クレマチス
小学生の時、僕は宇宙飛行士になりたかった。中学生の時ちょっとむりそうだなと思って、なんとか飛行関係の仕事につきたくて、理系を重点的に勉強することにした。
高校で必死に勉強して、名前を聞いた人が羨んで僕が「いやあ、そんな大層な大学じゃないですよ」なんて、少しだけ優越感に触れられる大学に進学した。
機械工学やら空力学やらを学んで、空にかかわる仕事をしたかった。宇宙開発にも携わってみたくて、なにか特質的なこともしたくて、生物学と分子科学についても力を入れてみた。
分子科学が意外とおもしろくて、でも空に携わる仕事もしたくて、座学と研究に忙殺される学生生活だった。
華やかな大学生活なんてなくて、友達は栄養ドリンクと高たんぱくな簡易食糧。恋人はノートとペンとパソコンと器具。住所は一人暮らしのために借りた部屋で、住居は研究室だった。
時勢に詳しくなれない代わりに、次代に詳しくなれた。泥沼に足を突っ込んでいるような感覚で、その沈んでいく足の心地を楽しんでいた。
大学院に進むころ、僕は自分の力を信じ切っていた。世界の真実の一部を解き明かしているようで、毎日が楽しくて仕方がなかった。
そのうち僕はすべてのことを理解するだろう。すべてのことを発見して、いつか高名な論文でも発表して「まだ、通過点です」なんて言葉だけ残す。
また次の楽しい知らない世界に潜り込んで、模索して探検して掘り起こして、そんな楽しい日々を送っていくのだろうと思っていた。
実際、大学院にいる間に何度か雑誌に載った。インタビューだって、何度か受けた。
そんな僕は今、お湯で戻したワカメみたいにくたびれたスーツを着て、駅にある立ち食い蕎麦屋で、五百八十円の天ぷら蕎麦を啜っている。
少しふやけた海老天のころもを出汁に浸してぐずぐずにしながら。
教授が紹介してくれた就職先は、たしかに高レベルな研究をしている場所だった。空の世界だって変えかねない。何度か名前を見たことがあるような人も、何人か所属している。
小躍りした。いや、小さくなく踊った。僕を「勉強しかしない。大学生としてもったいない」なんて馬鹿にした奴らに、自慢してやりたかった。
お前たちよりも良い給料。やっていることはハイレベルにして功名にもっとも近い。
お前たちが大学なんて小さな世界で満足した後に、僕は世界というもっと大きな世界でちやほやされる。
羨む声が、もうすでに幻聴として聞こえていた。僕の足元にすがる奴らが、夢に出てきた。
ところが、現実はどうだ。たしかに、ハイレベルな研究だ。やっていることは理解できる。
ただ、僕みたいなやつらの集まりだった。ろくにコミュニケーションをとって来なかった人間の、自我だけが異常なまでに発達した怪物の集団だ。
そして僕は、その中の一番下っ端の助手だ。毎日へこへこ壊れたボブルヘッドみたいに頭を下げて。お手伝いさんみたいな日々を生きている。
研究内容は、すこぶる楽しい。無人飛行の研究だった。段階的に飛行状態や速度を自動で修正しながら飛行する物体。
風の流れや湿度、大気の状態までを即座に計測して、適切な航路や速度を自動で選んで、人や重要な物資を届ける。僕自身が空を飛ぶことは無いが、空にかかわる仕事をしている。
ああ、なんて楽しい研究所だ。そう無理やり思うことで、僕はなんとか自分を維持していた。
自主的な勉強だって怠らなかった。年功序列なんて待っていられない。いつか僕が、あの研究所での異端児として名を挙げてやる。そんな野心で、僕は仕事を辞めずにいられた。
うだつの上がらない日々だ。しょうもない失敗を押し付けられて、頭を下げてへらへらして。誰でもできるような数値の入力をして。
給料は良くても、遊びに使う時間なんてなくて。少しでも良いものを食べようと、外食をする時はなるべく高い店に入った。身に着けるものも、使いどころのない金が溜まっていく虚しさを紛らわせるために、自然と高いものになった。
すると、金目当てに女は寄ってくる。適当に飯をおごって抱いてやれば満足するような安い女は、ストレス発散にちょうどよかった。
自分はこんなことをして日々を腐らせる人間じゃない。僕は、宇宙にかかわって、世界に名を残す人間なんだ。そう思って、生きてきた。
けれども、僕は今日、安い蕎麦を食べている。わざわざ半日の有休をとって。学生時代に買ったスーツを着て。
今日半日休みを取るのは苦労するかと思ったが、意外と楽だった。「実行に必要な人員以外は、思い思いの形で実感しろ」というのが所長の考えらしい。僕は、必要じゃない程度の新米だった。
この蕎麦屋は、僕がまだ院に入る前。学生研究室に居た頃よく来ていた。すぐに出てくるし、不味くないし、安い。
カップ麺を食べるのに飽きて、気分転換がしたい時に使っていた。
研究が、一段落を見せた。いや、世界が研究を無理やり完結させた。僕の夢は、知らず知らずにもっと大きな流れによって飲み込まれていた。
もしかしたら、教授に研究所を紹介された時から僕の人生という虚勢を張っただけの細い川は、もう吸収されていたのかもしれない。いや、院に上がる時にあの教授に教えを乞うと選んだ時点で、僕の流れはこの堤防に溜まると決まっていたのかもしれない。
あの頃には、もう戻れない。僕が憧れた教授は、僕に悪魔の作り方を教えていた。毎日入力していた数値は、僕が目指した空を壊すまでのタイムリミットを刻んでいた。そんなこと、僕は知りもしない、教えられもしない新米だった。
たぶん僕は、そのうち身柄を拘束されるだろう。僕が研究していた無人飛行は、人なんて運ばない。段階を踏んで、自動計測をして飛ぶのは安全のためなんかじゃない。
蕎麦屋のテレビが、緊急ニュースに変わる。某国に向かって、新型のミサイルが発射された。ちょうど、汁もすべて飲み干して、満腹になったところだ。
学生時代なら、すぐに立ち上がって近くのコンビニで栄養ドリンクと少しのお菓子を買ってまた学校に戻っただろう。僕も、そうしたくてたまらなかった。
雪が降って来た。僕らの研究は、この程度の雪じゃ不備を起こさない。穢れ名の無い真っ白な雪を見たところで、僕は何にも思わない。そんな感性、習わなかった。
ファスナーのかみ合わせが悪くなった古いリュックを背負って、僕は僕の職場へと足を向けた。コンビニには、寄らないで。
楽しかったので、皆さんもぜひやってみてください。
はやれ「#三題噺をやろう」