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最終話


 演奏会が終わって間もない酒場は、客人たちの幸せそうな表情で満ちていた。いつもの陽気な店内とは打って変わって、誰もが歌の余韻に心を和ませ、静かに感想を語り合う。

二人の人間がカウンターをはさみ、与太話に花を咲かせている。

 一人は花柄のドレスを着た婦人。もう一人の男は中折れ帽を膝に置き、ウヰスキーグラス片手に熱弁する(酔いがまわってきたらしい)。傍らにはひょうたん型の楽器の箱。今夜の演奏会で主役を飾ったばかりの詩人だった。

『それでさマダム、俺はこう考えた。ここんとこの天気は神さまのやっかみだよ』

 詩人は隣の席を見る――コートに眼鏡の中年が読む、今日の新聞の夕刊を。見出しには”月はどこに出ている?”と詩的な文字列。

『そりゃお気の毒なこと。あんた、”月下に吠える魅惑の薄給詩人”だもんね』

『薄給、だけ余計だよ。……大当たりだけど』

 詩人はちょっと視線をそらす。マダムは正しい。不況のせいか最近は特に厳しいのだ。客が片手で数えられるほどでも、寒い街灯の下でも、聞いてお金をくれるだけ良い。こないだ遠くの街で弾き語りをした時には、条例違反だと巡査に開始5分で止められた。

――お前ら吟遊詩人は、クサい唄ばっか作りやがって。

 巡査の一人が小声でつぶやいた悪態は、ずっと心に突き刺さり抜けないままだ。


『今日の演奏会だって、月に魅入られた男とステキな夜を……なんて売り込みしてたのにねぇ』

『だろ!』

 バン! とカウンターを平手で叩く。

『なんで毎晩毎晩、いつどこに行ったって、月が少しも見えねぇんだと思う? 俺があんまりうまいもんで、お天道さまが嫉妬して、お月さまをお隠しになったのさ』

 一気にしゃべって渇いた口をウヰスキーで潤す。酒か興奮か彼の顔は真っ赤。


 月の女神はカーテンをしめるのも忘れ、すっかりこの二人のやりとりに夢中だった。自分のことでこんなに話を聞けたのは久しぶりだ。

いつの間にか遠眼鏡まで持ち出して、熱心に議論に耳を傾けていた――ちょうどもう一人が飛び入り参加して、面白くなってきたところだ。


『じゃあ、月を消した責任、とってくれるか、お若いの』

 隣の中年が新聞から顔を上げた。

『わたしゃ、そこの大学で教えててね。ああ、海洋学をさ。月を見てたんだ。大体なんだ、学者ってのは難儀な商売だね。それこそ偉い賞でも取らにゃ』

 酩酊しきったその顔には、学者の威厳などこれっぽっちも見られない。口を開けば酒臭い息と共に小言が漏れる。

『こないだバカ兄貴に会ってね、言われたんだ。学者のくせに月なんか見て暇なやつめと? あん畜生め、私を何だと思ってんだ。なーんにもわかってない』

 酔いどれ学者は目を伏せて、ちっちっちっと指を振った。月が消えたからか、潮の満ち引きの時期が狂ったらしい。せっかく続けていた観察も実験もおシャカになったと愚痴をこぼした。

『なぁ、お若いの。私の知り合いにゃあ、似たような口をきくやつがごまんといる。ランプや街灯があるのに月なんか何の役に立つんだってな。

 はっはっは、笑わせらぁ。おもしれぇから見るんだ。どこで勤めてたってそいつは変わらんよ』

『唄うたいのキリギリスには、世の夜を照らす月光が似合うもんよ。煙たがるやつには言わせておきな。あたしらはあんたがいてくれるだけでうれしいのさ』

 マダムが詩人の前に差し出したグラスには、くし形に切ったライムを添えた酒が注がれていた。


 月の女神は遠眼鏡から目を離した――目の奥がジンとして、まともに見ていられなくなったからだ。救ってもらえたような気がした。ようやく自分の”しるし”が何なのか見せてもらえた気がした。

 あの飲み助たちは自分のことを話してるんじゃない。それは知っている。でも彼女は兄に会わずにはいられなくて、風の神にも何か一言言い返してやろうと思って。

 毛布を放り出し、思い切り部屋を飛び出した。急いだ拍子に満月さまにかかる真っ黒な覆いが、はらりと落ちたことにも気づかずに。


――お月さんは世の夜を照らす光だって?

 つまみのアーモンドをもぐもぐやりながら、詩人はマダムの言葉を反芻する。

『全くだ』彼はうなずいた。『どんなに良い街灯やランタンがあったって、お月さんがなきゃ、味気ねぇもんな』

 きっと俺のことも言ってんだろうな――俺がここに在る”しるし”。一人で勝手に連想したが、照れくさいので言うのはやめた。

 グラスを傾けると、ほんのり甘い飲み物が口いっぱいに染み渡り、のどを伝う。

 飲んべえたちが酒場を出るのは――乳白色の酒と同じくらい美しい満月さまの”しるし”が、酒場の外を包んでいるのに気づくのは、これから夜がずっと更けたころだ。

〈おしまい〉

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