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ディア・アリス  作者: 斎藤
【改稿前】
9/14

08

 「ふぅ……」


 ムールシュタットで買い物を終え、3時間以上稼働させていたノートパソコンをシャットダウンした有子は、その場で軽く伸びをした。今まではレポートの資料を集めるのに1時間使用するかしないかであったパソコンだったが、【トロイメライ・メルヒェン】を始めてから、その稼働時間は倍以上になっている。

 有子は長時間パソコンに向かっていて少々疲れ目の目を擦りながら、壁掛け時計を見た。時刻は15時半を少し過ぎた頃。予定していたスーパーのタイムセールに十分間に合う時間だ。


 「(冷蔵庫……何が残ってたかな)」


 少し硬くなった体を解しながら、冷蔵庫にある食材を確認する。野菜室では人参に玉ねぎ、じゃがいもといったお馴染みの野菜が眠っており、冷蔵庫には焼き豆腐があった。糸こんにゃくと肉でも買ってきて、肉じゃがにしよう。後はセールの割引品をいくつか購入する予定だ。有子は脳内のメモに買う物の予定を書き込んだ。


 「行ってきます」


 簡単に身支度を整えて、エコバッグと財布を持って玄関に向かう。同居人が居るわけでもないが、実家に居た頃の癖で、出かける時にはそうやって声をかける習慣が染みついているのだ。有子は誰も居ない部屋の鍵を閉めると、スーパーに向かった。


 有子の自宅からスーパーまでは、徒歩で約15分だ。有子がスーパーに着いた時にはもう時刻は16時近く、同じくタイムセール目当てであろう主婦達が既に何人も来ていた。

 ちなみに、本日の割引品は野菜だ。最近は野菜の値段が高騰しているため、主婦達はここぞとばかりに買い込むつもりなのだろう。獲物を狙う肉食獣のような目をしている、と有子は思った。


 「(とりあえず、肉と糸こんにゃくは最初に取っておこう。あと卵も無くなってたっけ……)」


 有子は目当ての肉と糸こんにゃく、そして卵を籠に放り込む。運の良いことに、肉は賞味期限の関係で2割引きになっていた。

 こういった理由での割引なら、安心して受けられるのになあと、有子は少し眉尻を下げた。ゲームのキャラクターとは言え、あの牛の男性には迷惑をかけてしまった。ピーターにもだ。

 少し気分が下降したままだったが、目当ての物は籠に入れたので、有子は既にスタンバイしている主婦達の中に紛れ込む。何となく殺気立っているように感じる主婦達は、間違いなくこのスーパーで最強の生き物だ。こんな中に混じらなければならないのは正直怖いが、そこは一人暮らしの悲しさだ。何とか生き残るしかあるまい。

 有子が固唾を飲んで待ち構えていると、やがて店の奥から現れた店員がメガホンと割引シールを手にやって来て、脚立の上に陣取った。


 「えー、ただ今よりタイムセールを行います! 本日は茄子、キャベツ、白菜など、各種野菜を4割引きでご提供させていただきます! お一人様2点まででございますので、どうぞこの機会をお見逃しなく!!」


 それからは、まるで戦争だった。まさしくこのスーパーの野菜売り場は、戦場と化したのである。

 ちょっと恰幅の良いおばさんが有子を突き飛ばしてキャベツに向かって突進したと思うと、次はパーマのおばさんが有子を押し退けて茄子に手を伸ばし、最終的に玉ねぎと長葱を携えた紫色の髪のおばさんに「邪魔だよ!」と言われてしまった。

 ……結果、有子は茄子を一袋しか手に入れられなかった。


 「(……私、やっぱり駄目だな。いっつもおばさん達に負けちゃう……)」


 有子はしょんぼりとした気分でスーパーを後にした。大学進学を契機に独り暮らしを始めて以来、何度もこの戦場に赴いている有子だが、未だにロクな戦果を挙げたことが無い。軽い筈のエコバッグが妙に重く感じたのは、気のせいではあるまい。


 「(……もう、かなり日の入りが早いな)」


 重いエコバッグに意気消沈する帰り道、街灯が点灯したことに気づいた有子は、ぼんやりとそんなことを思った。9月の間は残暑が厳しく、まだまだ夏の気分が抜けなかったのだが、もう気温はすっかり下がり、日照時間の変化もあり、すっかり秋の雰囲気になっていた。

 有子の住んでいるアパートの周辺は街の中心から少し離れていることもあり、比較的自然が多く残っていて、ついでに土地も余り気味なのか、庭が広い家が多い。周りの自然や庭先の銀杏や紅葉の木は、その半数が薄暗い中でも目立つ赤や黄色に色付いている。時々柿の実を鴉が突いている所も見られ、有子の沈んでいた気分は、これらの景色によって、あくまで少しずつではあるものの、確かに紛れていった。

 ……のだが。


 「ひっ!」

 「こら栗太郎! やめなさい!」


 有子は栗色の毛並みをした大きな犬に吠えられて驚き、その場に立ち竦んでいた。昔大型犬に突然吠えられて以来、有子は犬、特に大型犬が苦手なのである。

 この辺りはそれなりに景色が良いため、犬の散歩コースになっている。今は残暑が通り過ぎた夕方ということもあり、適度な秋の涼しさの中、犬の散歩をする人は少なくない。有子に向かって吠える犬を叱る線の細い男性も、そんな一人なのだろう。


 「すみません、普段は大人しいんですけど……あっ」


 男性は穏やかそうな顔に似合わず、眉尻を吊り上げて犬を叱って宥め有子に謝罪をするが、その際に有子の足元に視線を移し、「しまった」という顔をして固まった。有子は犬のせいで気付いていないようだが、驚いた拍子にエコバッグを取り落し、中に入っていた卵が割れてしまっていたのだ。男はそれを見て罪悪感を覚えたのである。

 しかし、まだ犬にびくついている有子は先程のスーパーでの敗北が拭いきれておらず、まだ気分が下降気味で、自己嫌悪が尾を引きずったままだった。つまり、いつものネガティブに拍車がかかっていたのである。そんな時にこんな男性の反応を見てしまった有子は、これを「嫌な奴に会った」、あるいは「面倒なことになった」という、自分への不満、不都合の表れと取ってしまっていた。本来はその矛先はこの男性自身に向いているのだが、自分へのものだと思う辺り、有子のネガティブも筋金入りである。


 「す、すみません、私、さ、散歩の邪魔しちゃって……本当、ごめんなさ……っ」

 「え? あ、いや」

 「ごめんなさい、今すぐ行きますから……すみません……」

 「ちょっと待って、これ……」


 有子は犬を警戒しながらもこの場から離れようとするが、男性が足元を示唆するので、それに従って視線を向ければ、そこには無残なエコバッグがあった。八個入りの卵の半分は割れ、糸こんにゃくのビニールも肉の薄いビニールも、等しく卵まみれだ。肉に至ってはビニールが破れており、中の肉までも被害の範疇である。勿論、エコバッグ本体についてはその惨状を語る必要も無い。


 「あっ……」

 「本当にすみません……弁償します」

 「い、いえ、いいんです……それよりその、すみません、ご迷惑をおかけして……」

 「いや、迷惑をかけたのはこちらで――」

 「いえ、その……悪いのは落とした私ですから……ごめんなさい、すみませんでした……っ」

 「あ、ちょっと!?」


 有子はだらだらと卵白を滴らせるエコバッグを引っ掴むと、セネルから逃げた時よろしく、男から全力で走って逃げだした。自分に嫌悪感を抱いている(と有子は思っている)男性の前から消えてしまいたいという思いと、この大きな犬から一刻も早く逃げたいという気持ちからの全力ダッシュだった。

 元々有子の反応に戸惑っていた男性だが、まさか突然走って逃げだすなんて思ってもみなかったため、咄嗟の反応ができずにその場に固まってしまう。男性はすぐに我に返って有子を追いかけようとしたのだが、相変わらず愛犬が有子を吠え続けているために、追ってはまた怯えさせてしまうだろうということと、すっかり暗くなってきた道で有子を見失ってしまったことで、足を動かすのを止めた。


 「悪いことしたなあ……お前のせいだぞ栗太郎――って、だからいつまで吠えてるんだ! やめなさい!」


 男性は有子が走り去った方角を眺めてぽつりと零すと、何故か吠えるのを止めようとしない愛犬を、もう一度叱りつけた。


 ***


 有子はアパートの自室に逃げるように駆け込むと、汚れるのも構わずにエコバッグをその場にまた落とし、玄関にしゃがみ込んだ。息は切れ切れ、脈も尋常でない速さとなっているが、有子はそれよりも、先程の男性のことで頭がいっぱいだった。


 「(どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう私人の邪魔をした人に迷惑をかけた人を怒らせた)」


 頭がいっぱい、しかも異性のことで。これだけだと何とも甘酸っぱく思えるのに、有子の現実は至ってドス黒く真っ暗だった。

 「勘違い」とは恐ろしいもので、ただそれだけを聞けば大したことが無いと感じるが、この「勘違い」は修正・訂正を受けるまで、「真実」と名前を変えるのである。そして「真実」とは何よりも人間の認識に深く根付く物であり、特にそれが今の有子のように恐怖をはじめとする感情に結び付いた時、たかが「勘違い」である筈の事象は、その人間にとって様々な効果をもたらすのだ。

 有子に現れたそれは、間違いなく「自己嫌悪」である。


 「(もしまたあの人に会ったらどうしよう私どんな風にすればいいのか分からないまた怒らせるかもしれない本当に私は何てことを……)」


 膝と頭を抱え、微かに震えながら、有子は先程の自分の行動を振り返り、恐怖する。嫌悪する。

 今更説明するのも何だが、一種の鬱症状とも取れるほどに、有子のネガティブは深刻なものだ。気分や状況によってムラがあるとはいえ、自責の念と自己嫌悪、そして統合失調症にも似た被害妄想的な思い込みは、恐ろしく激しい。ユウコも何度か今までこうなってきたが、【トロイメライ・メルヒェン】はゲームということもあり、相手の素顔が見えない分、まだ緩和されていた節がある。今の有子のこの反応は、彼女本来のネガティブ気質が炸裂した状態だった。


 「………」


 こてん。

 机の上の兎がまた転んだ。

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