第11話 証拠を並べても、評議会は目を閉じる
朝の鐘が三度鳴るころ、ミレアとレオンは水利局の裏口へ戻った。
南区の広場で見つけた帳簿は、レオンの外套の内側に隠されている。油布に包んだ記録箱は重く、歩くたびに金具が小さく鳴った。その音を聞くたび、ミレアの胸には地下で見た光景が蘇った。
水を奪われた井戸。
消された配水量。
銀貨の袋を前に認証印を押す役人たち。
そして、最後まで真実を書き残したレオンの父。
「評議会は、これを受け取るでしょうか」
ミレアが尋ねると、レオンは歩みを止めずに答えた。
「受け取るだけならな」
「それ以上は?」
「目を開けるかどうかは、別の話だ」
水利局の会議室には、すでに数人の役人が集まっていた。中央には評議会の臨時審査官が座り、その背後には水利局長の代理を名乗る男が立っている。代理とはいっても、衣服も指輪も、局長本人に劣らぬほど豪奢だった。
ミレアは部屋に入った瞬間、空気に混ざる水の記憶を感じ取った。
昨夜、誰かがこの机に帳簿を並べている。
何度も頁をめくり、ある名前を見つけるたびに指を止めていた。
すでに情報は漏れている。
「レオン・アーデル監督官。無断で封鎖水源へ侵入した件について、説明を求めます」
審査官が淡々と言った。
「侵入ではありません。水質異常と不正配水の調査です」
「あなたにその権限はない」
「臨時契約書にあります。王都各区の水路を調査し、危険が認められた場合は封鎖区域にも立ち入ることができる」
レオンは契約書を机へ置いた。
その隣に、南区の水質検査結果を置く。さらに、第二分水路で採取した青い粉の入った小瓶、壁面の配水量を写した写し、そして油布に包まれた帳簿を並べた。
証拠は、机いっぱいになった。
審査官は帳簿を開き、数頁を読んだ。だが、眉一つ動かさない。
「古い記録ですね」
「七年前から現在までの記録です」
「筆跡の鑑定は?」
「まだです。ですが、記録の数字と各区の水路痕跡は一致しています」
「水路痕跡など、あなたの部下の思い込みでしょう」
「部下ではありません」
ミレアは静かに口を挟んだ。
「私は水路記録士です。流れに残った過去を読み取れます。壁面の数字が実際の流れと一致していることは、私自身が確認しました」
会議室の端で、誰かが小さく笑った。
「水に記憶があるとでも?」
「あります」
ミレアは笑った役人を見た。
「あなたが今朝、東門の水盤で手を洗ったことも。指輪を外して、右手だけを三度すすいだことも。水は、見たものをすべて忘れるわけではありません」
男の顔から笑みが消えた。
審査官は帳簿を閉じた。
「珍しい技能であることは認めます。しかし、魔法による証言は公的証拠として採用できません」
「ならば、壁の数字と帳簿を照合してください」
レオンが言った。
「帳簿にない配水管が、現に中央区へ続いている。南区の水量が減り、貴族街の水量が増えている。その事実を説明していただきたい」
代理の男が一歩前へ出た。
「古い配水管は、災害時の予備設備です。記録にないのは、使用されていないからでしょう」
「昨夜、その管には新しい術式灯が設置されていた」
「あなたが壊したのでは?」
声に、初めて鋭さが混じった。
レオンの手がわずかに動いた。怒りを抑えているのだと、ミレアには分かった。
「青い粉末も予備設備のためのものだと?」
「調査が終わっていない以上、断定はできません」
「断定を避けているのは、あなたの方です」
レオンは机の上の帳簿を指で押さえた。
「ここには、ヴァレリオ家の印、水利局の認証印、財務院の印章官の署名がある。三つの部署が同じ不正に関わった証拠だ」
その名が出た途端、室内の空気が変わった。
ヴァレリオ家。
ミレアの元婚約者の家だった。
代理の男が、彼女へ目を向ける。
「なるほど。婚約を破棄された娘が、相手の家を陥れるために監督官を利用したという筋書きですか」
胸の奥が冷たくなった。
かつて婚約者の家で浴びせられた言葉が、別の声で蘇る。
役立たず。
家の名に泥を塗る娘。
魔法など、帳簿の役には立たない。
だが、ミレアは俯かなかった。
「私の婚約が破棄されたことと、この記録の真偽は別です」
「しかし、あなたには動機がある」
「動機があれば、数字が変わるのですか」
沈黙が落ちた。
ミレアは帳簿を一冊、審査官の前へ押し出した。
「ここに、南区へ送られた水量が記されています。帳簿上は毎月同じ量ですが、壁の記録では七年前から少しずつ減っている。実際に南区の井戸が枯れ始めた時期とも一致します」
審査官は頁を見た。だが、すぐに視線を逸らした。
「正式な鑑定を待ちます」
「どこで?」
レオンが問う。
「水利局の鑑定室です」
「局長の部下が鑑定するのか」
「規定に従うだけです」
代理の男が、口元だけで笑った。
レオンはしばらく相手を見つめた。それから帳簿を引き寄せ、外套の内側へ戻した。
「証拠を預けるつもりはない」
「提出を拒むのですか」
「改竄される可能性がある」
「侮辱ですな」
「父の記録を消した者たちを、私は知っている」
その一言に、審査官の指が止まった。
レオンの父の死は、表向きには水路事故だった。だが、地下の帳簿には、火事の前に誰かが記録箱を探していた痕跡が残っている。事故ではなく、口封じだった可能性は高い。
それでも審査官は顔を上げなかった。
「現段階では、封鎖水源への無断侵入と、機密記録の持ち出しについて、監督官を謹慎処分とします。ミレア・セレネについては、臨時契約の再審査を行う」
「水路はどうする」
「安全確認が済むまで、現状を維持します」
「つまり、南区への配水不足も放置するのか」
「混乱を招く発表は控えるべきです」
証拠を並べても、誰もそれを見ようとはしなかった。
ミレアは机の上に残った青い粉の小瓶を見つめた。光を受けた粉が、底でかすかに渦を巻いている。
目を閉じているのは、彼らの方だ。
だが、閉じた目の前に証拠を置き続けるだけでは、何も変わらない。
会議室を出た廊下で、レオンが低く言った。
「すまない。君まで巻き込んだ」
「巻き込まれたのではありません」
ミレアは彼を見上げた。
「私は、自分でここまで来ました」
「評議会は敵だ」
「なら、別の場所で目を開かせます」
レオンは黙っていた。やがて、わずかに口元を緩める。
「どこへ行く」
ミレアは水利局の窓から、王都の中央塔を見た。評議会が閉じこもる塔。そのさらに上には、古都全体へ鐘の音を届ける大鐘がある。
「市民記録院です」
「記録を公開するつもりか」
「評議会が隠すなら、隠せない形にします」
そのとき、遠くで水門の警告鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
南区の水路で、また異常が起きたのだ。
ミレアは窓辺へ手を置いた。遠い地下から、濁った流れの記憶が届く。
誰かが、証拠を消すために水を動かしている。
レオンも同じ音を聞いた。
「行くぞ」
「ええ」
二人は階段を駆け下りた。
評議会が目を閉じるなら、古都の水そのものに語らせればいい。




