第三章⑦
ミリカはスープの匂いで目を覚ました。目を覚ますと空腹に耐えられなくなって、倒れ込むように視界にあるスープの皿に向かって手を伸ばした。しかし、手はスープに届かない。気が動転していた。訳が分からなかった。必死で手を伸ばす。手が鎖に繋がれているということに気付いたのは、風と水の魔女にやられたことを思い出し、自分は鉄格子の中にいるということを理解し、鉄格子の向こう側で椅子の上に立っている小さな女の子が小さく悲鳴を上げた時だった。彼女はその拍子に椅子から落ちた。モップも一緒に石でできた床の上に落ちた。どうやら天井の落書きを消していたようだ。
眼鏡がないので、女の子の表情はほとんど分からない。
しかし、悲鳴を上げた、ということは、王都に不法に入国した立派な犯罪者であるミリカに少なからず恐怖心を抱いているということだ。なら、なんとかなるかもしれない。
腹の虫が鳴る。
「……あの、このスープは、」声を発した瞬間に体中の傷が痛んだ。風の魔女が付けた傷だ。この痛みは復讐心を煽る痛みだった。「私が飲んでもいいものでしょうか?」
なかなか返事は来ない。ミリカは小さな女の子を、目を細めて見る。恐怖しているが、それを露骨に態度に表していない。必死にそれを殺そうとするみたいに、立ち上がって、様々なこと考えながらミリカに近づいてきた。ミリカはその間に呪いが掛けられていることに気付き、その種類が砂時計であることに、とてつもなく安心感を覚え、優しい表情になる。小さな女の子は自分に向かって微笑んだように、勘違いしただろう。
「アン・ロック」
女の子は囁いた。手から鎖の重みが消えた。急に血流がよくなったせいで、手がしびれた。その手でスプーンを持とうとした。震えて落ちる。女の子はそのスプーンを拾ってくれた。女の子は拾ったスプーンをハンカチで拭いてくれた。そして女の子はスプーンでスープを掬ってミリカの口まで運んでくれた。ミリカはずっと女の子を見つめていた。顔が近くなったからよく分かる。とても可愛い女の子。スープが胃に落ちて、空腹感に拍車がかかると、ミリカの悪い癖だ、女の子を欲しくなる。
「もっと、飲ませて」ミリカは儚げな表情をして、女の子に頼んだ。
女の子はスープの皿が空になるまで終始無言だった。ミリカを警戒しているのだ。しかしミリカからすればその警戒は甘い。まるで餡子みたいに甘い。「甘いものはありませんか?」
「き、貴様の名前は?」
女の子の震える声にミリカは微笑ましく思う。「アンジーです、ねぇ、甘いものはありませんか?」
「……チューインガムなら」
「ホント?」ミリカは面白いことを思いついた。チューインガムは非常に便利で様々なことに使えるから大好きなのだ。「頂きます」
「その前に、私の質問に答えてください、じゃない、答えろ、正直に答えたらガムをやろう」
「小さな看守さんのお名前はなぁに?」わざと声を高くしてミリカは尋ねた。
「アメリアよ、って、ああ、もうっ」女の子は素直に答えてくれた。瞬間的に後悔したようだ。その仕草は映像に残しておきたいくらいキュートでポップだった。そういえば、キュートでポップでロックなフォレスタルズは、ミリカが頼んだ仕事をきちんとこなしてくれているだろうか?
「アメリア、素敵な名前ね、アメリアは魔女?」
「そうよ、魔女よ、」アメリアは声を大きくして虚勢を張っている。鳶色の瞳が可愛い。「凄い魔女なのよ、今度、パレードの先頭を飛ぶんだからっ」
「凄いね、ねぇ、ココは宮殿なの?」
「宮殿の南の魔女の塔の地下よ、って違うじゃない、どうして貴様が質問して私が答えているのだっ!」アメリアは少々混乱しているようだ。
「そんなの些細なことよ、それに慣れない言葉遣いをするものじゃないわ、あんまり無理しちゃ駄目よ、」アメリアが混乱しているのは明らかにミリカのせいだが、そういう素直過ぎる性格にミリカはなんていうか、心配になる。この子は魔女としていい子過ぎるのではないだろうか。「少し心配だわ」
「どうして貴様にそんなことを!」アメリアは叫んでから、深呼吸をして、自分を落ち着かせているようだった。そして疲れた笑みでミリカに頼んだ。「ああ、もうっ、私を心配してくれるなら、ちゃんと質問に答えてくださいね、アンジーさん」
ミリカは本気でアメリアを好きになりそうだ。
「では、最初の質問です、」アメリアは椅子に座り机に向かってペンを握った。「あなたの出身国は?」
「台湾」ミリカは素直に嘘を答えた。
「タイワン? その国はどこにあるのですか?」
「ずっと東」コレは本当。
「東洋の国ですか?」
「イエス」
アメリアは紙にペンを走らせている。「属性は?」
「風」
「年齢は?」
「十四」
「魔女になった年齢は?」
「十一」
「どうして王都に?」
「あなたに会いに、」ミリカは微笑んで本当のことを言うように嘘を付いた。「ごめんなさい、本当はパレードを見るために王都までやってきました」
「今までの答えは全部嘘?」
「ノウ」ミリカはなんだか楽しくなって笑った。
アメリアは立ち上がって鉄格子の前まで来て、チューインガムを差し出した。
「ありがとう」ミリカは緑色の包み紙を開いてガムを噛む。口の中がスペアミントの香りで満たされる。アメリアの顔に息を吐いた。
アメリアは顔に嫌悪感を露わにして言った。「あなたは私の手におえる魔女ではありませんね」
「禅問答を続けようよ」
「ゼンモンドウ? とにかく、魔女を呼んできます、私よりもずーっと凄い魔女です、あなたを捕まえた凄い魔女に尋問してもらいましょう」
「それは、風の魔女?」
「水の魔女です」アメリアは部屋から出て行こうと扉に手をかける。
その隙にミリカは鉄格子にガムを張り付けた。「なんだぁ、つまらないな」
「くれぐれも、私のいない間に脱獄するなんてことを考えないように、まぁ、魔法を使えないあなたは何もできないでしょうけれど」
「ねぇ、アメリア、待ってよ」
「……なんです?」アメリアは律儀に開けた扉を閉めて振り返る。
「ちょっと、こっちに」ミリカは手招きする。
「もうっ、なんですか?」
「面白いものを見せてあげる」
「面白いもの?」アメリアはしゃがんで目線はミリカと同じになった。
「見て」とミリカは満面の笑みで左目の下の砂時計を指差す。
アメリアの驚きの表情が愉快だった。信じられないものを見ている目をしていた。
ミリカの左目の下の砂時計の黒い砂は、シャワーのように、一気に落下し始めた。
それまで全く動いていなかったのに、重力を思い出したかのように、黒い砂は動き始めた。
アメリアは慌ててミリカから離れようとした。水の魔女を呼びに走ろうとしたのかもしれない。しかし、ミリカはアメリアの手首を掴んだ。
「は、離して!」叫びは悲鳴に近かった。
「よく見て」
「嫌だっ!」
それでもミリカは離さなかった。ミリカは目を閉じている。黒い砂は順調に落下する。ミリカがやっているのは、とても複雑な作業だった。黒い砂は魔力を吸って、その重みで下に落下する。ゆえにその砂に魔力を注ぎ込めば砂は落下する。そういう器用なことを東洋の魔女は簡単にする。ミリカはカウントダウンを始めた。
呪いが解けるまで、あと、
「さん」
「いや」
「にぃ」
「離して!」
「いち」
「きゃあ」
「ぜろ」その瞬間、ミリカは目を開き、スイッチを押すくらいの簡単な魔法を編んだ。
鉄格子に張り付けたガムが、パンッ、と弾けた。
小さな爆発。
しかし、アメリアを気絶させるには十分な爆発だった。アメリアは鉄格子の前で可愛く倒れている。ミリカは満足げに微笑んだ。爆発、それがミリカの属性。ミリカの体の一部、あるいは魔力を込めた魔弾がミリカの武器である。
「アン・ロック」
ミリカはアメリアの魔法を真似して足の鎖と、鉄格子の鍵を外した。ミリカは拘置所の扉の外の様子を窺う。爆発の音は小さかったが、誰かが聞きつけたかもしれない。しかし、外の通路は静かなものだった。ミリカはきっとアメリアのものだろう、箒を持って通路へ出て音を立てずに走り、空気の流れを頼りに一階への階段を目指した。けれど、ミリカはすぐに踵を返した。そして拘置所に戻り、アメリアを抱き上げた。この可愛さは誘拐せずにはいられない。
アメリアを抱きかかえたまま、扉を開け、通路に出て走り、階段を駆け上がる。
と、そこで、階段を降りてきた、ストロベリーブロンドのツインテールの、こちらもまた誘拐したいくらい可愛い女の子と、鉢合わせになった。ミリカは思わず舌打ちする。見つかったからじゃなくて、二人とも誘拐できないことに対してだ。
「ハロウ」ミリカは笑顔でストロベリーブロンドにあいさつした。
「……ハ、ハロウ?」
ストロベリーブロンドは囚人服のミリカとアメリアを交互に見て、必死に状況を把握しようとしていた。状況を把握するのに三秒。ストロベリーブロンドは瞳を吊り上げ、声を張り上げ、箒を剣のようにしてミリカに突き付けた。「アンタ、アメリアに何をしたのよ!」
「急に倒れたの、医者に見せないと」
「冗談!」ストロベリーブロンドはミリカの嘘を一蹴する。「アメリアを離せ、アメリアを離して大人しく牢に戻れ、私の自慢の炎を喰らいたいかっ!」
ストロベリーブロンドは手の平の上に綺麗な炎を生み出していた。綺麗だが、しかし、まだまだ発展途上。これじゃあ、導火線に火もつけられない。
「静かにしようね」ミリカはストロベリーブロンドに微笑みかける。
「離して牢に戻れと言っている!」ストロベリーブロンドの炎は大きく膨らんでいる。
「どちらが不利か、」ミリカは手を銃の形にしてその銃口をアメリアのこめかみにくっつける。このポーズに意味はないが、しかし、ストロベリーブロンドを惑わせるには十分だった。「分かってる?」
「ひ、卑怯な」実に子供っぽい台詞で可愛い。
「私の言うことを、聞きなさい、さもないと、」ミリカはぐりぐりとこめかみに人差し指を当てる。ミリカは心から楽しんでいる。「あなたの大事なアメリアちゃんが、死んじゃうわよ」
「ぐぬぬ」ストロベリーブロンドは下唇を噛んだ。
「じゃあ、まず、そうね、服を交換しましょう」
「え?」
ミリカは指を鳴らした。するとミリカとストロベリーブロンドの服装はチェンジした。ミリカは宮殿の魔女の正装、ストロベリーブロンドは白と黒の囚人服。
「あははは、似合う」ミリカは笑った。
「笑うなっ」
「胸がきついわね」ミリカは体が小さいけれど、胸のサイズはストロベリーブロンドよりも断然大きい。
「ほっとけ!」
「これで宮殿の中でも怪しまれないわ、ありがとう」
ミリカはアメリアを抱いてストロベリーブロンドの横を通り抜けた。
「宮殿の魔女を甘く見ない方がいいわ、」ストロベリーブロンドがミリカの背中に向かって言う。「絶対に、このまま、アンタを放っておかない、シャーロット軍曹にかかればアンタなんて一瞬よ!」
ミリカは振り返った。先ほどとは逆の立ち位置。そして自然体で、再度カウントダウンを始めた。「さん」
「なに?」
「にぃ」
「なによ?」
「いち」
「訳が分からない!」
「ぜろ」
その瞬間、チューインガムが爆発した時とは比べものにならないほどの炸裂音が遠くから聞こえた。フォレスタルズはきちんと仕事をしてくれた。そう、球体ほどの風呂敷の中身はほとんどがミリカの魔弾だった。フォレスタルズはミリカが提案した通り、ミリカの魔法に操られていたといって検閲を通り抜け、魔弾を王都の様々な場所に仕掛けることに成功したのだ。本当に素晴らしいロック・バンドだ。たった今爆発したのは、宮殿の北側の城壁に設置された魔弾だった。つまり、優秀な宮殿の魔女は日常業務を中断してそこへ集まることになるだろう。ストロベリーブロンドは事態を飲み込めていない表情でミリカを見上げている。
ストロベリーブロンドにミリカは言ってあげる。「あなたも消火活動に急いだ方がいいのではなくて?」
ミリカはアメリアを抱いて階段を駆け上がった。背中からストロベリーブロンドの声が聞こえる。「炎が消火活動に役に立つわけがないじゃない!」
ミリカはストロベリーブロンドを誘拐出来なくてとても残念だった。




