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水蒸気  作者: 鱒子 哉
6/8

6.

 結局原因は不明だった。けれど、ぼくができるだけ早くお母さんと話すことが、生田さんの機嫌を直す一番の方法だとわかっていた。いまのぼくの気持ちでは、ショックに支配されてうなだれながら帰るどころか、その唯一の方法をちょっとでも早くやらなくちゃ、と焦っていた。

 お母さんに何かお願いをするときに鉄則なのは、事前に機嫌をとっておくことだ。

 ぼくがいまよりもずっと幼い頃、お父さんはことあるごとにその実例をもってそっと教えてくれた。そういうときのお父さんはきまってちょっと嬉しそうだった。

 それに則るようにして、今晩はグラタンにしようと決めた。なにか大きなことを忘れているような気もしたけど、材料もすっかりそろっていて、ぼくまで上機嫌になった。

 ミス一つなく進められていたところに、がちゃり、ときこえた。いつもタイミングがいいのね、とそっとつぶやいてみる。

 ただいま、と疲れを露わにしながら言ったその口角は、匂いを察してするりとゆるんだ。まさか、と口をおおう。そしてとっても嬉しそうに、まだ十月なのに、と言った。

「もう完成だから、早く荷物置いてきて」

 気づかないフリをしながら言うと、まるで犬みたいに首を二回振り、小走りで部屋にいった。

 テーブルにグラタン、いい具合に焦げたフランスパン、そしてオニオンスープを並べる。これらは全部お母さんの大好物だ。ここまではねらい通り、お母さんは目をきらきらさせている。

 エプロンをはずしてぼくも椅子につくと、

「今日、誕生日じゃないのよ、」

 とそっと申し訳なさそうに言ってきた。もちろん知ってる、ともう笑みを隠せずに返す。

 いただきます、と声を合わせてから、ぼくはお母さんの様子を観察していた。

 どこから手をつけようか、とフォークを右手に構えたまま(、、)まじまじと、なかでも一番の好物であるグラタンを見つめていた。そして、まんなかの焦げた部分に突き刺して周辺をごっそり持ちあげ、一口に入れこんだ。相変わらずその食いっぷりはお父さんよりも男らしい。

すこし熱そうにしながら、おいしいわ、と目を合わせて言ってくれた。

「ききたいことがあるんだけど」

 なあに、とその幸せそうなまま訊かれるものだとばかり思っていた。お母さんは、その幸福な様子を一切消してぼくをじっと見つめていた。

 お父さんがいなくなってすぐの頃、ぼくはこの雰囲気に気圧されたことを思い出した。つまり、お父さんについてきくのはタブーだったことを忘れていた。

 きく前に、先手をとられてしまった。とっさに、なんでもない、と口にする。

 そう、と伏し目がちにまたフォークを構えて、今度は小さく切ったフランスパンを口に入れた。

 また生田さんに怒られる、と絶望を感じながらぼくはグラタンを平らげることしかできなかった。

 洗い物もすっかり終えてから、庭へ出る。

 ぼくのうちは、夕飯を終えてからまとめて郵便物を回収する。お父さんがそうしていたから、ずっとそうだ。

 ダイヤルを右の3、右の1,そして左の6、とまわす。律儀ね、開けっぱなしでいいじゃない、と見かねたお母さんに言われてしまう。お父さんがいなくなってもそれを何でか憎めなくて、お父さんの習慣を残していた。

 郵便受けには灯りがついていて、そこで受取人を確認する。滅多にないけど、たまに隣の山田さんちのが紛れてたりするから。

 一通一通を丁寧に見ていく。すると、お母さん宛てばかりのなかに、お父さん宛てのハガキがあった。裏を返すと「第十回同窓会やります」と華々しく印刷されていた。

 普段は必ず一緒に夕食をとるお父さんも、「同窓会」のときだけはそっちに参加していた。その晩はいつもちょっぴりお母さんが不機嫌になってたけど。

 せり上がる高揚感につられてそっと家の方を見やる。お母さんに見られてはいない。

 さっとそのハガキをシャツの中にいれ、そしてズボンの腰のところではさみこむ。これはぼくがなにかを隠すときの常套手段で、まだ一度もバレたことはない。

 はさんだ、といってもそれで安心はできない。ぼくは急いで家のなかに戻り、ほかのお母さん宛てのものをリビングのテーブルに無雑作に置く。ちゃんと右腕でお尻の上を押さえながら。

 無事に緊急ミッションを終え、自室のベッドに文字通りダイブする。冷静になって、もう一度ハガキをしげしげと眺める。

 思いつきはしたものの、さすがに同窓会に飛び入りできるほどの度胸はない。でもこのチャンスは逃せない。自然と口角が上がるのを感じた。

 深く悩みはじめる前に、康祐に報告のメッセージを送った。こんな内容ならすぐに返してくるだろう、と思ったし。

「お父さんの同窓会の招待状手に入れた!」

「飛び入るのか?」

「いや、さすがにそれは……」

「そうだよな、じゃあ、それ送ってきた人の家にいこう」

 誰も今のぼくをみていないのに、まるで外国人みたいにオーバーに口を開いたり手を広げたりしてみた。さすが康祐だ。

 ぼくはもうドキドキでいっぱいだった。あの、大好きだったお父さんに会えるかもしれないなんて。体がじわじわと熱を帯びてきた。なんだか走りたい。この夜の町を駆け回りたい。そんな気分だった。

 とんとんとん、とドアがぼくに来客を知らせる。

「なに、お母さん」

 いつものようにゆっくりと開いて半歩だけ侵入する。

「お風呂、久人の番よ」

 ああ、わかった、と極力つまらなそうな声で返事をする。背中を冷たいものが上から下へすうっと走る。

「やけに上機嫌ね」

 失敗したか。はは、と笑うことしかできない。追求されると困る。

「そういう風に笑うところ、お父さんに似たのね」

 悲しそうにお母さんは言った。

 ぼくが反応に困っていると、

「冷めないうちにね」

 と言うが早いか、ばたん、とドアを閉じて戻っていってしまった。




 次の日は、ちょうど休みの土曜日だった。

 月曜日から金曜日まで毎日生田さんと会っていて、学校が休みになったらどうなるんだろう、と不安だった。けど結局怒らせてしまって、休日はどうするのか、という話どころではなかった。

 とりあえずそのハガキを見たい、と康祐が言い出したから、ぼくの部屋に朝の十時にやってきた。

 康祐によると、ハガキに書かれていた住所は意外と近い、らしかった。ぼくのお父さんはこの辺りの高校に通っていたのかもしれない、とも推測した。

「昼食ったら行ってみるか」

 そう言ってくれるのを待っていたぼくは、思いがけず嬉しさを前面に出した声でうん!  と返事をした。

 康祐は苦笑いをみせた。そうしながら、じゃ、昼つくってくれ、と言って愛用しているブラックのリュックサックの、前から二番目のポケットから文庫本を取り出し、開いて読みはじめた。

「じゃこチャーハンでいい?」

 否定されても困るけど一応きいてみる。けど、彼はもう本の世界に入り込んでいた。

 少食にみえてばくばくと康祐は食べるから、ぼくの1.5倍は盛ったのに、食べ終わりはほぼ同時だった。

「生田には連絡したのか」

 ああ、と思い出したフリをしてメッセージを送る。ほんとはずっと迷っていた。お母さんに話をきいたらって言われたから。返信はすぐだった。

「三人で押しかけるのもアレだから二人で行ってきて。中村くんならきっと頼りになるね。」

 その通りだと思った。絵文字や顔文字はいつもないからあてにならないとして、どうやらもう怒ってはないみたいだ。

「来ないってさ」

 そうか、とまるで分かっていたみたいに言って、じゃあいくか、と康祐はリュックサックに手をかけた。

 電車で三駅。すぐそこ、と康祐は言ったけど日頃電車を使わないぼくからすれば十分すぎるくらい非日常な体験だった。まねをするしかないぼくは康祐に笑われながらもホームまで上る。

ほんの二分前に発車してしまったらしく、ぼくらの側には全然人がいなかった。

 飲み物買ってくる、と言ってぼくに座り心地の悪そうなベンチに腰かけさせた。それは見た目だけじゃなくほんとうに悪かった(康祐が戻ってくるまでに何回も姿勢を変えないといけないくらいだった)。

 康祐は戻ってくるなり、小さいペットボトルのミルクティーをぼくに(ほう)った。

「好きだったよな、やるよ」

 得意げな顔をして、康祐は竹のデザインが施されたお茶を飲んだ。

 康祐は座んないの、ときこうとしたら、男の人のアナウンスが流れた。きっともう電車がくるのを見越していたんだ。

 ぼくは一口だけミルクティーを飲んで、昨年の誕生日プレゼントとしてもらったショルダーバッグにそれをしまった。お母さんのセンスはいつもよくて、これは康祐にまで、いいな、それ、と言わせたほどだ。

 ホームに記された乗車口とぴったり合わせて電車は停まり、静かに開いた。

 中は熱くも寒くもなく、快適だった。電車は案外いいものだ、と思った。

 三駅は思っていたよりもあっという間で、降りるぞ、と康祐に注意されるまで電車を満喫していた。

 慌てて康祐に続いて下車し、ホームからも降りる。この駅は他にもう一路線あるらしく、ちょっと人が多かった。駅の中に本屋とかそば屋とかがあって、まるで駅とは思えなかった。でも、それを口に出すと笑われるだろうから黙っていた。

 改札も無事に通りきれて、ほっと胸をなで下ろしていたら、こっちだ、と康祐がすたすた進みだした。電車内でスマートフォンを使っていたのは住所を検索していたからか。

 またもう一口ミルクティーを入れて、あとに続いた。

 康祐は早足になっていた。なんだか楽しそうだった。ぼくはというと、ついていくのに必死でどんな道だったか全く覚えていない。

「着いた」

 それは駅からほんとに近くて、しかもこの辺りで一番高層なマンションだった。

 いきなり訪問して受け入れてくれるのかな……と不安になってきたところで、康祐はロビーで部屋番号をもう押し始めていた。

 間もなく中川さん――また中川からきたよ、と毎年招待状が届くたびにお父さんはそわそわしていた――は出てくれた。はい、と落ち着いた大人の声だった。

「あの、佐藤賢人の息子なんですけど、」

 心拍数につられて早口になってしまった。

 相手はしばらく黙ったままだった。何か加えて言った方がいいのかな、と焦っていたら、

「どうぞ、入ってすぐ右にエレベーターがあるから使ってね」

 と優しく教えてくれた。

 プツッときれるのを待ってから、よかったな、と康祐はぼくをみた。緊張していたのはぼくだけじゃなかったみたいだ。

 大きなガラスのドアが開いた。

 ぼくと康祐は教わったとおりそのドアを抜けて右手にあるエレベーターに乗り込んだ。7のボタンを康祐が押してくれた。

 緊張と不安に支配されながらも、楽しみな気持ちがほんの少しあった。

 チン、という音とともに重たそうなドアが優雅に開いた。ぼくらは黙ったまま、中川さんの住む四号室へと向かった。

 部屋はすぐに見つけられた。表札もあったから間違いもしなかった。

 押せよ、と康祐が目でいってくる。ええ、というような顔を作りながらも、ここまできて帰れないし、とそうっとインターフォンを押す。

 ガタンッとドアは待つことなく開いた。ひげがもじゃもじゃと特徴的なおじさんが、いらっしゃい、と笑ってくれた。


「コーヒーしかないんだ、ごめんね」

 謝るというよりは照れたように中川さんが言った。そして、牛乳と砂糖は、ときいた。

「お願いします」

 と康祐が先に言った。

「あ、お願いします」

 とつづいてぼくも言った。

 コーヒーが出されて、まず康祐が自己紹介をした。うんうん、と中川さんは愉快そうだった。

「それで、君が久人くんか。賢からよく話をきいてたよ。」

 お父さんは賢って呼ばれてたのか。それすら知らなかった。

 あ、はい、と曖昧に返す。お父さんがいなくなった、と言ってしまっていいのか。すぐにその決断はできなくて、そればかり考えていた。

「賢人が、いなくなった?」

 今までよりさらに愉快そうに、中川さんは言った。驚いたぼくと康祐をみてにこっと笑った。

「きいたんですか」

「いいや、全く」

「じゃあ、どうして」

 ぼくの質問にすぐには答えず、中川さんはコーヒーをすすった。

「一番の親友だったんだ」

 想定外の返事に、ぼくと康祐はなにも言えなかった。

「世間一般でいう夫婦って感じは最初っからしなかったんだよな」

 ああ、仲が悪いっていうわけじゃないよ、と一応、みたいに付け足した。

「絶対帰ってくる、とは言えない。けど、」

 また右手で持ち上げて、残りのコーヒーを一気に飲みほした。

「けど、身勝手なやつじゃない、これだけは絶対だ」

「つまり、ふと思い立っていなくなったわけではないんですね」

 康祐がすかさず言った。正直ぼくは、もう話をきくだけで精いっぱいだった。

 そうだと思うよ、と中川さんはちょっと他人事みたいに言った。そしてコーヒーのおかわりを淹れにいった。

 それからはとくに話すこともなくて、誰も何も発さなかった。中川さんも何か別のことを考えてるみたいだった。三人で沈黙をつくっていた。

 エレベーターからおりて、子どもたちが家に帰ろうと駆けている音がうっすらきこえた。

「そろそろ、帰ります」

 ぼくの口はそう言っていた。康祐は驚いたようにぼくをみたけれど、一番びっくりしているのはぼく自身だ。

 そうかい、と中川さんはすこし寂しそうにこっちを見た。またおいで、と言ってくれた。

 それからぼくら二人はあいさつをして一階まで降りた。マンションを出てからやっと緊張がとけたのか、互いの顔をみるとそれがすごくわかって、笑い合った。

「あー、帰るか」

 うん、とだけ返事して、また康祐の後ろについた。

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