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2014年5月26日 午後13時26分 天気:雨
その日は、朝から雨だった。つい先日梅雨入りした、とニュースで見た気がするが、あれはいつだったか。
築五十年強の古い一戸建ての家屋、その屋根を無数の雨粒が打つバラバラという音が、他に音も無くひたすらに静かな部屋の中を支配していた。
何人もの黒い喪服を着た人が、俺の前で軽くお辞儀をすると線香を遺影の前に捧げ、またお辞儀をして去って行った。ただ茫然とその様子を目で追いながら、俺はまた遺影の方に視線を送る。
黄色い肉厚の花弁の花は、確か菊、だったか。小奇麗に飾られた花々の中にぽつんと一つ、不器用な笑みを浮かべた男の写真が埋もれるように置いてある。
その男、血はつながっていないが紛れもなく俺の「父」だった男……赤妻青二は、唐突に死んでしまった。紛争を武力なしで解決するネゴシエーターとしての仕事で海外に行っていて、そこで現地ゲリラに殺された、と。大使館から送られてきた手紙にはそれだけの事実がただ簡潔に書かれていた。
手紙と遺骨、回収された数品の遺品だけが小さな箱に入って送られてきたのがつい三日前。その中にはうっすらと焦げた俺の写真なんかが入っていて。その小さな遺品を握りしめ、俺はただ溜息をつく事しかできなかった。
――不思議と、涙なんて流れなかった。多分、親父が死んだと言う実感がまだ無いからだろう。遺体も無ければ、死に顔も見ていない。本当に唐突で、実はひょっこり帰って来るんじゃないか?と言う疑問すら浮かぶ程にそれはあっけなく、唐突だった。
ああ、でも。世間から見たら、父親の死に涙も流さない息子と言うのは、親不幸者、と見なされるのだろうか。
俺はまだ少し人が残っている部屋の中を見渡す。いずれも皆親父とは親交があった人達らしい。中には外国の人も見えるが、俺には見覚えの無い顔ばかりだった。
「……おじゃまするよ、青蘭君」
特に会話もない部屋の空気になんだか気疲れしてきた。もう奥の部屋に引っ込もうか。そんな事をぼうっと考えていたら、線香の匂いが漂う狭い部屋の中に唐突に声が響き、同時に辺りにどよめきが起こった。俺は緩慢な動作で声のした方を振り向いた。
「やぁ、初めまして、じゃないな……お久しぶり、と言ったところかな?」
焦げ茶色の髪、欧州系のそれを思い起こさせる顔立ちに髪色と同じ色の顎鬚を蓄えた男性が一人、部屋と廊下の間仕切りとして使っていた障子を開き、それに体をもたれさせるように立っていた。身を包んだ黒い喪服の襟元には、銀色の丸い襟飾りが見える。
そして、そこに刻まれた「円」と言う漢字を象形的に表した紋様が、その人物が誰であるかを生々しく物語っていた。
「円塔寺、隆顕?」
周りがざわめくのも、当たり前の反応を示しただけだろう。そこにいたのは、日本だけでなく世界経済の十五分の一を牛耳ると言われている円塔寺コンツェルンの現党首、円塔寺隆顕その人だったからだ。
「……なんで、ここに?え、っていうか、俺の事……」
「ふふ、どうやら僕の事は忘れてしまったみたいだネ。まぁしかたないか……ほら、ミミ」
円塔寺隆顕……いや、隆顕「さん」は、ふふ、と自嘲気味に笑いをこぼすと、誰かの名前を呼び、狭い入り口をくぐると畳敷きの床を踏みしめ部屋の中へと歩みを進めた。
その広い背中に隠れるように、彼の子供だろうか、同じく黒い喪服と思しき服に身を包んだ女の子が部屋の中に入ってきた。周りを気にするようにきょろきょろと見渡しているが、一体どうしたと言うのだろう。ふとその子から視線をずらし辺りを見渡すと、そこには整理されたいつもの我が家が広がっているだけで、先ほどまでまばらにいた人は予期せぬ来客に驚いたのか既にいなくなっていた。
今この場にいるのは俺と、隆顕さん、そしておどおどと周りを気にしたように視線を巡らせている女の子だけだ。
女の子の齢は外見から判断するに14歳位だろうか。親父さん譲りのほんのり淡くカールした亜麻色の髪に、くりくりとよく茶色の瞳。黒を基調としたドレスを身にまとい、おしゃれの一環なのか手には黒いビロード製の薄いグローブを身に着けていた。