失うもの
魔王さまの気配が完全に消えた自分の部屋で、わたしは捲り上げた袖を引っ掻くように元に戻した。腕がいくらか傷ついたかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
「あ、あ、あ…あ、あ、あ」
声にならないような声をあげて、わたしは冷たい水の張る桶に思いっきり腕を突っ込んだ。濡れないように気をつけていた魔王さまのシャツはもちろん濡れてしまう。白いシャツが細い腕に張り付いた。寒さからかそれ以外のものからか、白い指先は小刻みに震えた。
怒ってください。うわ言のように何度もそう繰り返した。
わたしは桶の中に浮かぶ赤い果物を力なく掴んでみた。弱弱しくその側面を指の腹でこすっていく。
もう一度、ケーキだって焼きます。だから、だから。どうかもう一度頭を撫でてください。
情けなく喉までもが震えだした。
部屋を見回してみる。そんなことしたって、この部屋にわたしの物なんてひとつもない。白いシーツのベッドと、鉄色の不愛想な燭台。
だが、ひとつだけ、目に留まるものがあった。
朝焼け色の小さな花弁だった。
魔王さまが花も摘めないわたしの代わりに持って帰ってきてくれたものだった。
―――熱いものが、頬をすべり落ちていった。
下の階から地割れのような破壊音が轟いたのはそれとほぼ同時だった。
「あああああああああああ!!!!!!!!!」
わたしはふらつきながらも花弁の元まで行き、それを握りしめた。
喉が痛い。視界がぼやけて揺れた。目が焼けるように熱い。絶えずそこから流れる熱がある。溢れる感情の名前も分からないまま掠れた声を張り上げた。
「死なないで!死なないで!死なないで!」
声に出したら余計に目が熱を孕んだ。瞼の裏に張り付いたあの無表情に無性に会いたい。ドアまでの短い距離さえわたしは息もせずに走りだした。
出るな、そう言われたドアを躊躇うことなく力いっぱい押す。開いたドアはそのままに、階段を転げるように駆け下りた。
言うことを聞かなくてごめんなさい、魔王さま。
後で、目一杯叱ってくれたらいい。だから。
階段を降り切ったあたりでまたひとつ大きな破壊音がした。
奥の部屋だ!
わたしは唇を強く噛んで、間髪入れずに走り出した。
壊さないで、殺さないで、死なないで、どうか、死なないで。
頭の中はごちゃごちゃ色んな感情が混ざり合っていたけれど、不思議とスッキリしていた。
そしてわたしは最後の扉を開いた。
最初に見えたのは、鎧の後ろ姿だった。
そして次にわたしと向き合うように小さく見える魔王さまの姿だった。
わたしを見て目を大きく開く魔王さまに、そんな顔もするのねと場違いなことを考える。
わたしは後ろ姿に腕を伸ばす。
鎧もわたしに気付いて手に持つ鉛色の何かをわたしに向かって振り上げる。
ああ、剣だ。死ぬかもな、と思った。
でもね、そんな物騒なもので魔王さまを殺そうとしたあなたをわたしも許さない。
こっちに向かってくる魔王さまが見える。
「そんなかお、しないで」
このタイミングで思い出したのはあの日のことだった。
.....…――――世界の東の果ての国
小さな町のまたその外れの小ぢんまりとした木の平屋。
わたしはそこに火をつけた。大きな火炎が小屋を包み込んだあたりで、ところどころが音を立てて崩れてきた。
「おとうさん」
喉の奥でかすれた声が出た。そういえば声を出すのも久しぶりだ。
声も上手に出せなくなってしまったらしい。
炎は呼吸をするように何度か揺らめいてもっと大きくなった。返事かもしれないと思った。そんな訳ないことは自分が一番分かっていたけれど。
「おとうさん」
さっきよりははっきりした音が出た。だけどさっきよりかすれていた。
どんどん小屋がまっ黒になっていく。炎が何もかもを燃やしていく。なくなっていく。
ここがわたしの全てだった。こんなにも小さくて、ちっぽけだけれど。
それでもここが、わたしの全てだった。
やけに乾いた唇のまま燃える小屋に背を向けた。
......―――懐かしい。
おかしなことに、そう思った。
だいじょうぶだよ、魔王さま。
わたし、燃やしてきたの、なにもかも。
ころしたお父さんも、きっと燃えてしまったよ。
―――もう、怖いのは、あなたを失うことだけ。
「ころしてあげる」
おいで、鎧の人。




