さようなら
わたしは死ぬのだと思った。振り上げられた鉛の塊を見てぼうっとそう考えていた。だが死ぬだけで留めるつもりもなかった。たとえ切られたって、わたしはこの鎧に手を伸ばすつもりだった。死んだって――殺してやる。
頬が歪んだのを感じた。叫びだしたい気分だった。泣きたい気分だった。笑ってしまいたい気分だった。こんな感情は知らない、と思う。
だけどなんとなくわたしは口の端をぐっと上げてみた。すると頭に彼が浮かんだ。相変わらず不愛想で次は自然に笑えた。
「さようなら、魔王さま」
鉛が落ちてくる。
風を切る大きな音が聞こえた。
わたしは腕を伸ばす。
視界にわたしの白い腕が映った。
ああ。
果物、食べてほしかったなぁ。
そして剣は振り下ろされた。肉を切るような鈍い音が聞こえた。視界に弾けるように上がる血飛沫を見た。
――――――群青の、向こう側に。
「………まお、さ、ま?」
温かいものがわたしに被さっていた。艶めく群青だった。魔王様さまがわたしに覆いかぶさっている。理解するのにそう時間はかからなかった。
―――なんで?
疑問を口にするより早く腹部に違和感を感じた。湿ったような、濡れたような。視線を下に向けてみる。白いシャツを汚す染みができていた。色は赤だった。見覚えのある赤だった。あ、これ、知ってる。
血、だ。
…誰の?
わたしが顔を上げるより早く、群青は動き出した。肩越しに振り返り、もう一度剣を振り下ろそうとしている勇者に右の手のひらを向けた。わたしは小さなつむじ風が吹いたように感じた。魔王さまの手の中に風が集まっていくようだった。小さな風は次第に黒い大きな渦を作った。
一瞬のことだった。
魔王さまの手のひらで囚われていた獰猛な獣のような渦は唸るような音で勇者の元へ向かっていき、溶かすように、言葉通り、勇者を呑んだ。わたしは息もできずにその光景を眺めていたけれど、次の瞬間倒れこんだ魔王さまの重みに意識を引き戻された。
「魔王さま…!!!」
体を支えようと魔王さまの背中に手を回すとぬるりとしたものに手が触れた。体が強張る。やっぱり魔王さまの血だった。突きつけられた事実に血の気が引いていく。
「嫌、嫌、嫌…ッ!」
触れた指先からぬるい血が伝っていく。止まらない。どんどん流れ出していく。
「魔王さま!魔王さま…っ!なんで…!」
嗚咽で言葉がうまく続かない。
なんでわたしなんかを庇ったりしたんだろう。そしたら魔王さまは斬られたりなんてしなかった。あの鋭い鉛を思い出して思わず下唇を噛む。
わたしが死んで、わたしはそれで、よかったのに。どうして、あなたが。
「…お前は、勝手だ」
左の耳元で聞こえた声に顔をあげる。いつもより掠れた低い声はけれどもはっきりそう言った。
「魔王さま…!?」
声が聞けた、その事実にわたしはまた視界がぼやける。うれしい。うれしい、違う、悲しい。違う。込み上げるもの。足元に穴があいて、落っこちていくような。
―――こわい。
魔王さまの胸が上下するたび喉がひゅーひゅー鳴った。わたしの腕に浸食する染みはじわじわ拡大していきとどまるところを知らない。
―――わたし、この人を失ってしまう。
「いやだ」
出てきた言葉は思いもよらず静かだった。
「死なないで」
駄々っ子のように魔王さまの服をゆるく引いた。
だけどもうそこには、わたしを軽く抱え上げてしまうような魔王さまはもういない。血はまだ止まらない。
ふと、血だまりに何か浮かんでいるものを見つけた。よく見てみると、血にはまみれているが花弁だと分かった。わたしが握りしめてきたあの朝焼け色の花弁だ。いつの間に落としたのだろう。
…わたしはどうして部屋から出てきたんだっけ。
だめだと、言われたのに。
ふと喉の痛みに気付いた。
叫んだからだ。…何を、叫んだんだっけ。
―――“死なないで!死なないで!死なないで!”
「あ、」
ちがう、と思う。
「ああ、」
死なないで、じゃなくて。
「死なせない」
わたしは静かに魔王さまの体に手を伸ばした。




