第二話
「泣いてるのかい」
戻ってきた太陽の神が、優しく妹の肩に手をおいた。
「いいえ。少し胸がすかすかするだけ」
女神はちょっぴり力を入れてまばたきした。星屑の残像が、目の内側でにじんで丸くぼやけて見える。
「ついておいで、今ぼくの”しるし”の力を見せてやる」
太陽の神は妹の手をとり、ぐいと地球に近づいた。見える見える、ゆっくり回る陸地をのぞくと、灰色の街の人間たち。分厚い外套を着て、手袋やマフラーをした者もいる。
「いいかい、やけどしないよう気をつけるんだよ。そら」
彼は体にぐっと力を込め、かっかと照りつけた。
『あ、なんだか外が暖かいな』
喫茶店から出てきた一人の若者が、巻いていた襟巻きを外した。
『ママ、おひさまがこんにちはしてるよ。ぽかぽかだねぇ』
『本当ねぇ。じゃあ、今は上着はいらないね。ママが持っててあげる』
こちらは公園の親子連れ。二人ともダウンジャケットを脱いで、珍しい暖かな冬の日を楽しんでいる。
街頭の大型テレビでは、お天気お姉さんが少し上がった気温のことを笑顔で話していた。
そう、太陽はこんな風に地を暖め、旅人に上着を脱がせるよう仕向けたのだった。
「ねぇ、妹。ぼくはこんな風に皆が住みやすい場所を作れる。空気を暖めてくつろがせる。
それだけじゃない、真っ暗闇だった世界を照らすよう任されたのがぼくらだ」
太陽の神は、女神の腕に抱えられた満月さまを見た。丁寧に磨かれたおかげで、クリームでも塗ったように仕上がっている。
彼が満月さまにそっと手をかざすと、橙じみた「しるし」が手のひらからふわふわと放たれ、吸い込まれる。丸いお月さまはいっそう明るさに磨きがかかった。
「その満月さまをごらん。ぼくらがいなきゃ人間も動物も、暗い道しか歩けない」
「えぇ、そうかもしれないけど」
「まぁ落ち着きなよ、誇りをもってさ。今日の仕事に響くといけない」
ふたりで神殿へ帰る間も、兄はずっとにこにこしていた。彼に気苦労をかけたことが余計つらく思えるくらいに。
自室のバルコニーで、女神はぽんと満月さまを放り投げた。
(誇りって、何なの――お兄さまの”しるし”で得意顔して、世界を照らすのが、私の”しるし”なの?)
暗い宇宙に浮かぶ満月さまは、お天道さまよりずっと小さく、弱々しかった。
次の日、月の女神は兄が交代するとすぐに出かけた。遠眼鏡ものぞかなかった。満月さまは台座の上においていった。
早歩きで宇宙を歩く彼女と、隕石たちが併走する……小さくて、ごつくて、「しるし」なんてほとんど残さない流れ星。
「あなたたちはステキな一生ね。誰の力も借りずに輝き、命がけでお願い事を運ぶのでしょう?」
女神は知っている、彼ら流れ星は人間に特別喜ばれる星であることを。流星群の日には、興奮して願いをかける彼らの有様が、遠眼鏡にたくさん映る。
なんと情熱あふれるしっかり者の星ではないか。お月さまとは大違い――自分じゃ何もせず、ふわふわ浮かぶ青白いでくの坊。
ふわふわ?
なにやらひざの下あたりに、ふわふわ、まとわりついている。薄青で、やけに長くて……綿菓子っぽい。
「あ、月の女神さま。その、それとってくれますか、お足元の」
顔を上げると、彼女を呼ぶのは雨の女神。そしてお足元のふわふわは、彼女の大事な”しるし”――雲のもとになる種雲だった。
月の女神が種雲を抱えて持ってくると、雨の女神は真っ赤な顔で頭を下げる。
「これ全部、今日地球に降らせる雨の分ですの?」
「はい。まだ作りかけですけど、良かったらごらんになりますか」
彼女がうなずくと、雨の女神は仕事を再開した。
まず、大きなドーナツ状の入れ物と、回転台、それから青い水盆を見せた。これが雨の女神の仕事道具だ。
ドーナツを乗っけた台座をぐるぐる回す。勢いがついたところで、水盆から水を一掬い投げ入れる。
「いいぞ。もっと回そう、もっともっと……それだけ綿みたいな柔らかい雲になる」
雨の女神の細い手が、一心不乱にドーナツの壁に弾みをつける。回転台はいっそう速く回る……次第に雲のもとがまとまってきた。
「さぁ、今日の分、一丁上がりです。お次はこいつを地球に撒きましょう」
彼女はドーナツを振って種雲を取り出した。触ると細やかな水の粒がまとわりつく。湿らした綿だってこいつほど肌触りはよくなかろう。
種雲を小さく千切って地球に投げつけると、するりと空気のヴェールに飛び込んだ。これからたっぷり雨を降らすのだ……遠眼鏡をもってきていれば、突然の雨に驚く人々の有様が拝めただろうに。
「あーあ、また『やだなぁ、雨か』とか『出かける予定があったのに』とか言われるんだよ。あんまり雨にならないといいけど」
雨の女神はやや茶化し気味につぶやいた。
「お月さまはいいなぁ……誰にも文句言われませんし、おまけに愛の告白のネタにしてもらえるんでしょう」
月の女神はぷっと吹き出した。満月さま(と、その影)がきれいだと言う男は、大概ひざまずいてうっとりした目で、淑女各位の手を握っている。なんだか詩人たちの「しるし」にも似た姿なのだ。
「ええ、まぁ。でも雨の方がステキじゃなくって?」
雨は、美しいから好き。空気も温度も変わるが、なんといっても音が入る。
落ちるところで違う音。ぱらぱらっぱらら。どぉーどぉー、ぱしゃんぱしゃん。
白やくすんだ灰の雲も、空に二つとない”しるし”をつけてくれる。
いつも本当にかわいらしい”しるし”をおつけになって……そうだわ。
「ねぇ、あなた。よかったら、私にその雲をいくらかくださらない」
雨の女神の顔にちっちゃな疑問符が浮かぶ。
「いいですよ。でも雲なんて、お月夜にはお邪魔でしょう?」
あ、あらあら、そうでもないの。ちょっとお手入れをしたいから……適当に言葉を濁した。彼女のクエスチョンマークはすぐ消えた。気にはなったがすぐどうでもよくなったらしい。
顔が隠れるほどの雲を千切って差し出す。一つ、二つ、たくさん。綿菓子屋が開けそうだ。
「多めにしたけど足りますか――ああ今日のノルマはお気になさらず――また作ります」
「こんなにくださるの? ありがとう。これで私……あら失礼、何でもないのよ」
この先の計画は内緒だ。月の女神はうふふと笑ってごまかした。
彼女が行ってしまうと、雨の女神は考えた。お手入れか、仕事熱心なお方だな。自分なんか雨量のムラすら直せてない――特に最近はしょっちゅう夕立を起こしちゃうんだ。
「はぁもう、がんばんなきゃ」
雨の女神は手に力をこめて、回転台を勢いよく回した。
〈つづく〉