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「やめろおぉっ!」
叫んでいた、走り出していた。足もとで雨水が跳ね、喪服の裾を濡らす。頬に当たる雨粒が弾け、小さな雫となって背後へと流れていく。
あっけにとられている、少女の服を掴む男の顔面を勢いに任せて右の拳で殴り飛ばす。
「ぜあぁっ」
さらに息を吐くと同時、半歩踏み込み、右を突き出した事で身体の捻りが加えられた左の拳を――身体の捻りに背中、肩、腕の力、俗に言う膂力が加えられ――空気を裂くほどの勢いで突き出す。
拳は相手の頬を綺麗にとらえ、揺らいだ身体がそのまま引力に引かれ、地面に倒れ込んだ。その隙に少女の小さくか細い身体を抱きあげ、俺は隆顕さんの車を盾にするように反対側に回り込んだ。
車の陰に隠れるようにしてうずくまっていた隆顕さんは右肩を撃たれたらしく、傷をかばう左の手を鮮血に染めていた。
「青蘭!?……すまない、外に出た途端これだ……人気者はつらいねぇ、はは」
隆顕さんは泣きじゃくる我が子の身体を抱き、自嘲気味につぶやく。俺は首のネクタイをほどくと隆顕さんの傷に巻きつけた。肩の傷はそんなに深い物ではないらしく、裂けたスーツから覗く傷は小さい。出血はあるが、命にかかわる傷ではないはずだ。
「隆顕さん、まさか……いつもこうなんですか?いつもこんな、誰かに命狙われて……危険な目に?」
もしそうだとしたら。言い様の無い何かが、ふつふつと心の奥底に湧き上がって来る。
「いや……まぁ、その、いつも……じゃないさ。たまに、ごくまれに、そんな感じ」
傷をシャツで縛り上げた際の痛みのせいだろう、声を多少くぐもらせて隆顕さんは答える。
「……そうですか……」
隆顕さんは俺から目をそらし、小さく息を吐いた。少女の体を抱くその手にほんの少し力がこめられ、悔しそうに顔をゆがめた。
「狙われているのが僕ならいいんだがね、残念ながら狙われてるのはこの娘だ。理由は今は言えないけど……今頼れるのは君しかいない。青蘭、頼む。助けてくれ」
そう言って、血濡れの手が、俺の手を掴む。血が出るほどに噛み締めた唇から漏れた言葉に、俺は息を飲む。隆顕さんの胸に抱かれるこの小さな少女に、一体どれほどの価値があると言うのか。俺にはよくわからなかったが、ただ一つ、今この少女は命の危険にさらされ、怯え、泣くじゃくっている。
少し離れた所にいる男の、よくわからない怒号と共に幾つもの銃弾が吐き出され、車のボディにでも当たったのか甲高い反響音を響かせる。
「……わかりました。そこでじっとしていてください」
痛いほどに握りしめた拳を解き、俺は相変わらず泣きじゃくる亜麻色の髪の少女の髪を撫でた。どんな理由があって襲われているのかは分からない。知りたくもない。どうせ、下らない理由に違いないから。
目を閉じ耳を塞ぎ見ないふりを出来たこの状況でも。
手が届くのに、伸ばさないのは、嫌だから。
何より、理不尽さに揉まれて泣く少女の涙が許せなくて。
俺は立ち上がった。
「……不肖、赤妻青蘭、参りますっ!」
隆顕さんたちから少し離れ、大きく息を吸い込み、数歩の助走の後、両足で地面を蹴る。足もとで水たまりが盛大に跳ねた。足のばねの力を最大限に発揮した跳躍。目の前に止められていた隆顕さんの車をやすやすと飛び越える。
上昇と浮遊感は一瞬で、放物線を描いて落下。俺に気が付いたのか、いくつかの銃口がこちらを向くが、その銃弾が吐き出されるより早く着地。勢いを殺さず走りだし、黒塗りの車の横で棒立ちしている眼鏡の男にターゲットを絞る。
体勢を低くし、大きくためを作った後両の脚で思い切り地面を蹴る。跳躍に近いステップで一気に距離――三メートルくらいか――を詰め、勢いを付けた右の拳で眼鏡の男の横面を殴りつけた。さらに大きく崩した体勢に、駄目押しで回し蹴りを叩きこむ。つま先が空気を裂く音がやけに大きく聞こえる。
「ぐっ……がはぁっ!」
衝撃で、刹那の瞬間地から浮いた男の身体がくの字に曲がり、傍らにあった車のパワーウィンドウに叩きつけられる。鉄がひしゃげる耳障りな音、大きくひしゃげた車のドア、まき散らされる強化ガラスの破片。車に半ばめり込んだままそのまま立ち上がらない所を見ると、意識を失ったらしい。一瞥で確認し、俺は後ろを振り向いた。
――ぼうっとしてる暇はない。俺はすぐさま、ただぼうぜんと立ち尽くしている近くの男に視線を向けた。距離にして2メートルくらいか。慌てて俺に向けられ、吐き出された銃弾が足もとで跳ね、耳障りな兆弾音を響かせた。
地面を蹴り、地面を滑るように相手の懐に滑り込む。向けられた銃口を左手で払い、そらす。そのまま殴り飛ばそうと手を振りあげると、スキンヘッドの男は手を目の前でクロスさせ防御の体勢を取る。そのまま二、三歩後ずさった。
相手は大ぶりな蹴りを繰り出してくるが、俺はそれを蹴りの下に潜り込むようにしていなし、相手が大きく体勢を崩したのを見計らい、低いままの体勢でもう一歩踏み込んだ。
身体が接触するほど肉薄し、勢いを殺さずに立ち上がりざまの下からの掌打を叩きこむ。クロスさせた両手の隙間を縫い、正確に顎を捉えた掌打の衝撃は、相手の身体を大きくのけぞらせ、よろけさせるのに十分だった。だが意識を奪うまではいかなかったのか、持ち直した相手が体勢を整えようと身体を起こす。
すかさずそこに、上段に構えた右手の拳を顔面めがけて撃ち込んだ。右斜め上から左斜め下、袈裟がけに拳を振り抜く。体重の乗り重みの増した拳は綺麗に相手の顎から鼻を捉え、脳を揺らし身体の自由と意識を奪った。
骨の砕ける鈍い感触が殴りつけた拳を支配する。鼻を砕かれ、粘り気のある鮮血が吹き出すのと、スキンヘッドの男が地面に倒れ込むのは同時で、小さな痙攣を一つ残し、動かなくなった。