01 ネガティブアリスと忠実な白兎
とある街のビル群の中に紛れた、何の変哲も無い三階建てのビルの前に、倉橋有子は立っていた。
「ここ……だよね……?」
携帯電話の画面に表示されたメールには、確かにこのビルの住所が書かれている。が、念のためにというのと、自分に自信が無いというのが合わさって、有子は何度もビルの住所とメールに書かれた住所を比較して確認する作業を繰り返すという、何ともまだるっこしいことを繰り返していた。
それと言うのも、彼女の目的地であるこのビルが、あまりにも奇妙なビルだったせいだ。
「ほ、本当にゲーム会社……?」
看板を掲げているわけでも、企業名をビルの表札に記しているわけでもない。ただのオブジェクトどころか、背景なのだと言われても納得のいくような、本当にただのビル。それが、有子の目的地である「株式会社 ファウスト」の本社ビルだった。
有子がこのビルに来た目的は簡単で、ズバリ、アルバイトであった。
無事に大学受験を終えて見事志望校に合格した有子は、大学進学を機に一人暮らしをする予定であったため、春までにできるだけお金を貯めようと思い、パソコンで求人サイトを見ていた。そこで見つけたアルバイトというのが、新作ゲームのテスターである。
彼女は元々ゲームにそんなに興味のある方ではない。しかし、一万円という破格の時給が支払われるということと、自宅から近いこと。そして何よりネットで調べたところ、ゲームのテスターの業務内容は、あまり他人とのコミュニケーションをとる必要が無い個人での単純作業であるということが決め手だった。自他共に認める内気で人付き合いが下手な有子は上手く人間関係を構築できる自信が無かったため、そこのアルバイトに応募したというわけだった。
更に幸運にも期日までに人が集まらずに定員割れが起きたらしく、有子は面接などでふるい落とされることなく、すんなりと採用されるに至った。それがかれこれ一週間前の話である。
そして今日はアルバイトの説明会であり、そのために有子はメールで本社ビルに呼び出されたわけなのだが、前述の理由によりビルに入ることを躊躇っていた。
「(さすがに時給一万円って怪しいなって思ってはいたけど……何か、怪しいっていうか、おかしい感じが……)」
ゲーム「会社」だというのに看板を掲げていないのは、やはりおかしい。少なくとも、有子は違和感を感じていた。では何か怪しい連中の根城なのかと言えば、そうとも思えない。絵に描いたようにあまりにも普通のビルだからだ。普通過ぎて、警戒する要素が無い――逆に言えば、警戒させないということである。
しかし、悩んでいる時間はあまりない。あと数分で説明会の集合時間なのだ。有子は真面目な方に分類される人間であるため、決して遅刻を良く思っていなかった。
「……とりあえず、行ってみよう」
結局時間が差し迫ってきたと言うこともあり、有子は奇妙な違和感を覚えながらも、恐る恐るビルの中に足を踏み入れる。
ビルは外見だけでなく、内部もいたって普通のビルであった。おかしいくらい、取り立てておかしなところは無い。落ち着き無くきょろきょろと辺りを見回しながら、有子は階段でビルの三階に上り、通路の突き当りにある「説明会会場」と書かれた分かりやすい紙が貼られているドアを開けた。
「失礼します……」
ドアを開けた先は会議室のようだった。そこには有子と同年代の若者をはじめ、少年期や中年期、老年期など、様々な年代の人々が集まっている。アルバイトの募集要項では年齢を制限していなかったが、随分と幅広い年代が集まったものである。中には小中学生くらいの子供が居るが、労働基準法などに引っかからないのだろうか。
有子は数人の視線を感じながら、部屋の隅のパイプ椅子に腰掛けた。それとほぼ同時に別のドアが開き、そこからダンボールを抱えたスーツを着た男性が現れる。男性は近くの机にダンボールを置いてからざっと部屋を見回すと、「全員お揃いのようですね」と頷いた。時間ギリギリだったせいか、どうやら有子が最後だったらしい。
「本日は我が社の新作ゲームのテスターとしてお集まりいただき、ありがとうございます。では、これより皆様の業務内容を説明させていただきます」
アルバイトに対する態度にしては丁寧な口調で男性が頭を下げる。その感じから、一応真っ当なアルバイトなのだろうと有子は判断し、内心胸を撫で下ろしていた。
「まず、皆様にお話しておきますことが一つだけございます。これを聞いた後、テスターを辞退するという方は、その場で申し出て下さい。無理にお引き留めすることはございません」
「(辞退? ゲームのテスターで? ……何か、危ないアルバイトなの?)」
一度落ち着いた不安がまた湧き上がり、有子は服の裾を握る。男性の言葉に不安を覚えた、もしくは疑問を覚えたのは有子だけではなかったらしく、周囲も少々ざわめいていた。
しかし、男性はざわめきを片手で制すると、顔色一つ変える事無く説明を続けた。
「今回我々が開発し、皆様にテスターとしてプレイして頂くゲームは、既存のハードウェアやゲームソフトとは一線を画します。それは、五感全てをゲーム内にダイブさせ、コントローラーなどを介することなく、直接皆様がゲームを操作するのです」
「あのー。もしかしてVRとか、そういうのってことスか?」
「その通りです」
大学生くらいの青年が手を挙げて尋ねると、男性は首肯した。
質問をした青年はその返答に「マ、マジかよ! スッゲー!!」と興奮しているが、有子には理由がいまいち分からなかった。テスターの中には青年と同じように驚いたり喜んでいるような様子の人々も居たが、他の大多数の参加者は有子と同じくそのVRとやらが理解できていない様子だった。
「今そちらの方が仰られたVRというのは、「Virtual Reality」の略です。分かりやすく説明いたしますと、既存のゲーム機のようにコントローラーによる操作を必要とせず、皆様が直接ゲーム世界に入ってゲームができる、そういうシステムとお考え下さって結構です。主にネット上の小説などで使用されることの多い設定ですが、勿論、現実にそんな技術は存在致しませんでした。……我が社が開発する以前には、ですがね」
男性はそう言うと、そのVRシステムというものについて説明を始めた。
VRシステムは脳に直接作用する代物であり、未だ試作品の域を出ない現状では、何かしらの事故が起きる可能性が否めないこと。もしも事故が発生した場合、被害に応じて相応の補償をするということ。
本来はもっと長々しく詳細に説明がなされていたのだが、ざっくりと噛み砕くと、概ねこのようなことである。少なくとも有子はそう理解した。
「VRシステムの危険性は以上です。これ以降はテスターの辞退はできませんが、よろしいでしょうか?」
男性が全員に尋ねるが、辞退を申し出る人間はいなかった。一人、事故の起きる確率について質問をしたが、安全性については今回のテスト前に散々検証したらしく、飛行機が落ちる確率と同じくらい、ほぼ無いとのことだった。しかし、あくまで可能性が無いとは言い切れないため、予め警告したというわけらしい。
有子はそれを聞いて報酬と危険性を天秤にかけたが、飛行機に乗るようなものならと、辞退しなかった。
「では、全員参加でよろしいですね? ありがとうございます。では、皆様にこれをお配りいたします」
男性はダンボールの中に手を入れ、銀色の腕輪を取り出して見せた。
「これが我が社の開発したVRシステムを搭載した新作ゲーム、【トロイメライ・メルヒェン】です」
「(これが、ゲーム?)」
男性が手にした腕輪は、特に装飾も何も無い、細身の腕輪だった。ゲームと言われてもコードが伸びているわけでもなく、ただのアクセサリー以外には、とてもじゃないが見えない。男性はテスターたちの訝しげな視線を受けて、説明を始めた。
「この腕輪は一見ただのアクセサリーですが、我が社が独自開発した特殊な基盤が組み込まれた、精密機械の塊でもあります。強度も通常のアクセサリーと変わりませんが、落としたりぶつけたりいたしますと不具合が発生する可能性がありますので、ずさんな取り扱いは避けて下さい」
有子はゲームや機械類には強くないので詳しいことは分からないが、弟の持っているゲーム機を思い出した限りでは、その腕輪がゲーム機であるとは、やはり信じ難かった。他のテスター達もやはりまだ訝しんでいる。
しかし、男性が有子達を騙すような意味が無いのも確かであった。もし騙すつもりなら、わざわざ危険性を話したり辞退を勧告するわけがない。結局有子は怪訝に思いながらも、配られた腕輪を受け取った。
「皆様、腕輪はお手元に回りましたでしょうか。では腕輪の内側をご覧下さい。模様が彫り込まれているのが分かるかと思いますが、この模様は着用者、つまりプレイヤーの脳に神経を通して電気信号の情報を送り、そして情報を受け取るために重要なものです。絶対に削ったり汚したりはなさらないで下さい」
腕輪の裏側に彫られた模様は、象形文字のような不思議な模様だった。これがどうして電気信号の送受信ができるのか、そして脳に作用する物なのになぜ腕輪の形状なのか、そんな質問がいくつかされたのだが、男性の回答は「そういうものだから」というものだった。守秘義務というやつなのだろうか、と有子は思った。
「【トロイメライ・メルヒェン】は、MMORPGに分類されます。この腕輪は我が社独自のネットワーク環境に接続する機能があり、ゲームをプレイした瞬間、自動的に我が社のサーバーにアクセス致します。充電も必要ありませんので、電気代やネット環境の有無は心配ありません」
「え、ここでやるんじゃないんスか?」
「はい。これを各自お持ち帰りいただいて、ご自宅でゲームをプレイして下さい。ただし、この腕輪は最初にプレイした人間を自動で登録致しますので、他人へ譲渡してもプレイヤーと認証されず、プレイすることはできません。また、腕輪には何重ものセキュリティが施されておりますので、ゲーム自体の情報はもちろん、登録したプレイヤーの情報の漏洩も不可です」
最初にVRかと質問した青年が再び尋ねると、男性はそう答えた。世界初の技術だというのに、情報を盗まれない自信があるらしい。
「ゲームの総プレイ時間を腕輪が記録しておりますので、アルバイト代はそのプレイ時間によって算出します。誤魔化しは利きません。また、詳しくはゲーム内のチュートリアルでご説明いたしますが、ゲーム内でバグを発見いたしましたら、その度にボーナスとして一万五千円を加算いたします。なお、アルバイト代は最終日にもう一度ここへ足をお運びいただき、その場でお支払いいたします。また、報酬としてご使用いただいた腕輪を進呈いたします」
「説明は以上です」と男性が言い、早速腕輪を着けてプレイヤー登録をするように指示が出される。ここで腕輪の認証をさせることで、先の情報漏洩の防止をする意味があるのだろう。有子は促されるままにおずおずと腕輪を嵌め、言われた通りに起動のキーワードを口にした。