうか……)
ダンジョン内ではあっという間に治していた気がする。
(あ、そうか。ダンジョン領域が消えたから、力が弱まって)
ダンジョンが崩壊し、聖遺物が外界に戻ったのだ。ダンジョン領域外では魔法やスキルの威力は格段に落ちる。先ほどまではその余韻が残っていたが、いまは急速に弱まっていっているはずだ。
(でも、もう痛くないんですけれど……)
もう手を離しても大丈夫なはずなのだが、リゼットは言えなかった。
離したくないと思っていた。
――そして、ふと気づく。いつの間にか現れていたフレーノが、横から覗き込んできていることに。
『続けてください。わたしのことは気にせず。さあ、さあ』
「も、もう大丈夫です」
手を離し、立ち上がる。
フレーノはつまらなさそうな顔をしながら、ふわりふわりと空中を漂う。
『――リゼット。あなたは、誰かのためならどんなリスクにも飛び込んでいくのですね。実に好ましいです』
青い瞳が輝いて、リゼットを見下ろす。
『ですが、とても危ういです』
ぞわりと、背中に冷たいものが走った。
ディーが間に入るように、リゼットの前に立った。
「こいつは別に間違ったことはしちゃいねーだろ」
フレーノは柔らかに微笑み、ディーの鼻先を指で軽くつついた。
「なっ――?」
焦るディーの前でからかうように水を翻す。そして、リゼットの前に降りる。
『わたしが言いたいのは、あなたはとても強い人。失ってはならない人。その自覚を持ってほしい、ということです』
「……なんかあんた、女神様にしては、人間ぽいな」
『わたしたちもあなたたちと同じ。それぞれ性格が違います。それに、あなたたちは特別ですの。リンゴがおいしかったので』
「リンゴ、ですか?」
「なんでもねーよ」
ディーは照れくさそうに頭をかく。
フレーノはくすくす笑いながら、ふわりと浮かび上がって風と戯れる。この世界にいることを喜ぶように。水をきらきらと輝かせて。
『――フォンキンは、元々はごく普通の冒険者でした』
動きが止まり、湖をじっと見つめる。
『このダンジョンでマスターを失ったばかりのリヴァイアサンに魅入られて、マスターを継いだ。そして今日、彼の魂もようやく解放されたのです』
両手で胸を押さえ、慈愛のこもった表情で語る。
『リゼット、もっと湖の近くに』
フレーノが望んだように、リゼットは湖に近づいた。レオンハルトに支えられながら。
フレーノが、胸に抱いていた魂を両手に移す。
そしてリゼットは気づいた。
その魂がひとつではないことに。
いくつもの魂の欠片が、光りながら漂っている。フレーノの手の中で。
フレーノはそれを湖に放った。光は眩く煌めきながら、水に溶けていく。
空を映した水面は、まるでフレーノの瞳のように青く澄んでいた。