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水蒸気  作者: 鱒子 哉
4/8

4.

 その日は緊張があったからか、目覚まし時計より二十分も早く起きられた。

 実際に会ったときはあんなに平然としていられたのに、別れてからは家事のほかだと――例えば勉強とかは――全く手につかないくらいだった。もっと言えば、メッセージを数通やりとりしただけで時間を忘れてしまうくらい。

 それでも気合いの入った掃除に長時間のゲーム、そして思いがけない生田さんへの接近は思っている以上にぼくを疲れさせていたようで、ドキドキで寝付けない、なんてことはなかった。

 目覚めがすがすがしいのは約束のせいだ。

 あんな風にぼくのお父さんの話ばかりだったけど、やっぱり家事には困ってたみたいだ。それでおすすめのメニューや参考にしたお父さんの家計簿を見せてあげることになった。

 家事といっても生田さんはほぼ料理だけで、とりあえず明日学校で、ということになった。ぼくはというと昨夜から目覚めた瞬間までも「学校で会う」ということが楽しみでもあり怖くもあった。

 ベッドから身を乗り出しつつ手を伸ばして頭の上にあるカーテンを引っ張る。主張のおだやかな青と対面する。そこには朝を疎む気持ちはなかった。体を戻してフローリングに映った朝を確認する。光そのものよりもそれが反射しているさまの方が安心する。

 ふーっと息を吐いて、起きるぞ、と力をいれる。軽快なぼくの起きだしは、なんだかんだいって自分のテンションが高まっているのを気づかせた。その勢いを殺さずにモスグリーンのラグを踏み越えて勉強机の前に立つ。寝る前に選んでおいた家計簿たちが角を揃えて眠りこけている。

 もう一回確認……と、何度しただろう。そう自分を毒づきながらパラパラとめくる。

 あれ、こんなのあったっけ。

 それほどしっかり一々を調べるわけでもなく、右手の親指でページを送っていた。その途中でうまく引っかからなくなって持ち直そうとしたときだった。最初にしっかり目を通したはずなのに、見慣れない文章をみつけた。

「間違っていた?」

 必死に料理のヒントを探していた当時のぼくからすれば、味付けに失敗でもしただけだろう、と見送ったんだろう。でも、違う。一番左下の欄はその日の料理の反省に使われていた(まあ、お母さんの好みにあわせるためのものなんだろうけど)。

 おかしいのは、欄がいっぱいになってないのにその下に書かれていることだ。

 一体何が、間違っていたの? 

 考えても分からないことはわかっているのに、その問いかけはぼくにおおきな波紋をつくった。

 どこを見るともなく視点を動かしていたら、リビングのドアが開く音がした。実際にはちゃんと聞こえたわけじゃなくて、空気というか気圧が動いた。お母さんが起きたということは、せっかくの早起きもだいなしになったってことだ。

 朝ごはんをつくらなくちゃ、と手にあったそれを閉じてそっと端によけて置いた。


 慣れた手つきでガタン、と下駄箱を開く。もう朝の一件はすっかり忘れていて、また生田さんについて緊張していた。というのも、約束は朝のホームルーム前になったからだ。生田さんはバドミントン部に入っていて放課後は時間が合わないけど、大会前じゃなきゃ朝練はない、とのことだった。

 いつもはもっと遅く登校しているから、やけに静かな廊下がまるで異世界のように感じる。でもこっちの方が好きかもしれない。

 一旦自分のクラス――六クラスあるうちの五番目で、前半クラスの上階だ――に入って、かばんの中の教科書やノートを机の中に移す。

 僕のほかには女子二人、男子一人がもういた。女子の方はきっとそのほかの友達には言えない内容を、ひそひそと喋りあっているんだろう。男子の方は(元来委員長とはそういうものなのか)、いつもながら似合っている四角の眼鏡をかけて、それがあたかも義務のように勉強に集中している。

 勉強は嫌じゃない。けど、きっとそういう風に見られるのを怖れているんだと思う。かといってこう見られたい、というのもないんだけど。

 とくにそのうちの誰かと仲がいいわけじゃなかったし、話しかける余裕もなかったから、生田さんに渡すものとスマートフォンだけを持って教室をそそくさと出る。先生がいないかだけを目を細めて確認してから、メッセージがきてないかをみる。大丈夫、何もない。

 予定通り、来たのと反対側の階段を使って下の生田さんのクラスへ向かう。何より今は誰にも見つかりたくない気持ちがあった。

 涼しい、を通り越してすこし冷えた。手をこすり合わせたり大げさに息をしたりして、タンタンタン、と緊張を落ち着かせるようにしてリズムよく下る。普段休み時間も教室にいるから、こちら側の階段の雰囲気になんだか馴染めていないような気がした。

 下の階についてすぐ左が、生田さんのいる三組だ。不審者にみられないように、さりげなく通りがかるようにしてドアに取り付けられたガラスから中をうかがう。

 いた、一番左前に座って他二人の友達と話してるみたいだ。

 困った。生田さんは一人でいるとばかり考えていた。三組には男の友達すらいない。仕方ない。そう思って前の扉の前に立って手をかけた。

「あ、佐藤くん、おはよう」

 気づかれないものと思っていたから、思わずドアを開けきるまえに目をむいてしまった。そしてなによりもまず、生田さんがぼくを呼んでくれたのが嬉しかった。

 生田さんの左にいる女子が、誰? と言うのが聞こえた。こういうときの女子はいつもこわい。

 友達、とぼくにぎりぎり聞こえる声で言ってから、ぼくのいる扉まできてくれた。おはよ、とやっと返事をする。気まずそうな声に自分で驚いた。

 二人で廊下の壁まで寄るなり、

「この間は話聞いてくれてありがと」

 と生田さんが言った。

 ああ、うん、と曖昧な返事をしてしまう。やばい、体全体に響くぐらい心音がうるさい。

「それ、いってたやつ?」

 と目でぼくの右手にあるものを指す。そう、と言って両手に持ちかえて差し出した。

「こんなに? いいの?」

 生田さんは驚きながらもほんとうに嬉しそうだった。うん、それで……と今朝のお父さんの話をしようとしたときだった。

 何やら視線を集めている感じがした。教室の方をみると、最初に生田さんといた二人がちらちらとこちらを観察していた。でもそれだけじゃなくて、登校してきた生徒たちが物珍しそうにみながらそれぞれの教室へと入っていく。珍しい組み合わせなのには違いないんだけど。

 でも、生田さんは全然気にしてないようで、パラパラと家計簿をめくっている。

「それで?」

 えっ、と反射で発してしまった。とっさに自分が言いかけだったことを思い出した。けどこのまま続けたら、悪趣味なやつらに噂にされるかもしれない。

 生田さんを風評被害から守らないといけない。とっさにそんな使命感を抱いた。

 あ、あとで連絡する、と頼りなさげな声をだして手をあげて、ぼくはさながら忍者のように階段へと消えようとした。うん、と取り残されて少し寂しそうな生田さんの声がきこえて、ぼくも少し寂しくなった。


 幸いなことに、とりあえずその日のうちは誰かにからかわれたり、なんてことはなかった。

 それから放課後になって、まず、もうホームルームだったから、と勝手に帰ったのをメッセージで謝った。そして、これからは生田さんの部活が終わってからにしよう、と提案した。そのあとで、自分はほんとうに意気地がないな、と軽く自己嫌悪した。

 その日の夜はいつになく家事に打ち込んだ。家事に対して大変さを感じなくなってから、何かストレスを抱えては家事で解消、というのがぼくのおきまりになった。お母さんはそれをみていつも「気でも狂ってるみたい」と愉快そうに言う。




 次の日から放課後、つまり生田さんの部活が終わってから会うことにした。場所はあの三角公園。お互い家事もあるから暗くなりすぎる前に解散、という約束つきで。

 ぼくはまた別の家計簿――昨日の朝によけたメッセージ(?)の入ったやつも加えて――を、表でパンダが笑っているトートバッグに入れて家を出た。

 制服のままだったせいか、夕方たまにふく風は身を震わせた。生田さん、寒くないかな――。そう思って反射的に家に戻りマフラーの端をクローゼットから引っぱってきた。生田さんのことになるとぼくはばかみたいで、でもそれはそれでよかった。

 公園についたものの、生田さんがいつ頃くるのかわからない。それを見越しててキャンバスでファッション雑誌を買っておいた。

 前と同じベンチで、この間よりすこしだけ右側に――生田さん寄りに――つめてすわって、それを開いた。読み慣れていないせいか思っていたよりずっとはやく一周を終えてしまった。どうしようもないからまた最初から(今度は広告もちゃんと)読み始めた。今一人であの一言について考えることはしたくなかった。

 三周目も半ばにさしかかるところで、よっ、という生田さんの声で顔をあげた。

「そんなに夢中になるなんて、よっぽど好きなんだね」

 あ、ああ……と否定するかどうか迷っていると、生田さんは前回と同じくらいのスペースを空けて隣に腰を下ろした。それから、とくに寒そうな様子でもなかったけど、風が寒くないのかをきくと、

「全然。むしろ運動してたからあついくらい」

 と笑っていた。なかなかうまくいかないもんだ。

 あーおなかすいたね、と生田さんが言うから、そうだね、と返す。あっ、雑誌なんかじゃなくてお菓子を買っとくべきだったんだ。

 それからすぐには家計簿の話にはならなかった。生田さんの部活の話――部長候補らしいがあんまりやりたくない、顧問が理不尽、とか――をぼくはてきとうな相づちをしながら聞いていた。生田さんとこうしているだけで小さい幸福感があった。

 それがひと段落ついて、二人とも黙ってしまった。車の音すらなく、たまに風で木々がざわめくぐらいだった。このままでもぼくはよかったけど、生田さんに飽きられるのがこわくて、そういえば、何かわかんないことあった? と空気を変えてみようとした。

「あ、ううん、なかったよ」

 生田さんもぼうっとしていたみたいで、びっくりしたみたいに否定した。そしてぼくはついに例の父さんの怪しい一言の話をした。

「え、絶対なにかあるよ!」

 生田さんは半ば興奮気味に言った。ぼくもなにかある気はしていたけど、そうかなあ、と否定するように返してしまった。

「ねえ、こんなこと佐藤くんからしたら迷惑でお節介かもしれないんだけど」

 そこまで一息に言い切ると、ごくん、と音がしそうな勢いで生田さんがつばを飲み込むのがわかった。

「ぼくのお父さんをさがしたい?」

 そう! と生田さんはまるで目を輝かせるようにしてうなずいた。それにつられて、ぼくもそれがものすごくいい考えな気がして、いいよ、と快諾した。

 まあ、気になってることではあったし、でも見つけられる自信もないけど、すっかり乗せられて乗り気になっていた。それに生田さんとの関わりも増えそうだし。

 こんな考えをしては、いや別にそんなんじゃ……と自分で打ち消そうとしていた。

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