7.
「これは、進展?」
生田さんは喜ぼうにも喜べず、と反応に困った様子をみせた。かなりだよ、と康祐が諭すように言った。
中川さんと会ったあと、明日三人で集合しよう、と康祐が提案した。
「わかった、夕方ね」
二度目の返信は遅く、二時間くらいたってからだった。
ぼくが昨日のことを一通り――そして度々の補足を康祐がはさみながら――し終えたところで、ぼくの頭のなかも生田さんとそう変わらない気がした。
「多分、中川さん、ほんとはなにか知ってる」
あまりの驚きに声すら出なかった。
「だから、何か理由、というか約束みたいなものがあったんじゃないか」
驚き続けているぼくと生田さんを置き去りにして、康祐は独り言をやめない。
「口止め、てこと?」
おそるおそる声を発した生田さんに、たぶんな、と下げていた顔を上げて康祐が言った。
肝心のぼくは、もうなにも考えられていなかった。そのあとも康祐と生田さんはぽつりぽつり話していたけど、耳に入っているだけで消化不良を起こしていた。足跡を追うだけのつもりで、計画性なんかないと踏んでいたから。
とりあえず、と康祐がわざとらしく大きな声をだした。
「とりあえず、これ以上考えてもしかたない」
合わせるようにして大げさに首を上下に振った。
「また手がかりがいるねえ」
無いはずのヒゲをなでながら生田さんはぼくを見た。そして康祐も。
わかったよ、と苦笑いをつくってみせた。
「また何かみつけたら連絡するよ」
頼んだぞ、と生田さんはにやりとした。ワトソン君、とか言い出しそうな勢いだった。
手がかりか――。あるとすれば、あそこしかない。
ぼくがまだ手をつけていない、いや、つけられていないところがあった。お母さんの部屋だ。
立ち入り厳禁、なんてことは一度も言われたことがない。けれどそもそも入る必要があったことがなかった(何かを取ってきて、なんて頼まれたことすらなかった)。
けれど、今は必要がある。生田さんにああ言ってしまったわけだし。
とはいえ許可をわざわざ取るわけにもいかない。お母さんのいない、明日の月曜日、帰ってきてすぐ。それしかないと思った。
何かを企むとき、ぼくは小心者になってしまうタイプだ。きっと何とかなる、だなんてこれっぽっちも思えなくて、かなり細かくチェックする。
普通に帰ってきてもたっぷり時間があるのに、走って帰ってきた。もちろんお母さんはいない。
自分の部屋へいって荷物を置くまではよかった。リビングを抜けてお母さんの部屋を前にして、その勢いはにわかに減速してしまった。
やっぱり人の部屋に無断で入るなんて……。未遂のうちなら、まだ潔白な気がした。
ごめん、生田さん、と心のなかで呟いてから、初めてそのドアを開いた。罪の理由(というか言い訳)を生田さんにしてしまったのだ。
部屋の真ん中にはどん、と大きな机がある。お母さんの部屋、というよりは書斎といった方が近いのかもしれない。左右は壁一面の本棚だった。
聞いたことのある作品とか作者もちらほらあった。下の方の段は高く作られていて、図鑑みたいなのが並んでいる。かがんで見てみると、そのなかにアルバムがたくさんあることに気づいた。
開いてみると、中は風景の写真ばかりだった。でも、お母さんもお父さんもカメラを持っているところを見かけたことは一度もない。
怖くなってきた。また、よく知っているはずの人が実はずっと遠くにいた、そんな気がして。
そのままめくり続けてもずっと風景ばかり。でもそのどこかがぼくを惹きつけていた。一冊目の最後のページにたどりつくまで、無心になっていた。
そのまま何冊かみていくうちに、これはお父さんが撮ったんじゃないか、とうすうす思いはじめた。なんというか、お父さんの好みな気がする。
その疑念は、ある一枚によって確信になった。これはお母さんだ。今よりずっと若くて元気そうだけど、きっと間違いじゃない。
でも、どうして教えてくれなかったんだろう。
また次のもみよう、と手をかけると、それは今までと全然違うものだった。アルバムというより写真集だった。なかを開いてみても、これは違う。お父さんの写真じゃない。
一様にめくり終えて、裏表紙まできた。そこには、「二年 土田鷹子」と走り書かれていた。知らないはずなのに、知っている気がした。そして、会ってみたい、という衝動が内気を打ち破って出てきた。
連絡先はすぐに見つけられた。ぼくの家では全部一括して電話の隣に電話帳が立てかけてあるから。三冊あるうちの、一番古いやつに書かれていた。
時計に目を向けるともう六時半だった。ゆっくりしていられない。第一声を考える前に、記された数字を一つ一つ目で追ってボタンを押す。
何がここまでぼくを強く押したのかは分からない。ただ、お父さんにたどりつけるかも、とかそういうのじゃないのは確かだった。
三コールくらいした頃か、受話器の先の音の世界ガラリと変わった。周りで人が話す声、車の音、CMの音……。そこは都会らしく思えた。
はい、とちょっと嫌そうな声がきこえた。
「あの、土田鷹子さんですか」
おそるおそる確認すると、ふふ、と笑うのがかすかに響く。
「いいえ、ようこです」
え、と出してから声はでなくなった。ぼくが戸惑っているのを感じたのか、
「それで、あなたは?」
とおかしそうによう子さんは言った。
「あ、えっと佐藤久人です。ぼくの父――佐藤賢人と知り合いかと思って」
何を言ってるんだ。何を伝えたいのか自分でも分からなくなっていた。
「ええ、知り合いね」
今度はくすっと笑っていた。
よう子さんは、初対面なはずのぼくにとても優しく話してくれた。今ちょっと忙しいの、と困ったように言って、今度お茶しましょう、と提案してくれた。
気持ちのいいくらいからっと晴れて澄んだ水色の空だった。
空気の濃度が薄くなると急に寒くなる。とても高い――それもどこかの山頂を越えて宇宙の一歩手前くらいの――ところでは気温が低くなるって理科の先生が言ってた。この寒さは、それがぼくのいるところまで降りてくるからだ、と決めつけている。
軽々しくぼくのうなじを風が抜ける。着込んだはいいものの襟巻きを忘れてしまった。
土曜日。表参道駅B3出口をあがったところ。それがよう子さんとの待ち合わせ場所だ。
駅構内はいつかテレビで観た、大きな交差点を縦横無尽に人が歩き回るような状態がずっと続いていた。ベーグル屋さんにローソン、そして柱に巻きつけられた大きな広告。でもだれも立ち止まることはなくて、ぼくも早く出なきゃいけない気になった。
改札を出るとその表示はすぐに見つけられた。約束の十三時まであと十五分ある。
ほんとうなら一時間くらい前に着くつもりだったのに……。この間なんて康祐がいてやっとだったのを、一人で二回も乗り換えられるようになるなんてかなりの成長だ(降りるたび駅員さんにお世話になったけど)。
達成感ももちろんある。けどそれと同じくらい疲労感もあって、今すぐ家のベッドに飛び込みたかった。
落ち着こうとして、自動販売機を見つける。康祐はやっぱり頼れるやつで、多分この先もずっとぼくは頼っていくんだと思う。けど、だから、今回は一人でやりたかったんだ。
ミルクティーじゃなくて、ストレートティー。ほんのちょっぴり大人になった実感があった。
出口までもうすぐ、と思っていた。来る途中では全然気づかなかったけど、思ったより深くきてたみたいだ。予想以上の階段の長さに息も切れてきた。
昇りきったときにはほぼ約束の時間ぴったりだった。甘さがほんの少しだけあるストレートティーを一口飲んでから周りを見渡すと、ぼくと同じように誰かを待っている人たちがちらほらいた。
ぼくも他の人と同じように、歩道と車道を分ける柵に腰をかける。細すぎてちょっと座るのには向いていない気がした。
ひさとくん。ぼくが右側に目を向けているときに左側から声を掛けられた。びっくりして振り向くと、ショートカットでたまに紫がみえる髪の女性がこっちに向かってきていた。
「はい。よう子さんですか」
はい、と少し笑った。真似されたことに気づくには少し時間がいった。
「よし、じゃついてきて」
そう言うなりくるっと180度回ってカツカツ、と音を立てながら行ってしまった。慌ててぼくもついていったけど、康祐なんか比にならないくらい速かった。
歩く途中ずっと都会だなあ、という感想ばかり浮かんでいたのに、着いた先は全然違った。もちろんそこにいる人たちは変わらず都会的だったけど、閑静、というのがぴったりなところだった。
よう子さんに続いてドアを押して入ると、よう子さんは手をあげた。するとマスターっぽい人も手をあげた。
歩くペースは変わらずで、すいすいと奥へよう子さんは進んでいく。そのおじさんの横を通るとき、何? 犯罪? とおどけられているのが聞こえた。違うわよ、とよう子さんは笑っていた。
一番奥の席に座った。さ、何飲む? とよう子さんがきいた。
メニューを受け取って飲みたいものがあるか探す。
「あの、ホットミルクティーお願いします」
やっぱりちょっと甘いものが飲みたかった。
「それで、どうして私を?」
よう子さんはいかにも興味津々といった様子だった。
今度はためらわず全部話した。お父さんがいなくなったこと、その理由を探していること、よう子さんを写真集の裏表紙で見つけ出したこと、全部。
一気に伝えるのは意外と難しくてつっかかったりしたけど、よう子さんは一生懸命に聞いてくれた。話しながら、もっと話すのがうまくなりたいと思った。
いつの間にかミルクティーは置かれていて、さも気づいていたかのように飲んだ。よう子さんは考えていた。
「賢人くんとは、大学の同期なんだよね」
よう子さんはそっと話し始めた。
「比較的まとまった夢をみんな持ってたの。そのなかでも、彼のは大きくてはっきりとした夢だった。」
ぼくとよう子さんのあいだにあったよう子さんの視線は持ち上げられた。そしてぼくと目を合わせた。
「そう簡単に手放せるわけがないの」
そう言って、よう子さんはすこし悲しそうな顔をした。
ぼくは申し訳ない気持ちと,この空気を変えたくて、
「あの、よう子さんの写真、好きです」
と励ましにもならないようなことを言った。
よう子さんは軽く笑って、
「君のお父さんも同じことを言ってたわ」
と言った。
それから、よう子さんの話をきいた。大学生活、そのときの夢、今やっていること。それらは聞いていてとても面白くて、ぼくの関心を総ざらいした。
その様子が伝わったのか、今度仕事場見に来る? と誘ってもらった。ぜひお願いします、と言った。
番号以外にも連絡先を交換してもらって、席を立った。ミルクティーだけじゃなくてケーキまでご馳走になってしまった。
待ち合わせの出口まで来て、お礼を言おうとしたら、
「実はね、久人くんが生まれたとき私もいたんだよ」
とよう子さんが言った。やっぱり会ったことがあったんだ。
「あれ、もっと驚くと思ったのになあ」
よう子さんはちょっぴり悔しそうだった。
お礼を言うと、また今度ね、と手を振ってくれた。




