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水蒸気  作者: 鱒子 哉
1/8

1.

 中学校への入学式の日の夜、まだぺかぺかと糊のついた制服に包まれたぼくを見届けてから、父さんは蒸発した。

 それ自体は表面上、とても穏やかだった。けど、ほとんどが小学校からの顔ぶれだとはいえ、これから始まる新しい学校生活に緊張していたところに、外ばかりじゃなく内にも大きな変化が起きた。

 父さんの荷物があった部屋――家の一番奥にある母さんの仕事の部屋の隣で、実質二人の寝室――をのぞくと、気づけば父さんが素知らぬ顔でふらりと――でもはっきりわかるように戻ってきそうな――空気だけを残して、父さんのものは何一つなかった。

 大好きだった父さんがいなくなってしまった、というよりはたった一日のこととは思えないその変わりように怯える気持ちが強かった。もちろん父さんのことは大好きだったけど、()()()()()()()()()()()()から、泣いたり怒ったりすることは許されていないようで自然とできなかった。

 そしてお母さんは、前からその約束をしていたかのように落ち着き払っていて、これから大変ね、と宙を見ながら呟いていた。

 父さんは働いていなかった。普通の家庭とは逆で、母さんが仕事を、父さんが家事を担当していた。それを父さんが望んでたとは思えなかったけど。それでも、父さんの料理はほんとうにおいしかったし、家のなかは感心しちゃうくらい掃除が行き届いていた。

 だから、父さんがいなくなったことで経済面に何ら問題はなかった。問題なのは、家事をどうするかだった。

 母さんは要領がいいくせに家事はてんでダメで、即席のものじゃなきゃ食べるのが億劫になるくらいだった。家庭科なんて私には無駄だとしか思えなかった、というのがいつもの言い訳だった。それに家に帰っても仕事――とはいってもその姿はみたことがなくて、でも昔からだったから今更気にもならなくなっていた――をしているから、結局はぼくという一択しかなかったんだけど。

 そうと決まって、母さんは自分の部屋から冊子の山をリビングのテレビとソファの間にあるガラスのテーブルに運んでいた。それは、父さんの使っていた家計簿で、そして三万円と渡してきた。

「とりあえずこれ、食費と家事に必要なものに使って。残りは佑真のお小遣いよ。あとは、そうね。その家計簿たちの中にいろんなメモがあると思うわ。じゃあ、頑張って。」

 ぼくの質問や反論――一緒に手伝ってよ、――などには一切受け付けないという意思を前面にだすような速さで言い切って、さっさと仕事をしに部屋にいってしまった。相変わらずの仕事人間、と心の中で毒づいてから、目の前の山に取り掛かることにした。

 メモがあるとすれば、父さんも家事を始めた頃の古いやつだろうと当りをつけて重ねられた圧でへなへなになったものを開いてみた。それはちょうど一冊目で、欄外にもいろいろと書き込まれていた。初めのうちは週に一,二回は冷凍を使う、レシピは検索で大丈夫、生ゴミは毎日交換……。読みふけってしまって、気づけばもう明日から授業だというのにすっかり遅くなってしまった。


 明くる日の準備はきちんと済ませておいたので(きっと最初の数日しか続かないけど)、忘れ物の懸念はなかった。それでもやっぱりちょっと不安だった。

 ラッシュのようにぼくを襲った不幸のなかでも幸いというのか、ずっと仲のよかった幼馴染みとは同じクラスでほんとうに助かった。とはいえ一緒に登校しないあたりがぼくたちらしさだ。

 今になって考えれば、他のクラスメイトとぼくは違っていたようだ。みんなは友達づくりに不安を覚え苦心していたなか、ぼくはそれよりももっと大きな不安――今晩、いや今週のご飯どうしよう、といった――で頭が占められていたからだ。

 もちろん友達はほしかったけど、そこまで急を要する問題ではなかった。誰よりも知り合っているやつがクラス内にいたことだし。

 この日の授業はほとんどがオリエンテーション――予習復習は毎日、宿題は別のワークから、そして評定について――と自己紹介で、五つの授業の全部がそんな調子だったからみんな余計に疲れてしまっていた。どの先生もほかとちょっと違う風を試みているようだったけど、ぼくらからするとやらされる内容にしか関心がなかったから失敗だった。

 ぼくにとっては、それらが終わってからが本命だった。一旦家に帰ってからのつもりだったけど、どれくらい時間がかかるかわからなかったからそのまま向かうことにした。

 まずは最初の方のメモにあった「各スーパーの底値を調べる」をやってみることにした(底値という単語は十分にぼくを苦しめた)。

 とりあえず三店ほどまわるつもりだけど、家によくある袋からして駅の奥にあるところな気はした。家事に対して、嫌だとかめんどくさいとかマイナスな気持ちは全然なかった。そんなことより残りがお小遣いということに燃えていた。この間まで小学生だったぼくにとって三万円はそれくらい大金だったから。

 まわり終えて、やっぱりにらんだ通りだった。ちょっと集中しすぎて疲れちゃったけど。そのもとは、例のスーパーは閉まるのが一番早くて、二番目に遠くて一番高いところが最も遅かったことだった。あと、食材も買ってみて驚いたのが、もちろん一日分じゃないけど想像以上に合計が高かったこと。これは考えてつくらなくちゃいけない、と肝に命じた。あと、パスタやラーメンのもとは緊急時――災害時じゃなくてご飯がなくてとってもピンチなとき――に備えて買っておいた。

 買い出しは済ませたから、今日の夕飯を考えなくちゃいけなかった。なんて、まるで父さんみたいなことを考えているのが少しおかしくて、すこしさみしかった。

幸いなことに母さんと違ってぼくは調理実習をまじめに受けていたおかげでそこまで不安はなかった。とりあえず一番最近にやったハンバーグをつくることにした。

 その授業のプリントをはさんだファイルがまだ捨てられずに――片付けがどうしても苦手なぼくの部屋に入って、父さんはいらなそうなもの(それはほんとうにいらないものでいつもびっくりする)を捨ててしまう――あったから、それをみれば難なくできた。

上にかけるソースもメモの忠告にしたがってスマホで検索して、うまい具合にできた。あとは、母さんを呼ぶだけだった。

 すっかり暗くなった廊下をオレンジ色の灯りで照らす。リビングに沿って二つの廊下が走るうちの、玄関の反対側。こんこんこん、と三回ノックしてから夕飯できたよ、と言うとすぐにドアが開いた。

「さすがはあの人の子ね。いい匂いがしたからそうだと思ったわ」

 満面で笑みをつくって、ぼく、母さんの順でリビングに向かう。

 歩きながら、自分のつくったハンバーグを食べることを考えた。足下を涼しげに風が通った気がした。そういえば料理をつくるのは結構久しぶりだった。途端、違和感を覚えた。何だろうと考える前に気づいた。そして立ち止まった。やばい、なんて言おう。

「あ、ごめん、まだだった……」

 何がよ、と特に驚きもしない母さんに、おそるおそる正直に話すと、

「え、ごはん? ならワインのおともにするわ」

 と、ごはんを炊き忘れたぼくの焦りを一蹴した。

 そこそこうまくできたんじゃないかと上機嫌だったのが急降下して、母さんの言葉でほっとして、まるで嵐にでも遭ったかのように心が忙しかった。母さんがワインな気分――母さんはほぼ毎日家でも仕事しているから、お酒をのむのはそれなりにレアだったのだ――でよかった。

 それから配膳は二人でやって、それぞれ席についた。いただきます、と言い合って手をつけ始めたけど、母さんがぼくに言ったのだと考えると少し照れくさかった。

 父さんがいなくなった生活を一通り過ごしてみたけど、考えることがあまりにも多すぎたせいで、落ち着けたのはベッドに入ってリモコンで部屋を真っ暗にしてからだった。

 今日が終わるまで、余裕はもちろんなかったけど考えないようにしていた。そのせいか、不安は一気にまぶたにのしかかってきた。考えたところで消えないのはわかってたけど三,四十分それと格闘したあと、諦めて起きていることにした。

 ベッドから反対側のところにある、さっきリビングから移した父さんの()()の方を見やった。もしかしたら父さんは、一番最近の家計簿になにかメッセージを残してるかも。そう思ってしまったら開いてみたくて仕方がなくなってしまった。

 掛かっていた布団を足で蹴りよけて手探りでリモコンをみつけて灯りをつける。右手にある勉強机は新しい教科書の山脈ができていたから、それをまず二山にわけた。机の棚においてある家族写真で父さんを見つけると、よく片付けで怒られた――それはとてもやさしくて注意というのも相応しくないくらいの――な、と思い返した。

 自分でも不思議だけど、いなくなった父さんに怒りだとか憎しみだとかは一切なかった。絶対帰ってくる、というのとは別な意味で、父さんを信じていた。

 ものを読むのにじゅうぶんなスペースをつくってから、次の山である家計簿に挑んだ。そこから一番上のものを拾い上げて、また机に戻る。

 きっとなにか――家事についてかいなくなった謎について――の助けになるメッセージがあるとそんな気はしていて、でも言えないくらいの耐えられない事実が待ち受けているんじゃないかって気がして、開くのをためらっていた。それでも、どうせ寝られないし、と言い聞かせてそうっとめくってみた。

 そこには、マークと金額しか記されていなかった。マークは多分、いつも同じものを簡略化したんだろうということはすぐに想像できた。だけど問題はそこじゃない。肝心のメッセージは? 

いくらめくってもそれらしきものは一切見当たらなくて、気づけば何周もしていた。ということは――ゆっくり間違えないように考えながら前のめりの背を後ろにすると棚の上の写真と目が合った。ということは、急に思い立っていなくなったの? でも父さんがそんなことをするはず――。

 考えがこんがらがって、そして他人に頭をつかまれて振り回されたような急な眠気に襲われた。でも、まだ言えない事実に合わなくてよかったとほっとしていた。

安らいだはずみで椅子からそのままベッドに倒れこんで、意識と一緒に沈んでいった。


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