第一話
月の女神は誕生日を知らない。生まれた経緯も知らない。
最初の記憶は、自分を取り囲む群青色の宇宙と、星屑たち。それから隣に立っていた男が、
「おはよう、妹。ぼくは太陽の神。きみは今日からこの子を守るんだ」
と微笑み、一抱えほどのまぁるい満月さまを差し出したことだった。
それから彼は自分の手を引いて、地球を、自分たちが愛すべき星をよく見せてくれた。薄い空気のヴェールをまとった青い星だ。
広々とした宮殿に、彼女の部屋も与えてくれた。観察用の遠眼鏡や満月さまを置く台座など、心弾むものがたくさんあった。バルコニーから煌めく星屑や宇宙、地球がいっぺんに見えるいいところだった。
満月さまはすぐに月の女神の宝物になった。彼女は毎日黒く柔らかい布で、満月さまの汚れをぬぐう。兄のまぶしく輝く”しるし”をたっぷりわけてもらってから、ぽんと上に投げ上げる。すると満月さまは宇宙を緩やかに回りながら、ふっくらした光を放つのだ。いびつな凸凹と灰色の染みがちょっぴり気になるが、それでも大のお気に入り。
楽しいことはほかにもある。バルコニーから身を乗り出し、遠眼鏡で青い地球の奥をのぞくことだ。
自転を続ける地球からは、毎日いろいろな景色が移り変わって見える――ジャングルを闊歩する豹や猿、どこまでも続く海。そして人間の町。
女神は人間を見るのが大好きだ。この適応力が高い生き物は、住むところに応じて家や着物が異なる。多彩な仕事を協力してこなす。見たこともない道具を使って自分の世界を切り開く。たいへん不思議な生き物だ。
でも一番好きなのは、「詩人」とか「絵描き」とかいう、面妖な”しるし”を使う種族だった。彼らの”しるし”は太いつるや管から出す鳴き声や、平たい板に描く記号。自分たち天候の神が使う光や風とは違う。でもなぜだか、それを見て、聴いているととても気持ちがゆっくりできるのだ。
ある日のことだ。月の女神はバルコニーにもたれて満月さまを磨いていた。耳をすますと地球から”しるし”が聞こえてくる。胸のおくがどきどきふるえる、人間のいる”しるし”。おかげで満月さまもいっそう白くなるよう。
そんな女神のひとときの幸せは――
「だからおれの方が強いっていってるだろ」
「大事なのは結果だ。あの条件で勝負をしかけたくせに、よくいうよ」
「暑いトコでさんざん嫌われるお前が、ねぇ」
――後ろで言い争う兄とその同僚によってたやすく打ち破られた。また風の神がけんかをふっかけたのかもしれない。
「お兄さま、どうなさったの」
「どうもこうもないさ。風のやつ、またぼくとの勝負に負けて、ぷりぷり腹を立ててるんだ」
何でも、どちらの力が強いかと、旅人の外套を早く脱がせる勝負を挑んだらしい。風の神は大いに張り切っていた。なのに、太陽がズルしやがったというのだ。
「わたし、なんとなくわかるわ」女神はおかしそうにくすりと笑った。「お兄さまは陽の光で温めて、お召し物を脱がそうとお思いになったんじゃないかしら」
おれは、”力比べ”をしようって言ったんだぞ」
「あら、熱だって立派な力の一つですわ」
「いさぎよく負けを認めなよ。男らしくもない」
風の神は悔しそうに舌打ちをして、
「なんだよ。いいか、おれだってまだ負けたわけじゃねぇんだ。見てろっ」
女神に遠眼鏡をのぞかせたまま、地球をぐるりと西にまわる。見つけたのは砂漠の国。老いも若きも長い布地で身を包み、陽の光から身を守る。
大人が一人と子供が二人、えっちらおっちら焼けた砂を踏み、重そうな資材を運んでいる。フードがついて裾の長い砂漠の衣装が動きづらそうだ。目の前には白壁の風車。四枚の羽をぴんと張って、身動きひとつせずたたずんでいる。
「お、ちょうどいいとこに」
風の神は胸一杯息を吸い込み、ふぅーっと一吹き。
もう寒い季節だというのに、まだまだ日中は暑いものだ。村の大事な風車のメンテナンスも一苦労。
まだ終わらないのとうんざりした表情で、子供らが母親を見上げる。我慢なさいねと彼女はかぶりを振った。中では父親が麦をつく装置を修理し終えた頃だ。なにぶん複雑なカラクリ、一つ間違えたらまたやり直しだ。かかるストレスは尋常ではない――夫も、サポートするこちら側も。
玉の汗が母親の額から吹き出し、したたり落ちた。
刹那、彼女の背を強い風が押した。服をはためかせ、肌をなで、駆け抜けていった。
『あら』
彼女はフードをはたはたとあおぐ。子供らは長い袖をまくり、大きく伸びをした。皆の顔はにっこにこ。砂漠にそびえ立つ真っ白な巨人が、腕をぐるぐると回し働いていたからだ。
『おぉい、やったぞ、やったぞ、ちゃんと動いてる』
父親が息を弾ませ走ってきた。興奮して暑くなったらしい、頭を覆う布を取り、首まわりの汗を吹き飛ばしにかかった。
一家の様子を見守っていた女神は、顔をほころばせて拍手した。太陽の神はうぅむと唸った――素直に褒めたくないらしい。
「へっ。どうだったろうなぁ、お天道さまがあそこでもっと近くおいでになっていたら! 干物ファミリーの出来上がりだぜ、えぇ、おい」
風の神の得意な顔に、からかうような目が加わった。興奮してひくひくゆがむ口元もだ。「ざまぁみろ。おれの力が役に立たなかったなんて言ったのは誰だ? こっちじゃお前らの方が非力だろ? 特にお前」
彼は女神をキッと見て指をさす。
「何だよ、満月さまなんて偉そうに言われちまってさ。その”しるし”だって、お兄ちゃんの七光りなんだろ。おれみたいに涼しがらせたり、風車回したり、実用的なことなんてなぁんにもできねぇくせによ」
「でも私は……」
「一番弱いのはお前じゃねぇか」
そう吐き捨てると、北風はヒュウとひとっ飛び。女神が何か言う間もなく、直ぐに見えなくなってしまった。
月の女神はたった一人残され、たたずんでいた。
〈つづく〉