憧憬の蕾
この花が枯れるまで、恋人になってほしい。
こぢんまりとした花束を差し出しながら、奴はそう告げた。
つきあってほしい、ではななく、恋人になってほしい……と。
お陰ではぐらかすことはできなかったし、完全に「驚きました」という表情をしてしまった自覚があったので、聞き逃したふりをすることもできなかった。
黒い瞳で、短髪。こんがり小麦色に焼けた肌。どちらかといえば寡黙で、日中の校舎内より放課後の校庭での印象の方が強い奴だった。砂埃にまみれながら白球を追う姿。こめかみから流れる透明な汗。
汚れた練習着をまとっているのに、どこか透明感のある存在。
俺とは違う世界の生き物だ。
そんなふうに思っていた相手が、突然花を持って眼前に現れ「恋人になってくれ」と告げてきたのだ。
驚かないわけがなかった。
そのとき……なぜ差し出された花を受け取ってしまったのか。
理由は今でもよくわからない。ただ奴は冗談や罰ゲームみたいなもので「そういうこと」を口にするタイプではなかったし……なにより、目が。じっと見つめてくる目が、この口から「いやだ」という言葉を吐き出すのを封じてきたように思う。
毎日朝と夜、受け取った花の写真を奴に送る。
花がすべて枯れたら、この「恋人関係」は終了。
取り決めたルールはこのふたつだけだった。
期間限定とはいえ、真っ向から恋人になってくれ訴えてくるような相手だ……一体なにを要求されるのか。最初はちょっと身構えていた。
なにせ奴はどこからどう見ても男で、なにをどうしたって女の代わりにできるような要素はなかったし、俺は同性を恋愛対象として見たことがなかった。
手をつなぎたいといわれたらどうしよう。キスしたいといわれたら。素肌で抱き合いたいといわれたら。
まったく想像することもできなかったし、求められても応えてやれる自信はなかった。
が、こちらの予想に反し、奴はなにも要求してこなかった。
唯一求めてきたのは、放課後一緒に帰ることだ。
ちょっと寄り道をして本屋を覗いたり、スポーツ用品店で新しい靴を買ったり、ファストフード店で小腹を満たしたり。なにもなければ電車の駅でそのままお別れ。
手をつなぎたがることもなければ、やたらとひっついてくることもなかった。それどころか、甘い台詞や視線を投げてくることすらなかった。
奴は常にどこかよそよそしく、半歩分の距離を開けて隣を歩く。
俺を、名前でも愛称でもなく苗字で呼ぶ。
朝晩のメールで、花が萎れてきたと報告すれば「そうか」と返ってきたし、ひとつ枯れたと報告すれば「そうか」と返ってきた。
上の方についていた蕾が開いたと報告したときですら「そうか」と返ってきた。
恋人というにはあまりにもよそよそしく、友達と呼ぶにもなにかが違う。
俺は一体なにをやっているんだろうか……内心頭を捻りながらも一週間はあっという間に過ぎた。
連日一緒に下校して、やっと奴も「ふたりの空気」みたいなものに慣れてきたのかもしれない。
二週間目に入ってからは、ぽつりぽつりと自分から話をするようになってきた。というか、最初の一週間はほぼ喋らなかったというのが逆にすごいと思う。
自分から申し出てきた割に会話の主導権は丸投げ、話しかければ答えるが自分から口を開くことはほぼ皆無……これでよく「恋人になってほしい」なんていってこられたものだ。
俺がもうすこし短気だったら、花が枯れるのを待たずして「つまらないからもうやめよう」といってしまっていたと思う。
お前はなにが好きなんだ。
そう問われ驚いて、その日は好きな食い物を答えた。
また同じ質問を投げかけられたときには、当たり障りのない趣味っぽいものを答えた。
その次に同じ質問を投げかけられたときには、巷で流行っているネットゲームをハマっているものとして答えた。
毎度同じ質問を投げてくるので返答に困り、とうとう本当の……あまり人にいったことのない「答え」を口にすると、その週末、ふたりで空港まで遊びに行くことになった。
とくになにをするでもなく、ただただ飛行機の離着陸を眺め続けるだけの時間。きっとつまらないだろうと考えて、さすがに奴に謝った。
奴は真顔で首を振り、
これからは、飛行機を見るたびお前のことを思い出しそうだ
ぽつりとそう呟いた。呟いてすこし……ほんのすこしだけ、口角を緩めた。
空を見上げる横顔が網膜に焼き付いて離れず、その夜、奴の夢を見た。翌日なんとなく、本当に何気なく、切り花がどのくらい保つのかをネットで調べた。
下の方の花が萎れると「萎れたな」と思い、上の方の蕾が開くと「咲いたな」と思った。まだ咲いていない蕾の数を数えた。
奴が寄越してきた花は、あまりたくさんの水につけない方がいいらしい。
それを知ると、ずっと水に浸かってふやけていた切り口をすこし落とし、器を変え、少なめの水に浸るようにした。
茎を切り落としたので背が低くなり、活けて飾るには多少不格好になったが……飾るのが目的ではなかったので気にならなかった。
大切なのはいかにして室内を彩るかではない。いつまで咲き続けるか、だ。
本当に好きなものを人にいうのは、すこしばかり勇気が要る。
たとえばそれを、自分は好きではないと否定されたり。くだらないものだと貶されたり。キャラに合っていないと茶化されたり。
そういうことが普通に起こるからだ。
別にそれで深く傷ついたりはしない。自分の好きなものを万人が好んでいるなんて思っちゃいない。けれども人は、本当に大切なものは自分の中に仕舞いがちだと思う。
なのに奴は、ずけずけと「好きなもの」はなんだと繰り返し問いかけてきた。
当たり障りのない答えが尽き、うっかり「本当に好きなもの」を答えてしまうくらいに、何度も。
なので今度は、こちらから奴に「好きなもの」を訊ねた。ちょっとした仕返しのつもりだった。
奴は夏の、アスファルトが焼ける匂いが好きだといった。
部活の休憩時間に飲む水。青い空に弧を描く白球。ぬるい風が汗ばんだ肌を撫でていく感覚。夕暮れ時、外灯がつくその瞬間。楽しそうに笑いながら帰っていくクラスメイトの姿。
それから、俺。
このとき奴は、互いの呼気の温度がわかる距離まで近づいてきたが……結局触れてはこなかった。
寄越してきた花が枯れるよりも先に、奴は俺の前から姿を消した。
まあ、なんとなく予想はしていたことだ。
もしだめだったとしても、逃げ道はある……そのくらいの保険がなければ男が男に花を差し出し「恋人になってほしい」なんていえるわけがない。
聞けば、親の仕事の都合かなにかで海の向こうへ引っ越していったらしい。
空港に何度も足を運び、離着陸する飛行機を何機も何機も並んで眺めたというのに……奴は近々自分があの中に行くことを俺にはいわなかった。
花はまだ咲いていたのに。それがすこし腹立たしかった。
奴がいなくなってからも、朝夕のメールは送り続けた。
今日咲いた。今日枯れた。蕾の数が減ってきた。あと数個で花も尽きる。既読のつかない一方的なメールだけが溜まっていく。
蕾がなくなり開いた花が全部枯れると、メールを送ることもなくなった。
飛行機を見るたびお前のことを思い出しそうだ。
奴がそう告げたように、ひらひらの、およそ男子高校生が部屋に飾るには不似合いな花弁を目にするたび、奴のことを思い出した。
誰にもいったことのない将来の夢を口にしたとき、奴は真顔で「そうか」と頷き、叶うといいなと呟いた。
叶うかどうかは俺次第である、とも。
夢に見ているだけでは叶わない。叶えたいならば自らつかみ取りにいかなければならない。
そうしなければこうやって俺とふたり、並んで飛行機を眺めることもなかっただろう……と。
別にこの言葉に背中を押されたわけではないけれど、花が枯れ奴にメールを送る理由がなくなると、真面目に夢に向かって勉強を始めた。
正直、将来の夢とか……そういうものはふんわりと頭に思い描くだけ、憧れのまま心の内に秘め、ずっとあたためていくものだと思っていた。いつまでも咲かない花のように。
あれになりたい、こうしたい、と考えながらも結局は、普通に進学し普通に就職し、普通に恋人を見つけ普通に結婚し、普通に老いていずれ死ぬのだと。
奴の「恋人」にならなければ、多分本気で目指したりなんてしなかった。
休みの日に空港へと足を運び、色褪せない憧憬の蕾を胸に空を見上げていたと思う。
夢を叶えた
ずっと消せずにいた宛先に、先日ひと言だけメッセージを送った。
携帯も変わり、過去の履歴はもう残っていない。それでもずっと消せなかった。違うな。消さなかった。
夢が叶った、ではなく、夢を叶えた……と打ち込んだのは、俺なりの矜持だ。ふんわりしている間に勝手に叶ったんじゃない。
掴み取るために相応の努力をした。蕾のままずっとあたためていくはずだった花を、自らの手で開いた。
それをどうしても奴に伝えたかった。当人には届かずとも、伝えようとした、という実績を残したかった。理由は自分でもよくわからない。
すこしためらった後に、紙飛行機マークの送信ボタンに触った。
既読、という文字は、その瞬間に画面に現れた。
【20200607 了】