第1話 役立たずの婚約者に、地下水路の依頼が届く
ミレア・アルヴェンが「役立たず」と呼ばれたのは、雨の降らない春の朝だった。
古都エルセリアの役所、その記録保管室。窓の外では、石畳を行き交う荷車の音が絶え間なく響いている。ミレアは机に広げた古い水路図から顔を上げ、向かいに立つ男を見た。
婚約者のカイルは、仕立てのよい灰色の上着を着ていた。胸元には商会長の息子であることを示す銀の徽章が光っている。彼の隣には、ミレアの父が仕える水路管理局の上役と、カイルの母親までいた。
「本日をもって、アルヴェン家との婚約は解消する」
カイルは、まるで帳簿の数字を読み上げるように言った。
「理由は?」
ミレアが尋ねると、彼はわずかに眉をひそめた。
「理由なら、君自身が一番よくわかっているだろう。役所の古文書をめくって、汚れた地下水路を歩き回る。社交もできず、家事も商売も知らない。婚約者として何の役にも立たない」
「私は、あなたの家に嫁いで商売をするために、記録を調べているわけではありません」
「同じことだ。君の父上も下級役人、君もその手伝い。そんな家の娘を迎えたところで、我が家に得はない」
言葉は冷たかったが、驚きはなかった。
三年前から、カイルはミレアの仕事を軽んじていた。彼女が水路の記録を読み、詰まりや崩落の兆候を見つけるたび、そんなものは男の仕事だと笑った。ミレアが古い石樋に触れて、そこを流れた水の記憶を読み取れることも、気味の悪い癖だと言いふらしていた。
それでも彼女は、婚約が続く限り我慢するつもりだった。父の立場を悪くしたくなかったし、いつか自分の価値を理解してもらえると思っていた。
けれど、理解されるのを待つ必要などなかったのだ。
「承知しました」
ミレアは机の上の羽根ペンを置いた。
カイルが拍子抜けしたように目を瞬く。もっと泣き、縋り、怒ると思っていたのだろう。
「ずいぶんあっさりしているな」
「あなたがそう望んだのでしょう」
「後悔しても遅いぞ。今後、私の家と関わることは許さない。君が扱っていた水路図も、こちらで引き取る」
「それは役所の記録です。個人の所有物ではありません」
ミレアが静かに返すと、上役の男が咳払いをした。
「まあまあ、ミレア君。婚約がなくなった以上、君が商会に出入りする理由もない。余計な揉め事は起こさないことだ」
余計な揉め事。
その言葉を聞いた瞬間、ミレアの胸の奥で何かが切れた。いつもそうだった。水路の異常を訴えても、記録と現場の食い違いを指摘しても、面倒を避けるために黙らされる。
彼らにとって、水が濁ることより、帳簿の見た目が濁らないことのほうが大切なのだ。
「では、婚約解消の書類をください。私の署名が必要でしょう」
ミレアは書類を受け取り、迷いなく名を書いた。
カイルたちが部屋を出ていく。最後まで、誰も彼女を振り返らなかった。
静かになった保管室で、ミレアは深く息を吐いた。
窓辺には、父が使っていた古い水路標本が置かれている。丸みを帯びた石の表面には、地下水の流れが細い銀色の線となって刻まれていた。
ミレアが指先で触れる。
瞬間、冷たい感触が指から腕へ駆け上がった。
暗い水路。濁った水。壁に残る新しい削り跡。そして、誰かの声。
――記録を変えろ。東区へ流れたことにするんだ。
映像は一瞬で消えた。
ミレアは息を呑み、石から手を離した。今の感覚は、数日前から何度も現れている。地下水路の一部で、過去の流れと現在の記録が合わない。だが、正式に調査を申し出ても取り合ってもらえなかった。
そのとき、保管室の扉が開いた。
「ミレア・アルヴェンだな」
入ってきたのは、黒い外套を着た長身の男だった。濡れたように黒い髪、鋭い灰色の目。役所の人間にしては身なりが簡素で、腰には水利監督官の短杖を差している。
「王都水利局のレオン・ヴァルハルト監督官だ」
「私に何か?」
「地下水路の調査を頼みたい」
ミレアは思わず笑いそうになった。
「婚約を破棄された直後に、ですか」
「婚約の件は聞いていない。聞くつもりもない」
無愛想な返答だった。
「なら、なぜ私に?」
「君が三日前に提出した報告書を読んだ。旧西水路の流量が、記録より一割七分多い。しかも水質検査の数値が不自然に揃いすぎている、と」
「その報告書は却下されました」
「だから私が来た」
レオンは一枚の封書を取り出し、机の上へ置いた。王都水利局の封蝋が押されている。
「地下水路で、原因不明の濁りが発生している。住民には伏せているが、すでに三つの井戸が使えなくなった。君の読みが正しいなら、これは自然な汚染ではない」
「私の読み?」
「水路に触れると、過去の流れが見えるそうだな」
ミレアの指が止まった。
「誰から聞いたのです」
「君の父親からだ。彼は先月、調査中の崩落事故で亡くなった。事故報告には、単なる足場の破損とある」
父の死。濁った水。改竄された記録。
ばらばらだったものが、ひとつの線でつながりかけていた。
「依頼の内容は?」
「旧西水路を調べ、濁りの発生源と、記録との食い違いを確認する。期間は十日。報酬は役所の臨時監査員と同額。調査結果は、私と君の連名で提出する」
「連名にする理由は?」
「君を下請けにするつもりはないからだ」
初めて、レオンの目がまっすぐミレアを捉えた。
「それに、私一人では過去の水路を読めない。君一人では、地下へ入る許可も安全を確保する手段もない。互いに必要だ」
選ばれたわけではない。哀れまれたわけでもない。
必要だから、頼まれている。
その事実が、胸の奥に小さな火を灯した。
「引き受けます」
ミレアは封書を手に取った。
「ただし、条件があります」
「言ってみろ」
「調査中に見つけた記録を、誰の都合でも書き換えないこと。私の報告を、役立たずの娘の戯言として処理しないこと」
レオンは少しだけ目を細めた。
「約束する。君も、見たものを隠さないなら」
「隠しません」
「では、明朝六時。旧西水路の入口で待つ」
彼はそれだけ言い、踵を返した。
扉が閉じたあと、ミレアは封蝋を見つめた。
婚約を失った朝に、地下水路への依頼が届いた。
ならば、失ったものを数えるより、これから掴むものを見に行こう。
古都の地下で、誰かが隠した水の記憶が、彼女を待っている。




