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ディア・アリス  作者: 斎藤
【改稿前】
3/14

02

 立ち上げたノートパソコンのデスクトップは、いつもと何ら変わりは無かった。新着メールを告げるアイコンは無かったし、メールのショートカットをクリックしても、受信箱に未読のメールは無かった。

 本日は15日。【トロイメライ・メルヒェン】のアカウント当選発表日である。


 「やっぱりね……」


 有子はメールのウインドウを閉じ、見慣れた可愛らしい猫の壁紙と対面してぽつりと一言零すと、溜息を吐く。そしてパソコンを机の端に追いやってしまうと、項垂れるかのように突っ伏した。


 「(私が当たるわけないじゃん……何期待してんだろ。馬鹿みたい。無理に決まってるのに)」


 有子は自分が特別不運であると思ったことは無い。両親も健在で、金銭的な面でも、アルバイトをしながら一人暮らしができるくらいはある。

 かといって、特別幸運だと思ったことも無い。至って平凡、「みんなこうしてる」といったように使われる「みんな」という、顔の見えないその他大勢の枠組みの中に、綺麗に収まるような人生を送ってきている。

 不運ではないが、幸運でもない。有子は自分の運は人並みだと自覚しているのに、何か奇跡的な可能性で当選するかもしれないという幻想を夢見たことを恥じた。

 ……本来なら全く恥じるようなことではないのだが、有子はそのネガティブが故に、自分はとてつもなく恥ずかしいイタイ奴だという風に認識していた。やはりネガティブだ。


 デスクトップの猫に見下ろされながら机の上に突っ伏して5分弱。有子は一通り自分を罵倒し、落ち込むと、その気持ちをずるずると引きずったまま起き上がった。いつまでも突っ伏していた所で、何かが変わるわけもないのだから、当然と言えば当然か。

 のそりと椅子から立ち上がって台所に向かい、冷蔵庫から麦茶を引っ張り出して呷る。実家では直接容器に口を付けると怒られたが、一人暮らしの今、それを咎める者はいない。2、3口ほど麦茶を嚥下しながら、有子は傍らのベッドに腰掛けた。


 壁掛けの時計を見れば、時刻は22時をとうに過ぎている。有子の瞼には睡魔が忍び寄ってきていたが、有子はまだ眠るわけにはいかなかった。明日の授業までに授業のレポートを纏めなくてはならないのだ。

量は多かったが、期限に余裕もあったし、一応コツコツと地道にやってきていたので、徹夜しなくてはならない程に切羽詰っているわけではない。明日早めに起きてからやってしまっても間に合うだろう。

 しかし、有子は性格的にそれをしようとは思わなかった。もし寝坊してしまったらという可能性が怖かったせいだ。普段有子は寝坊をすることはないが、やはりするときはするものだ。これはもはや怪我や病気のような、一種のアクシデントに近い。ならば、アクシデントが起きても問題が無いようにしようというのが有子の考えだった。


 麦茶を冷蔵庫に戻して、通学鞄からレポートの束を引っ張り出す。彼女の性格を表すような小さめの文字がびっしりと書かれたレポート用紙は、ざっと10枚以上はあるようだった。

 有子はその束をバラし、更に資料を取り出して机の上に並べる。真新しいレポート用紙を数枚引っ張り出せば準備完了だ。


 「(日付が変わる前には、終わるかな……)」


 メールボックスを見た時そのままの陰鬱な表情が、真面目な学生のそれに変わる。ペンを手に取った有子は、黙々と右手を走らせ始めた。


 ***


 「ん、ん……っ」


 休むことなく動き続けていた手がようやくその動きを止めた時、有子は椅子に座ったまま大きく伸びをした。同じ姿勢で固まっていた筋肉が伸ばされて、どことなく心地良い感覚が全身を包む。また、目の前に積まれたレポート用紙も、有子に心地良い達成感をもたらしていた。

 時計を見れば、時刻はもうすぐ0時を指そうかという頃になっていた。何とか日付が変わらない内に済んだらしい。

 これでもう、有子は今日やるべきことをすべて終えた。もういつでも眠ってしまえる。


 「(……寝る前に、麦茶飲もう)」


 有子は気怠さに誘われてベッドに向かいかけたが、とても喉が乾いていることに気づいた。微かに痛みを感じるほどだ。どうやら、今までは集中のあまり気付いていなかったらしい。

 再び冷蔵庫から麦茶を取り出して、2口程呷る。そして不意に机の方を見て、眉を顰めた。


 「(そういえば……端っこにやったまま、電源落としてなかったっけ)」


 開かれたままスクリーンセーバーが作動しているノートパソコンは、電源がつきっぱなしだった。一人暮らしの身としては、こういうことは避けたい。電気代もばかにならないのだから。

 麦茶を戻した有子は机に戻り、軽くマウスを振る。少しのタイムラグの後、画面は元の猫のデスクトップに戻った。

 が、


 「あれ……?」


 パソコンのディスプレイには、立ち上げた時には無かったアイコンが点滅している。新着メールだ。やけに大きな添付ファイルがある。

 ほんの一瞬だけ、有子は【トロイメライ・メルヒェン】のアカウントの当選通知だと思った。だが、この通知は今日の22時までに、当選者に送られる筈なのだ。つまり、これは違う。

 ならば、一体誰からだろうか。送り主を見れば、覚えの無いメールアドレスだった。件名も無し。

 ウイルスの類?それなら、ウイルス検知ソフトが反応して、速やかに削除に及んでいる筈である。そのまま無事ということは、ウイルスではないのだろう。有子はまた、ならばどこの誰から?という疑問に戻る。

 悪戯だろうか。迷惑メール?有子の中で疑問と不安は膨らんだが、答えは無い。


 「…………」


 有子は微かに怯えながらも、マウスをクリックした。次いで現れたのはメールの開封画面。有子はメールを開いたのである。

 もしかしたら、友人がアドレスを変えたのかもしれない。教授か誰かが急ぎの用事があって、私のアドレスを誰かから聞いたのかもしれない。もしウイルスでも、検知ソフトが削除する。悪戯なら拒否して、削除すればいい。

 だから、見ても平気な筈だ。

 有子はそんな理由を、言い訳のように頭の中で組み立てた。

 ――つまりは、好奇心が勝ったのである。


 「えっ」


 そうしてメールを開いた有子は、思わず声を上げた。内容はこうだった。


 ………………………


 倉橋 有子様


 このたびはMMORPG【トロイメライ・メルヒェン】のアカウント取得抽選にご応募下さりありがとうございます。

 残念ながらお客様は落選なされましたが、当選なさったお客様の中でお一人、利用不可のメールアドレスでご応募された方がいらっしゃり、当選のご連絡ができなかったため、その方を落選といたしました。

 そのため、余ったもう一枠でもう一度抽選を行ったところ、見事お客様が当選なさりました。おめでとうございます。


 つきましては、添付のゲームクライアント「【トロイメライ・メルヒェン】Alice -Wonder Version-」をダウンロードして頂いた後、【トロイメライ・メルヒェン】公式サイトに移動。正式登録を行い、ログインして下さい。


 ※この作業はメール開封から24時間以内に行って下さい。24時間を過ぎて登録が確認されない場合、ゲームクライアントは自動的に消滅し、お客様が使用する予定だったアカウントは、他の方に譲渡されます。


 【トロイメライ・メルヒェン】でお会いしましょう。


 ………………………


 「…………」


 有子は呆然とディスプレイを見つめた。

 確かに、自分は補欠としてなら抽選の類の恩恵を得ることがあった。だがそれはかなりの低確率で、図ったように望んだタイミングで起きるようなことではない。

 つまりは、「信じられない」。有子はこの言葉で頭がいっぱいだった。


 「(ゆ、夢? 夢なの?)」


 思わず頬をつねれば、確かな痛みを実感する。何かの間違いではないかとメール画面を開き直してみれば、同じ文面が現れる。幻覚かと思って目を擦り、瞬きを繰り返しても、文章は変わらない。


 「(……き、きっとドッキリ。そう、詐欺なのよ。私を喜ばせておいて、後でぬか喜びだったって誰かが言うつもりなんだ。きっとそう……)」


 特に金銭も絡んでいないのに、有子に対してドッキリ、もとい詐欺を仕掛ける意味は無いのだが、有子は信じられないという感情のあまり、居もしない加害者を作り出した。

 が、何分経ってもそれを証明するようなことは起きない。疑心暗鬼に駆られるあまりに、家に隠しカメラがあるのではとすら思い、夜中に家中を捜索もしたが、何もなかった。

 元々そんなことを企んだ人間は居ないのだから、何もないのは当たり前なのだが。


 確認を何度も何度も繰り返し、疑っては杞憂に終わる。更には無駄な労力も使用して、そしてたっぷり30分は経った頃だった。有子の脳が、ようやく現実を認識したのは。


 「ほんと、だ……」


 メールは本物、嘘ではない。下部に記されていたURLも、公式サイトのものだと確認した。添付データファイルの名前は「【トロイメライ・メルヒェン】Alice-Wonder Version-」……このサブタイトルのようなものは、恐らく有子に割り振られたアバターの名前なのだろう。


 「……これが、」


 私だけのもの。

 ここに私だけのものがある。


 有子は、急に体温が上がったような感覚を覚えた。長距離マラソンをした時のように、血液が体中を駆け巡っているかのような。意中の相手に告白するときのような、そんな熱。

 微かに震える手でカーソルを動かし、有子は膨大なデータ量の添付ファイルをダウンロードする。少し時間はかかるだろうが、そんな時間は彼女にとって些細な時間だった。

 もう時計の針は0時を過ぎた頃を指しているが、有子の瞼から睡魔は消えていた。彼女にしては珍しい、明るく躍動感に満ちた心臓の鼓動が、耳の奥で煩いくらいに響いている。

 パソコンに映る「ダウンロードしますか?」という問いに「はい」と答えて、有子はダウンロード率を示すバーを一心不乱に見つめた。緑色のバーは徐々に端に向かっていて、95、96と、カウントダウンを進めていく。

 そうして、きっかり10分後。バーは綺麗に緑色になり、パソコンからはダウンロード完了を示す明るい音が零れ出た。


 「………」


 有子はメール画面を最小化して、ダウンロード先のデスクトップに戻る。見慣れたショートカットアイコンの中に、見慣れないファイルがあった。【トロイメライ・メルヒェン】のゲームデータ、つまりゲームクライアントである。これでプレイの下準備は完了した。

 再びメール画面に戻り、下部のURLから公式サイトに跳んだ。新しく追加されたらしい会員登録のボタンをクリックすると、メールアドレスの入力を求められたので、それに従って有子は自分のパソコンのメールアドレスを入力、エンターキーを押した。


 「入力されたのは……倉橋有子様の、メールアドレス。アバター名、Alice -Wonder Version-の、アカウント……承認、しました」

 「ひっ」


 入力と同時に突然、気怠げな、むしろ病弱そうな男性の声がして、有子は反射的に悲鳴を上げた。

 勿論、有子はパソコンから声が聞こえたからと言って、「パソコンが喋った」などと言う風に驚くほど、パソコン操作に不慣れなわけではない。ノートパソコンなので大きくはないが、スピーカーが付いていることくらい分かっている。

 だが有子が聞いたこの声は、スピーカーから聞こえたというよりも、頭の中で誰かが直接喋ったように感じたのだ。


 「パスワードの……設定を、行って下さい……」

 「………」


 気のせいであって欲しい。有子はそう思ったが、ディスプレイに映し出された画面のページが切り替わると、再び男の声がした。やはり音源はスピーカーからではない……有子の頭の中だ。一体どうなっているのか。

 有子の中には、高揚感こそ残っているものの、熱は引いていた。怯え混じりに適当なパスワードを入力して、エンターを押す。


 「パスワード入力……承認しました。ログインを、認めます………」


 再びページが切り替わり、【トロイメライ・メルヒェン】のロゴの下に、ゲームスタートのアイコンが現れる。アイコンは他にない。これを押せ、ということだろう。


 「………」


 有子は恐る恐るカーソルを動かし、マウスをクリックする。すると、それに呼応するかのようにしてゲームクライアントが自動的に立ち上がり、ウインドウを新しくディスプレイに表示する。

ウインドウは暗い背景にタイトルロゴ、そして「New Game」の文字。


 「ようこそ、【トロイメライ・メルヒェン】へ………」


 頭に響いた男の声は、尾を引く怠さの中、どこか楽しげだった。

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