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さらさらと空中に小さなチリとなってかき消えていく、巨大な腕。それを確認すると、体に帰り血のようにまとわりつく赤黒い何かを振り払う。それだけで体の傷に激痛が走る。
俺はミミお嬢様の方に体を向けた。
「う、あ、あああ」
ミミお嬢様は相変わらずこちらをうつろな目で見つめている。
足元の闇が俺に伸びる。幾つもの剣先が足元から生まれるが、それを警棒で折り砕く。そして、警棒を放り捨て、ミミお嬢様に向けて歩みを進める。
ミミお嬢様の体から相変わらず漏れだし辺りを浸食する闇。そこに自ら足を踏み入れる。鋭く、無数の針で体中を貫かれるような痛みが襲ってくる。
――しかし歩みをとめてはいられない。闇が足元から這い上がってくる。闇は俺の体に触れると紋様のような形に姿を変え、鎖のように絡みつきながら体を蹂躙する。
言い知れぬ恐怖、恐慌。虚脱感、痛み、悲しみ、吐き気、絶望感。震えが止まらない。本能がおびえ、体がここで止まれと命令を出し続ける。だが、歩みは止めない。
「お嬢様、お気を確かに」
地面が割れ、大小さまざまな礫が飛んでくる。避けるのはまだ、造作もない。
「あ、あ、ああ」
「ほら、つかまえた」
黒い鎖のような紋様がからみつき、浸食された手をミミお嬢様の肩に置く。その顔は半ばまで闇に染まっていた。頬には確かに涙が伝って、彼女の学校の制服の襟下を濡らしている。
「もう泣かないでください。大丈夫ですから。さ、帰りましょう」
うつろな瞳が、こちらを見上げる。
「皆、待ってますよ。旦那様も、レスカも、弥生も、皆、待ってます」
足から力が抜け、地面に膝をつく。視界が黒く染まってきた。そろそろ限界らしい。
「あ、あ、ああ、ああああああ」
闇が、いくつもの剣に形を変え、足元から生える。よけきれない。太ももを貫かれる。痛みが全身を駆け抜け、屑折れそうになるのを何とか耐える。
「もう大丈夫だから。もう、怖がらなくていいんです。俺が貴女を守るから……俺だけじゃない、貴女の事が大切だと思う人はたくさんいるんです、その人達が貴女のそばにいる。貴女の帰りを待ってる……だから、早く帰ろう。ミミ」
言葉を紡ぐのももはやかなりの重労働と化していた。最後の力を振り絞り、目の前のミミお嬢様を抱きしめる。ほのかな温かさが伝わってくる。
「ミミ、お嬢様」
名を呼ぶ。
答えは、無い。
「……ミミ」
暗くなった視界、ミミお嬢様の目から、ぽろぽろと涙がこぼれるのが見えた。その涙に洗い流されるように瘴気が掻き消え、その奥の亜麻色の瞳が、俺をとらえる。
「青……蘭、さん?」
名を呼ばれる。
「……はい」
「青蘭さん、青蘭さん……っ」
わずかに、俺の背中にまわされた手に力がこもる。
「ミミお嬢様」
急激に、闇が消えていく。俺にまとわりつく鎖のような文様も、細かいちりとなって濃い潮の匂いを孕んだ風に流されていく。
同時に体に感覚が戻ってきた。未だ鈍いが。
気がつけば、いつの間にか辺りを浸食していた闇は消え、見慣れたアスファルトの地面に戻っていた。だが、お嬢様が歩んだ、“オルグズ・ハンド”が生えていた場所は抉りとられたように無残な痕跡を残していた。
「お嬢様、大丈夫ですか?痛いとことか、無いですか」
俺の言葉に、腕の中でお嬢様が頷いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、私、わたしぃっ……」
「いいんです。ああ、もう、泣かないでください、ね?」
「だって、だってぇ、私……貴方を傷つけてしまった!私のせいで!殺してしまうところだった!」
「大丈夫ですから。よしよし」
抱かれたままのお嬢様の背中に手を回し、優しく撫でる。一層泣き声が大きくなる。
「泣かないで。ミミお嬢様」
「……だって、だってぇ……」
「……クローズドコンバット。状況終了。オデット、レスカが怪我してる。救急車の手配よろしく」
なかなか泣きやまないお嬢様の背中を撫でながら、俺はそうインカムに短く言葉を投げる。オデットが何かを言っていたが、俺は通信を切った。
遠くから、パトカーのサイレンの音が聞こえる。
「お嬢様、もう大丈夫です。だい、じょうぶ、ですから」
意識を手放しそうになる。だが、胸に抱いたぬくもりが、それを許してくれなかった。俺は彼女の背中を優しく抱きしめて、その頭を撫で続けた。
温い風が、濃い潮と血の匂いを、不快な感触と共に運んできた。
ああ、不快だ。
ああ、不快だ。
ああ。




