01 ネガティブアリスと転んだ兎
子供の頃、もしくは大人になっても、思い描いた人は多いかもしれない。「夢が本当になればいいのに」と。
魔女になって箒で空を飛び、魔法を操る私。
パーティのリーダーとして仲間を率い、魔王を倒す旅に出る勇者の僕。
そんな馬鹿げた、しかし甘く、崇高なる御伽噺。誰もが抱く憧憬の夢。
だが、本当は誰も分かっていないのである。
夢を求めて夢を見るのではない。夢を描いて、現実を踏み固めているのだ。
なれないものに憧れる。できないことに憧れる。
自分ではできない、無理だと分かっているからこそ、人々は夢を見るのである。夢想するのである。
「本当の私はこうなの」と、ありもしない自分を描く。「僕はいつかこうなるんだ」と、続く筈の無い道を追う。
しかし、そうして夢に手を伸ばしていても、所詮は現実の再確認に過ぎない。心から夢を望む者なんて、どこにもいないのである。
その証拠に、夢がその揺り籠から溢れ出た時、人々は口々にこう叫ぶのだ。
「これは夢だ」と。
***
MMORPG【トロイメライ・メルヒェン】。
このゲームがネット上で人々の間に広まるのに、時間はかからなかった。それには、主に3つの理由が挙げられる。
1つ目は、そのクオリティである。【トロイメライ・メルヒェン】は、世界観こそありふれた中世ヨーロッパをベースとするファンタジーのそれだったが、その世界を表現するグラフィックが、恐ろしく秀でていたのである。
否、ただ秀でているとだけ表現するのは的確ではないだろう。秀でているというよりはむしろ別格、次元が違う程のクオリティだった。
草原で風が吹けば雑草の1本1本が自由にそよぎ、花々には朝露が光る。登場する生き物一つとっても、馬の鬣は1頭1頭生え方が違ったし、犬や猫の顔つきだって、1匹ずつまるで違う。動きも、本当にそこで生きているかのような、スムーズで自然な動きを再現していたのだ。勿論、プレイヤーがエディットしたPCのクオリティも然り。これは従来のゲームに使用されていた3D技術を、大幅に上回るものだった。
この場合のグラフィック、つまり見た目とは、あらゆるものに適応される基準だ。例えば人間なら美人であればあるほどモテるし、例えば食品なら、より美味しそうな見た目であればあるほど購入する人間は多い。特に、【トロイメライ・メルヒェン】はゲームだ。ゲームのグラフィックは、ゲームをプレイしている限り、否応無しに視界に入れ続けるものである。ならばそのクオリティが高ければ高いほど、人気が出るのは当たり前だった。
2つ目は、プレイするに当たり、完全に無料であるということだった。これだけのクオリティのゲームが無料であるなど、従来のゲームでは考えられないことだ。広告収入や課金アイテムがあったとしても、開発費に対し、全く割に合わないためである。だが、今回は逆に、そのクオリティこそが無料の理由となったのである。
公式サイトの説明によると、【トロイメライ・メルヒェン】は、未だ開発途中なのだ。つまり、このリリースはテストプレイの意味も持っている。この段階でどれだけの需要を得られるのか。何か致命的なバグは無いか。このβテスト版のゲームで、そういった情報収集を運営側が行う側面を持っているのだ。
それに、もし将来的に課金制になったとしても、続けるだけの価値はあるのか。それをユーザーが見極められるお試し期間という意味でも、テストプレイなのだろう。
そして3つ目。恐らく、これが最大の理由なのだろう。その理由とは、15000人というプレイヤーの人数制限だった。
これは【トロイメライ・メルヒェン】最大の特徴である、「各プレイヤーに独自のアバターが与えられる」という仕様のせいである。
通常、殆どのMMORPGは、ゲームプログラムをパソコンにダウンロードし、それを起動してプレイする。このプログラムは全てのユーザーに同一のものが配布され、用意されている職業などを選択して、その上で自分のキャラクターを作るのだ。
だが、【トロイメライ・メルヒェン】は違う。このゲームプログラム自体が、プレイヤーごとに異なるのである。
勿論、基本的なものは全て同じだ。しかしアバター(本来はコミニュティサイトなどにおける分身などのことを指すが、これは【トロイメライ・メルヒェン】における職業、あるいはクラスを指す言葉として使われている)、これだけは違う。先の通り、「各プレイヤーに独自のアバターが与えられる」のだ(勿論、基本は同じだが、使える魔法が全く違うといったような、比較的些細な差別化を施されただけのアバターもあるが、それでもオリジナルのアバターであることには違いない)。これはグラフィックのクオリティや無料であることと同じく、かなりとんでもない仕様だ。
人間というものは「自分だけのもの」という言葉に弱い。物であっても人であっても、「自分だけのもの」という言葉が付属するだけで、それは本人にとってただ一つの、特別なものに変わるのである。何でも換えが利くこのご時世において、ただ一つ、「唯一」というものは、非常に高い付加価値なのだ。だからこそ、何かにつけて「自分だけの○○を!」という踊り文句が出回っているのである。
だが、【トロイメライ・メルヒェン】は今までのそれとは全く違う。真の意味で「自分だけのもの」を手に入れることができるのだ。更に、その「自分だけのもの」を手に入れられる人数は限られている……これが競争意欲を掻き立てないわけがない。元々、人間というものは「唯一」の子供である「限定」にも弱いのである。コンビニの期間限定の商品など、いい例だ。
「唯一」が「限定」で手に入る。この二つの魔法の言葉が組み合わさったことにより、その魅力は一気に高まったことだろう。
こうしてMMORPG【トロイメライ・メルヒェン】の話は、瞬く間に人々の間に出回った。そのスピードたるや、まるで稲妻の如くだった。
あるいは、流行病の如く、だったのかもしれない。
とにかく、言ってみればたかがゲームのことであるにもかかわらず、公式サイトの開設と共に、その存在は日々テレビで流れる芸能ニュースのように、ネットを中心に現実世界においてまでも人々の間を駆け巡った、という事実が、この場合は重要だったということだ。
何故なら、日常的にパソコンを使いはしてもネットゲームの類に興味が薄い、普通の女子大生である倉橋有子すらも、このニュースばりに注目される【トロイメライ・メルヒェン】の名前を聞き及び、興味を抱くに至ったのだから。
有子は普通だった。強いて挙げるなら、ただ少しだけ人付き合いが苦手で、口下手でネガティブ、臆病なだけ。まさに何の変哲も無い、使い古しどころか、使い捨てされるような設定の、モブ同然のモブ子だった。もし彼女が彼女自分を作るとしたら、その材料に「他人の人生の背景」を選び、それをいくつも継ぎ接ぎして人形を作ることだろう。倉橋有子のモブレベルは、そのくらいのものだ。
しかし、そんな彼女だからこそ、「唯一」への憧れは人一倍強かった。
「唯一」……その言葉は、概念は、彼女にとって月よりも遠いものだったからだ。
それもその筈である。彼女はモブ子ちゃんだ。特別な何かとは、最も縁遠い存在なのである。有子自身が誰かの「唯一」になれるようなことは絶対に無いし、同じように、誰かを「唯一」とするようなことも決して無い。ましてそれらを自分の意思で定めるなど、太陽が東に沈むくらいにあり得ない。
だから有子は、【トロイメライ・メルヒェン】に興味を持った。
何せ【トロイメライ・メルヒェン】は、有子の憧れてやまない「唯一」を体現したようなゲームなのだ。今まで興味の無かったジャンルだが、惹かれない筈は無かった。
「(やってみたいな……)」
有子はディスプレイに映し出された【トロイメライ・メルヒェン】のサンプルムービーを見て、胸中で呟いた。
駆け抜ける馬の蹄が蹴り上げた土塊。
通り雨を運ぶ雨雲の流れ。
戯れる小動物と、囀る小鳥達の姿。
田畑を耕す農夫達の頬を伝う、透明な汗。
露店で客を呼び込む少女の三つ編みは、快活な動きで踊ってみせた。
今、有子は液晶を挟んで【トロイメライ・メルヒェン】を見つめている。その眼差しは、ショーウインドウ越しに玩具を見つめる子供のそれとよく似ていた。
有子は【トロイメライ・メルヒェン】という世界に、自分を「唯一」の存在にしてくれる世界に、平凡な彼女はこの上なく惹かれていたのである。
「――あっ」
食い入るようにディスプレイを見つめていた有子の視線が、不意に曇った。ムービーはいつのまにかその大部分を再生し終え、暗い画面にそのタイトルロゴとリリース予定日、そして例の「15000人限定」という一文を映し出していたのだ。
有子は静かにムービー画面を閉じて、顔全体を暗くして項垂れた。理由は明確だ。
「15000人なんて、当たるわけないよ……」
プレイヤーの人数を制限するということで、【トロイメライ・メルヒェン】のアカウントは、抽選で取得することになっていた。15000は決して少なくない人数だが、【トロイメライ・メルヒェン】のプレイを希望する人間が、それを遥かに上回ったためである。
有子も一応はアカウント取得の応募をしているものの、彼女自身は、全く当たると思っていなかった。というのも、有子は抽選の類に当たったことが一度も無い。小学校のビンゴ大会すら、持ち帰ったのは参加賞のお菓子のみである。
彼女が選ばれる機会なんて、滅多になかったが、せいぜいリレーとかの補欠くらいだった。有子は誰かがそれを放棄、あるいは実行不可能になって、初めて何かをさせてもらえるような、そんな存在だった。
だから有子は、今回も当たるなんて思っていない。何もしないよりはと思って応募はしたが、それでもやはり当選しないことが前提だった。もし万が一、億が一に当たったとしたら、それも補欠だろうと思っている。有子はネガティブだった。
「はぁ……」
有子は溜息を吐いて、傍らに置いてある兎の形をした卓上カレンダーを見る。形のせいで座りが悪く、すぐに倒れてしまうのだが、愛らしい見た目に惹かれて購入した物だ。
兎のお腹の部分に当たる場所には、今月のカレンダーが小さな文字で書きこまれている。その内の15日の部分には、控えめに赤い丸が書かれていた。
15日。三日後に当たるその日は、【トロイメライ・メルヒェン】のアカウント当選発表の日だった。
当たらない当たらないとは思っていても、分かっていても、結局心のどこかでは、「もしかしたら」と夢を見ているものなのだ。人間は矛盾だらけの生き物である。
「…………はぁ」
有子はもう一度溜息を吐く。座りの悪い兎が、コテンと突っ伏した。