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名前

 静かに開けたドアの隙間から体をすべり込ませて、わたしはベッドに横たわる魔王さまを見つけた。


「…魔王さま?」


 解かれて広がる髪は煌々と群青に輝くのに、刹那それが赤黒い肉塊と重なってみえて血が、息が、動きを止める。


 グシャ。


 人肌の温度で目に飛び込んできたもの。赤のフィルター越しの世界。腕に抱いたぬくもり。薄まっていくぬくもり。上を向いて口を開いたその人。頭に不自然に空いた穴。だれだこれ。わたしは無理矢理に意識を創造した。明らかな事実から目を逸らした。だって、崩れたものは、生まれた時から知っている人だったから。


 ―――ギシ…


 突然動き出した影に意識が暗がりから引きずり出された。


「…ッ、げほっ、げほっ!」


 静止していたものは突然動きだし、一度に大量の息を吸い込んだ肺は反動で流れを押し返してくる。苦しい。血管を竜が巡っているみたいだ。生理的な涙が目の淵に溜まるのが分かる。


「……どうした」


 魔王さまは片膝を曲げてベッドで上半身を起こしていた。声を聞いて、何かが迫り上がってくる。苦しい。訳の分からないものがわたしを苦しめてくる。とりあえずぎゅぅっと口角を上げてみた。そんなの、聞かれたって、分からないよ。


「なんにも」


 よろよろと、生まれたての小鹿のように、わたしは後ずさった。すぐに硬いドアにぶつかり、そのまま荒い息をしながら凭れ掛かる。焦点の合わない目でぼんやり険しい顔の魔王さまを捉えると、吐息のような笑みがこぼれた。


「ごめんなさい」


「何がだ」


「名前、知りませんでした」


「………」


「エジックさんが来なかったら、一生知らなかったかも」


「………」


「思いつきもしなかった」


「……ララ」


 わたしは笑って返事をした。なんて、馬鹿なんだろう。


「あなたは最初からそう呼んでくれていたのに」


 出しているそばから消えていくような声だった。サラ、と魔王さまの髪が肩を滑る音すらはっきり聞こえるような静寂。


 “わたしを敵に、しないでください”


 いつか言った言葉に、いまさら後悔することになるとは。あの時わたしは魔王さまの“勇者”という単語に、境界線を引かれた気がしてひどく傷ついたけれど。所詮わたしはあなたにとって勇者でしかないのね、なんて思ったけれど。


 ―――わたしじゃないか。


 はじめから“ララ”と呼んでくれていた魔王さまと、ずっと“魔王さま”と呼び続けるわたしと。ひどいのは一体どっちだ。線を引いていたのはどっちだ。彼を“魔王”にしたのは誰だ。わたしを“勇者”にしたのは誰だ。どうして彼を責められたんだ。彼にその言葉を言わせたのは、ねえ、いったい、誰?


「ごめんなさい……」


 泡沫のごとく浮かんでは消えていくのは、ほんの小さな、だけどわたしにとっては大きすぎる、彼のやさしさ。仕草、表情、温度、声。はじめて存在を許してくれた人をわたしは“魔王”という肩書に押し込めた。


 ―――ガンッ


 突如視界いっぱいに現れた夜空にわたしは目を剥く。わたしの吐息で揺れた魔王さまの長い髪が撫でるように肌をくすぐってきた。


「泣くな」


 魔王さまは鬱陶しそうな顔で、ドアについた逆の手でわたしの目元に丁寧に触れた。ひんやりする。…いつの間に泣いてしまったんだろう。


「名前など、どうでもいい」


「でも、わたし…嬉しかった、です。ララって呼んでくれて」


「………」


「ただの“ララ”に向き合ってくれてありがとう」


 光のつぶが頬を転げ落ちた。追いかけるように、次々と。


「やさしいひと」


 朝が弱くて、なんだかんだ作ったものは全部平らげてくれる、分かりやすくて、不器用な。長い時間の中に、過去に、未来に、きっと沢山の魔族の王が存在する。だけど、違う。わたしが好きになったのは“魔王”じゃなくて、ただ、ああ、この人なんだ。


「…………呼べ」


「…え?」


「奴に聞いたのだろう、呼べ」


 エジックさんのことだろうか、不機嫌そうに繰り返された低い音が鼓膜を揺さぶる。


「……ゆ、」


「………」


「ゆ……ユーリ、さま」


「黙れ」


 顔を真っ赤にして勇気を振り絞った言葉は瞬間的に一蹴される。瞬殺だ。え、まって、ひどい。呼べって言ったのに!


「寝ろ」


 しまいには暴力的な至近距離からわたしを解放してさっさとベッドに戻って行ってしまう始末だ。気まぐれの最高峰。ドアの前で途方にくれるわたしに面倒そうな声がかかった。


「ただの“ユーリ”だ」


 最後のチャンスをもちろんわたしは逃さなかった。


「ゆ、ユーリ!…おやすみなさい!」


「ああ」


 この人が素直におやすみ、なんて返す訳はないのだけれど。







 



 


 


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