01 陽気なハーメルンと磔の聖人
【不思議の国のアリス】専用のスキルコマンドから、召喚獣〈白兎〉を選択し、発動。ユウコの魔力で、彼女の目の前に青い光を放つ、小さな魔法陣が描かれる。後は術者が召喚するものを呼べば、術は完成だ。
「召喚……〈白兎〉」
ユウコがそう呟くと、魔法陣が一際明るく輝き、ぽんっ、という可愛らしい効果音の後、【アリス】の忠実な下僕である〈白兎〉が異世界から召喚された。ユウコはその場にしゃがみ、現れたピーターと目線を合わせる。
「こんにちは主人!ピーターですよぅ!」
「こんにちは」
相変わらず可愛らしい兎がぴょこぴょこと跳ねる様子にちょっと笑みを浮かべて、ユウコは挨拶を返した。
出会ってから一週間も経っていないが、この小さく頼りがいのある兎は、すっかりユウコのお気に入りだった。元々兎は好きだし、何よりピーターは愛嬌がある。マスコットとしてはこの上なく魅力に溢れているのだから、女性であるユウコが好ましく思わないわけも無い。だが今日に限っては、召喚獣本来の働きと、その可愛らしさ以外で、ユウコはその存在を求めていた。
何せ今日は【ハーメルンの笛吹】こと、セネルとの約束があるのだ。ここは帝都ムールシュタットの噴水広場で、時間は13時20分前だ。
「(主人、今日はいつにも増してビクビクしてますね……)」
どういうわけか、PCに過ぎない筈のユウコは、表情を変化させる機能を使うまでも無く、有子の表情や感情を微細に伝達している。そのため、ピーターはユウコに対面してすぐ、彼女の状態を把握した。
フィールドでもない街中でピーターを召喚したのは、それが【トロイメライ・メルヒェン】を始めてからのログイン後の恒例だからということもあるが、今日に限っては違うだろうとピーターは察する。ユウコは相変わらず自分がセネルの誘いを先延ばしにしたことを気にしているので、彼女と二人きりになるのが怖いのだろうと、賢い兎は主人の考えをあっさり看破していた。
ピーターとしてはやはり主人にはしっかりしていて欲しいが、この短い間で、ユウコの性分は悲しいほどに分かっている。反省点や後悔は過剰な程にしているものの、その染みついてしまった性分ではどうしようもないかと、ちょっとだけ残念に思う。とは言え、ピーターはそんな主人のことも慕わしいのだが。
「主人、まだ約束の時間までありますね。どうします?」
「えっと、ここで待とうと思う」
「分かりました!」
ユウコがそう言って噴水の縁に腰かけると、ピーターも懐中時計をチョッキのポケットにしまい、その隣に収まる。
「それにしても主人、強くなりましたよね。2日でレベル1から9ですから、なかなか早いんじゃないですか?」
「そう……なのかな」
「そうですよぅ。最初は何にも知らなかったでしょう? 1から初めてここまで来れたんですから、きっと十分に早いですよぅ」
「そっか……」
ユウコが僅かに照れたように笑う。それから照れ隠しなのか、座っていたピーターを膝に乗せ、ぬいぐるみよろしく抱きすくめた。きっと本当にぬいぐるみなら、衝動買いに近い形で買ってしまうんだろうなとユウコは思った。
その後は特に会話らしいものも無く、ユウコはピーターを時折撫でながら、ボーっと道行く人々を眺めて時間を潰した。折角二人(一人と一羽)なのだから会話をした方が良いのかもしれないし、ピーターもその方が楽しいのかもしれないとは思うものの、ユウコはこうして他のPCや街の住人達を眺めるのが好きだった。
現実世界では、こうしてぼーっと人々を眺めることが難しい。少なくとも、ユウコはそうだった。何もしないでいる時に向けられる視線は責められているように思えたし、その上で他人が忙しなく動き回る様を眺めるのは、酷く悪いことをしている気分になったのである。これはおそらく日本人という過労死率の高い国の国民であるせいで、休憩はおろか何もしていないという状態は、さぼっていると見なされるような風潮があるせいもあるだろう。
だが、ここはゲームの世界【トロイメライ・メルヒェン】だ。MMORPGは、既存の家庭用ゲームのように、これと言ったシナリオが無い場合が多い。つまり、何に付けても自由であるゲームと言える。【トロイメライ・メルヒェン】もその例に漏れず、シナリオらしいものは何も無い。そんな世界でなら、今のユウコのようにぼーっと人々を眺めることを咎めるような人間はいないし、何よりユウコ自身も、そういった類の視線を向けられる心配はしなくてもいいのだ(そうは言っても、ユウコ自身の性格が元々アレなので、完全に心配をしていないわけではなかったのだが)。
「(みんな楽しそう……きっと、毎日が楽しいんだろうな)」
道行く人々、特にNPC達が大体笑みを浮かべているのを見て、ユウコはそう思った。遊んでいる子供達は当然として、広場の露天商達や大通りに構えられる店に出入りする人々、その殆どが笑顔だ。毎日が充実しているというのは、きっとこういう人達のことを言うのだろう。
それに比べて、と、ユウコは自分を振り返った。いつもいつも下ばかり見て、この人達のような顔をして街を歩いたことが、一度としてあっただろうか。いや、無い。彼女にとって周りは怖いものばかりで、恐ろしいものに溢れていて、顔を上げるのすら怖いのである。見ないで欲しい、消えてしまいたいと思ったことは一度や二度ではない。
だけども、
「? どうしました主人?」
【トロイメライ・メルヒェン】では――ユウコは、よく笑っていると、有子は思う。
ユウコは、有子であって有子ではない。アバターという、有子に無い「唯一」のものを持っているし、いつもより周りが怖くない。それに何より、ピーターが居るのだ。
ピーターは主人と言って自分を慕ってくれる。ピーターにとって、自分は唯一の主人だと、誰かの唯一なのだと感じられる。それが例えゲームの中の存在であっても、有子はとても嬉しかった。
「……ううん。何でも、無いよ」
「そうですか?」
「うん」
「ふぅん……あっ、主人、あっちからあの人が来ますよぅ!」
ユウコがまた小さく笑ったのを見て、ピーターは不思議そうに首を傾げて視線を戻すと、こちらに近づいてくるセネルに気付いた。言われてその方向をユウコが見れば、確かに金髪に青い瞳の美しいエルフの女性が近づいて来ている。ただし彼女は一人ではなく、誰かと一緒だった。
はて、一体誰だろうか。ユウコはピーターと揃って首を傾げた。ピーターと一緒だったとはいえ、ユウコは実質今までソロ、一人プレイでしか活動していない。そのため知り合いなど居る筈も無く、セネルの連れが誰なのかというのは、全く予想が付かなかった。
「(も、もしかして、やっぱり私に腹を立ててボコボコにしようとかそういうんじゃ……っ)」
そしてユウコは予想が付かない代わりに、想像を付けた。ある意味当然の流れと言えばそうだが、案の定と言うべきか、ユウコの想像は勿論悪い方向に働き、ほぼ反射的にぎゅうとピーターを抱きかかえて青褪めるという、あからさまに怯えたポーズをとる。
「主人、そんなに怯えなくても大丈夫ですよぅ。僕が守りますから!」
「う、うん……」
ピーターは腕の中で窮屈な思いをしつつも明るいトーンで話しかけるが、ユウコはセネル達から目を離さない。
だがそのセネルはと言えば、やはりユウコが思うようなことなど一切考えておらず、既に自分を待っていたユウコを認め、足早に近づいて来ていた。
「ユウコちゃん2日ぶりー! 兎ちゃんもー! 待った!?」
「こ、こんにちは、セネルさん……」
「僕の名前は兎ちゃんじゃなくてピーターですよぅ」
「いいじゃない、兎ちゃんは兎ちゃんでしょ。それよりユウコちゃん、なかなか可愛い装備になったね! いいなあ!」
「そう……ですか?」
「うんうん! 可愛い!」
ユウコの今の装備は、初期装備の青いエプロンドレスと例のワンド、ケープくらいの丈の白いマント、そして髪飾りの白いレースのリボンだ。ステータスの上昇レベルは初期装備故に高くないものの、デザインはなかなか可愛らしい物だ。また、色合いもユウコのPCに合っている。
ユウコは目線を足元に下げながらも、ちらりとセネルの方の装備を見た。あまり変わり映えしていないが、ブーツとグローブが新調されている。彼女も無駄に2日間を過ごしたわけではないようだ。
「へへー、あたしも装備揃えたの。一応レベル上げとかしたんだ。キツかったけど、まあ何とかなったよ!」
「貴方一人の功績ではない筈ですよ、セネルさん。傲慢は罪です」
「いいじゃんこのくらい、セドリックは細かいよ」
ユウコの視線を察したらしいセネルが自慢げに言うと、彼女の連れが口を挟んできたので、ユウコは反射的にそちらに視線を向ける。
PCは男性、外見年齢はユウコより少し下だろうか。ユウコと同じ人間族で、法衣のような装備をしている。ただ、それ以上にユウコの目を引いたのは、その両手に深々と突き刺さる大きな杭だった。ゲーム故に痛みも無く、血こそ出ていないものの、優に握り拳ほどの太さの釘を、その美少年の涼やかな顔を崩さずに突き刺しているなんて、スプラッタ過ぎる。ユウコは思わず目をそむけ、ピーターにも見せないようにと、少し体の向きを変えた。
「……ああ、驚かせてしまったようですね。すみません。セネルさん、私のことも紹介して下さい」
そんなユウコの様子に気づいたらしい少年が、セネルに自分を紹介するようにとせっつく。確かに、ユウコとしても少年が誰なのか気になる所ではあったので、彼にならってセネルの方に視線を移した。
「あーごめんごめん。ユウコちゃん、この人がセドリック。前に一緒にバウムレーヌの森に行った、【磔刑】のアバターの人だよ」
「初めまして、私は【磔刑】のセドリックです。お話は伺っていますよ。【アリス】のユウコさんですね?」
「は、はい。ユウコです……」
「僕は〈白兎〉のピーターですよぅ」
ユウコはセドリックに頭を下げ、ピーターもそれに倣う。セドリックと名乗った、まるで聖人のような風貌と物言いの美少年PCは、そんな二人に微笑みを向け、十字を切った。
「はい、よろしくお願いします。無垢な仔羊達に、主のご加護を……」
「はあ……」
「僕兎ですよぅ?」
「セドリックさあ、その役止めない? ちょっとキャラウザいって」
「セネルさん、私はただの神の下僕……そんなものではないと、何度も言った筈ですよ」
MMORPGなどでは、自分のPCで一定のキャラクターを演じるプレイヤーが存在する。それを役と言うのだが、どうやらセドリックは「神の下僕」という役を演じているらしい。【磔刑】というアバターからしてもそれはなかなか堂に入ったものではあるし、本人もそれを徹底的に演じているが、セネルからしてみればそのこだわりは「ウザい」の一言で済むもので、ユウコやピーターからしてみれば「変な人」程度の認識しかされないのだが。
しかし、セドリックはそんな二人の反応にもめげることなく、敬虔なクリスチャンのように神へと祈りを捧げると、ユウコに向き直った。
「今回はセネルさんが無理を言ったようで……申し訳ありませんでした」
「あ……そ、その……」
「ちょっとちょっと、それじゃまるであたしがユウコちゃんを無理矢理誘ったみたいじゃん」
「事実、無理矢理ではないのですか? 私達を見つけた時の彼女は怯えていたようですし、とてもこの日を心待ちにしていたとは思えません。貴方のことですから、きっと強引にお誘いしたのでしょう? ユウコさんの決して強気ではない性格からしても、断れなかったと見て間違いないでしょうね」
「……ユウコちゃん、そうなの?」
セドリックの指摘を受けたセネルが、思いもよらなかったというような反応でユウコを窺う。セネルは深くものを考えないお調子者の性格なので、本気でユウコが快く引き受けたと思っていたのだろう。実際はセドリックの言う通り、ユウコがセネルの持つ自然で強引な雰囲気に呑まれ、承諾せざるを得なかったようなものなのだが。
とはいえ、ユウコはここで「その通りです」などと言える筈も無く、そもそもそんなことを言っていいのか、思っていいのかという時点で、非常に困惑していた。セドリックが有子の胸中や状況を察してくれたのはありがたいと言えばそうだが、それでユウコの状況が好転したかと言えば、別にそうでもない。ユウコは戸惑うばかりであった。
「あっ……えっと」
「……失礼、答えにくい質問でしたね。すみません。この件に関して回答を躊躇うことは、神もお許しになるでしょう」
「………」
「えーっと……とりあえず、ごめんね?」
「……はい」
セネルがきちんと事を理解しているのかは不明だが、彼女の謝罪に対し、とりあえずユウコは頭を下げた。