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「青蘭さん、お気を確かに」
――オデットの呼ぶ声で、俺は手放していた意識を取り戻した。体を起こし、額の脂汗を乱暴に袖で拭う。吐き気と眩暈で今にも倒れこんでしまいそうだ。
「ぐっ……なんだ、ありゃ」
「状況を説明します」
体を起こした俺に、オデットが今の状況をかいつまんで説明してくれた。
どうやら、情けないことに俺は気絶していたらしい。ミミお嬢様をかばってから、少しの間の記憶が欠落している。時間的にはわずかな時間だと思うのだが、その「わずかな間」に一体何があったと言うのか。目の前で起こっている事を信じられず重く息を吐いた。
目の前で威嚇するかのようにひたすらに地面を引っ掻き続ける巨大な腕。爪先でアスファルトを削り、腕が動くたびに破片が辺りにまき散らされる。
「詮索は後です。これよりあの手を“オルグズ・ハンド”と呼称します。ゆーこぴー?」
「ア、アイ、コピー」
冷や汗が止まらないのは、目の前の不可思議な現象に思考が追いついてないからか、赤黒い血だまりのような「それ」に鼻腔に残った昔の記憶をふと思い出したからか。どちらにせよ、体の震えが止まらないのが事実だ。二、三度頬を叩き、意識をはっきりさせる。
「あ、ちなみに“オルグズ・ハンド”というのはですね、オルグスってのが鬼のって意味で、ハンズが腕って意味です。鬼の腕って意味ですね」
鬼の腕。それよか女の子の腕のがいいんじゃないか、なんとなく色っぽいし。そんな言葉が出かかるが、飲みこんだ。
「……なんだそりゃ」
「とりあえず、ですよ。少しは楽になりましたか?」
「ああ。ありがとう」
辺りに立ち込める黒い霧――オデットは「瘴気」という言葉を使った――は音もなく周りの地面を浸食し――不定期に黒い腕を幾つも木のように生やしながら広がっていく。その中心にミミお嬢様が力無く立っているのが見える。
「この存在してはいけない、物理的事象―― The physical phenomenon which must not exist……一言で言ってしまえば魔法や魔術なんでしょうけど、どういう原理で引き起こしているのかは不明です。彼女を止めなければさらに被害は拡大するものと推測されます」
オデットの推測ではどうやらこの現象を起こしているのは彼女らしく、彼女をどうにかしない限りはこの状況はおさまらない、との事だ。あまりに現実味をかなぐり捨てた状況に、笑いすらも出ない。
うつろな目がこちらを向く。
一斉に手――“オルグズ・ハンド”がこちらを向いた。攻撃対象は無差別なのか、ターゲットには俺も含まれているらしい。足をもつれさせ転ばないようにじりじりと距離をとる。恐怖で固まった体では、それすらも中々の重労働だった。
「あ」
その一歩に、ミミお嬢様は鋭敏に反応した。
「あああせあああああいあああああらああんああさあああああああああん」
金切り声をお嬢様が発する。言葉にはなっていない羅列。それは耳朶を叩き、孕む狂気は人を狂わせる。わずかに生き残ったチンピラ達は、いずれも狂ったかのような反応をするばかりだ。自傷し、奇声を上げ、体を震わせ、泡を食って失神する。
――先ほどとは比べ物にならない速さで闇が地面を浸食していく。逃げ遅れたものは悲鳴の残響を残して闇に飲み込まれていく。飲み込まれた先に何が待っているのかなんて、知りたくもないし、知るつもりもない。
つかまってはまずい。俺は咄嗟に背後のコンテナに飛び乗る。
近くにはレスカもいるはずだ。このままいけばお嬢様は対するものすべてを飲みこんでいくのだろう。レスカをそれに巻き込むわけにはいかない。
俺はコンテナの上に飛び乗ると彼女の名を呼んだ。
「ミミお嬢様!こちらです、捕まえられますか!?」
捕まえられたらそこにあるのは死、なのだろう。
“オルグズ・ハンド”が幾つも俺に向かって手のひらを大きく広げ殺到する。その後ろをミミお嬢様が緩慢な動作で俺に向かって歩いてくる。よし、気はそらせたみたいだ。
後は離れた所まで誘導して、何とか彼女をとめなければ。
「あああああっ」
コンテナが揺れ、金属のひしゃげる音とともに足元から“オルグズ・ハンド”が飛び出してくる。俺に向かってその丸太ほどもある五本の指を大きく広げ、掴みかかってきた。それを体をそらし避ける。そのまま横に転がり、コンテナから飛び降りた。それなりの高さがあるが、受け身をとる必要もなく、地面に降り立つ。
「つ、らぬけ」
囁くようなノイズが耳朶を打つ。
背筋を寒いのもが流れた。本能的に左に転がる。転がった瞬間、今まで自分がいたところに無数の黒い槍が殺到し突き立っていた。黒い瘴気を槍の形に固めたものらしく、投げやり(ジャベリン)のような形をしていた。槍は地面に突き立つと、溶けるようにして掻き消えていく。
ミミお嬢様のほうに視線を送れば、彼女の周りに同じ黒い槍が無数に滞空しているのが目に入った。
「つ、らぬけ」
声がすると同時に、また、黒い槍が空気を裂き飛んでくる。あわててコンテナの間に身を隠した。だが、槍は紙でも裂くかのように鋼鉄製のコンテナを容易く突き破る。
「うおわあああ!」
避け切らず左肩を槍の穂先が抉り、そのままシャツを貫通し、コンテナに縫いとめられる形になってしまった。抉られた肩口から鮮血があふれ出す。
――まずい!
槍の柄に、引き抜こうと手をかける。手をかけた瞬間、目の前が霞み、力が一瞬抜けかけた。見れば槍から漏れた瘴気が握りしめた右手を侵食しているのか真っ黒に染まっていた。あわてて槍を引き抜き、絡み付く闇を手を振って払いのける。
そのままコンテナの間を縫い走ると、開けた場所に出た。海に面した埠頭。風で運ばれてくる潮のにおいが一層強くなり、波の音が辺りを静かに支配する。
コンテナの隙間から、赤黒い霧が漏れだす。そして触れるものすべてを狂気に/あるいは狂喜に/そして驚喜に包み込むそれは、先ほどよりも浸食のスピードを速めているのか、圧倒的な速さで辺りに広がっていく。その中心にミミお嬢様は、力無く立ち尽くしている。
その周りで巨大な手が花弁を開かせる花のように指先をしならせながら、その暴力の矛先を俺に向けた。一瞬の間をおき、一斉に殺到してくる。




