第01話 最後の文化祭
――土曜日。
幼なじみの奏音に告白され、俺たちは付き合うことになった。
――日曜日。
初めて恋人としてデートをした。
――月曜日。
奏音は、付き合い始めたことを覚えていなかった。
*
奏音は週明けに、記憶を失う。
幸せだった記憶。
不幸だった記憶。
不幸な記憶が消えた分だけ、幸せな記憶は彼女の中に残る。
そんな天秤が、彼女の中で揺れていた。
だから俺たちは、彼女の幸せを守るために……
彼女を傷つける。
*
教室の窓際に、まだ絵の具の匂いが残っていた。
机を後ろへ寄せたせいで床には細かい紙くずが散っていて、黒板には文化祭まであと三日、と誰かが丸い字で書いている。
放課後の教室はいつもより少し騒がしかった。看板に色を塗る班、当日のシフト表を書き直す班、買い出しの相談をする班。
その真ん中で、奏音は段ボールの切れ端を膝に乗せ、赤い絵の具のついた筆を振りながら笑っていた。
「彰、こっち見て。これ、どうだろ?」
呼ばれて顔を上げると、奏音が看板の下書きを持ち上げていた。
喫茶店の名前の周りに、やけに丸い猫が何匹も描かれている。
「猫、多くないか」
「そこがかわいいんでしょ。ね、茜」
隣で紙皿を並べていた茜が、手を止めて看板を覗き込む。茜は一瞬だけ俺を見てから、いつもの調子で笑った。
「いいんじゃない? 奏音らしいし、ちょっと一匹だけ犬に見えるけど」
「え、どれ?これ?これは猫だよ。失礼だなあ」
奏音は頬を膨らませて、筆の先で猫の耳を足した。白いブラウスの袖口に、赤い絵の具が薄く伸びている。それに気づかないまま、奏音は黒板の文字を見上げた。
「あと三日か。なんか、もう終わっちゃうみたいで寂しいね」
誰かが笑いながら、まだ始まってもないよ、と言った。
奏音もつられて笑ったが、その声は少しだけ恥ずかしそうだった。
「でも、高校最後の文化祭だし。ちゃんと覚えておきたいじゃん。準備してるところも、本番も、終わったあとも全部」
筆を持つ奏音の手が、空中で小さく円を描いた。その仕草があまりに軽くて、教室の空気と同じ明るさをしていて、俺は返事が少し遅れた。
「……そうだな」
「彰は覚えてたくないの?」
奏音が俺の机に近づき、看板を胸の前で抱えた。何も疑っていない顔だった。
ただ文化祭を楽しみにしているだけの顔だった。
「ちゃんと写真撮ってね。去年みたいに変なタイミングで撮るのは禁止」
「去年のはお前が動いたんだろ」
「違うし。彰が下手だっただけだし」
奏音は笑いながら、俺の机の端に肘を置いた。その拍子に、机の上のプリントが少しずれる。俺はそれを指で戻してから、視線を廊下へ逃がした。
廊下では、別のクラスの生徒が脚立を運んでいた。金属の足が床に当たる音が、乾いた音を立てて遠ざかっていく。
「ねえ、今日も残れる?」
奏音は当然のようにそう言った。
「看板、進めておきたいんだよね。彰、字まっすぐ書くの得意だし」
「ああ、今日は無理」
自分でも少し早いと思うくらい、返事が先に出た。奏音の笑顔が止まる。
「え、用事?」
「別に。帰るだけだけど」
教室の端で、茜が紙皿を持ったままこっちを見ていた。奏音は筆を持ち替えて、困ったように笑う。
「そっか。でも、ちょっとだけでも駄目?ここの文字だけでもさ、彰がやった方がきれいだし」
俺は鞄に教科書を入れた。ファスナーの金具がやけに大きな音を立てる。
「俺がいないと何もできないわけじゃないだろ」
言ってから、教室の音が一段遠くなった気がした。奏音は何か言いかけて、口を閉じる。
筆の先から赤い絵の具が一滴落ち、段ボールの端に小さな染みを作った。
「あ……うん。そうだよね。ごめん」
明るく戻そうとした声だった。けれど、戻りきらなかった。
茜が立ち上がる。椅子の足が床を擦って、短く鳴った。
「彰、今のは言いすぎ」
奏音が慌てて首を振る。
「いいよ、茜。私が頼りすぎただけだし、彰も疲れてるんでしょ」
「疲れてても言い方ってもんがあるでしょ」
茜の声は俺に向いていたが、俺だけに向いているわけではなかった。それが分かるから、余計にきつい。
俺は鞄を肩にかけた。奏音は看板を抱えたまま、少しだけ下を向いている。袖口の赤い汚れが、さっきより目立って見えた。
「悪い、帰る」
それだけ言って、俺は教室を出た。
廊下に出ると、文化祭の準備の音があちこちから聞こえた。
ガムテープを引き出す音、誰かが笑う声、段ボールを運ぶ足音。いつもの学校が、少しずつ文化祭の形に変わっていく。
階段の踊り場まで来たところで、後ろから足音が追ってきた。振り返らなくても茜だと分かった。
奏音と茜と俺の三人はいわゆる幼なじみだった。
親同士が友人ということもあり、生まれた頃から一緒にいて、その関係が高校になっても続いていた。
「待って」
茜は少し息を切らしていた。手には、さっきまで使っていた紙皿が一枚だけ残っている。慌てて出てきたせいか、持ったままだったみたいだ。
「どうした?」
「どうした、じゃないでしょ。あれじゃ軽すぎるよ」
「分かってる」
「分かってるなら、もう少し違う言い方できたでしょ」
茜は紙皿の端を指で曲げた。白い皿に小さな折り目がつく。
「奏音、すごく楽しみにしてるんだよ。最後だからって、昨日からずっとシフト表見直して、飾りも家で作ってきて」
「知ってる」
「じゃあ、なんで」
言いかけた茜は、そこで言葉を止めた。廊下の向こうを、後輩らしい女子生徒が二人通り過ぎていく。
二人が階段を降りて見えなくなるまで、茜は口を開かなかった。
「わるい……周りの目もあってあれ以上は難しかった」
「それは分かるけど……」
小さな声だった。俺は階段の手すりを握った。冷たい金属の感触が手のひらに残る。
「昨日も一昨日も少しずつ積み重ねてる。
足りてないのはわかってるけど、いまは少しでも積み重ねるしかないだろ」
「分かってるけど……」
「もっと、なにかしないと……」
茜は何も返さなかった。紙皿の折り目を、今度は戻そうとしている。けれど一度ついた跡は消えなかった。
「奏音が今日のこと覚えてたらどうしよう……」
その言葉に、息が詰まった。茜も俺も、その可能性を口にするのが嫌いだった。嫌いでも、言わないわけにはいかなかった。
「その時は……」
続きは出てこなかった。月曜日の朝、奏音が今日の言葉を覚えたまま教室に入ってくるところを想像する。
俺を見て笑えない奏音。それでも文化祭のことだけは覚えていてほしいと願ってしまう自分。
茜は紙皿を胸元に引き寄せた。
「彰にだけ文句言うのずるいよね」
「別に、それはお互い様だろ」
「ずるいよ。いつも彰ばっかりに辛い思いさせてる。さっきだって、私も帰るって言えばよかったのに」
茜の声は責めるよりも、疲れていた。俺は階段の下を見た。夕方の光が窓から入って、床に四角く落ちている。
「もういいから早く戻れよ。奏音が待ってるぞ」
「彰は?」
「帰る」
茜は一度だけ俺を睨んだ。けれどすぐに視線を落とす。
「あとで連絡する」
「分かった」
茜は教室の方へ戻っていった。その背中を見送ってから、俺は階段を降りずに、少しだけ踊り場に残った。
俺と茜は、ずっとこうしてきた。
遠足の帰り道で、わざと喧嘩をした。
修学旅行の夜は、帰ってから何日も口をきかなかった。
海に行った日は、わざと電車を乗り過ごした。
それでも残らない日もあった。
小学校の頃から、俺たちは失敗を繰り返しながら、奏音の幸せを残す方法を探してきた。
今日のように言い合いになっても、俺と茜は共犯者だった。
しばらくして教室の方から、奏音の声が聞こえた。内容までは聞こえない。ただ、笑っているのは分かった。
俺は廊下を少し戻り、教室の扉が見える位置で止まった。中を覗くと、奏音はさっきの看板を机に広げ、茜と並んで文字の位置を確認していた。
「ここ、もう少し右?」
「うん。あと、その猫はやっぱり犬じゃない?」
「違うってば。猫だってば」
奏音はさっきよりも自然に笑っていた。茜が何か言うと、奏音は肩を揺らして笑い、筆で猫のひげを足した。赤い絵の具の染みはまだ段ボールの端に残っている。
けれど奏音は、それを気にしていなかった。
よかった、と思った。
その瞬間、自分が心底嫌になった。
傷つけた相手が笑っているのを見て、安心した。まだ足りないかもしれないと考えながら、笑っているなら大丈夫だと勝手に思った。
奏音が明るければ明るいほど怖いのに、その明るさに救われた気になった。
俺は扉から離れた。今度こそ階段を降りる。
校門を出る頃には、空が少し赤くなっていた。グラウンドの向こうで、文化祭のステージに使う板を運んでいる生徒たちが見えた。誰かが大声で指示を出し、別の誰かが笑いながら返事をしている。
スマホが震えた。画面を見ると、茜からだった。
『奏音、普通に作業してる』
『多分、全然足りないと思う』
しばらく見つめてから、俺は短く返した。
『分かってる』
送信してすぐ、もう一件届いた。
『文化祭、本番が怖いよ』
文字だけなのに、茜の泣き声が聞こえる気がした。本番。奏音がずっと楽しみにしている二日間。
写真を撮って、笑って、最後の文化祭だと何度も言うであろう二日間。
俺は返信欄に指を置いたまま、しばらく何も打てなかった。
校舎の窓からまだ明かりが漏れている。そのどこかに奏音がいて、猫だか犬だか分からない看板に色を塗っている。
きっと明日も、明後日も、楽しそうに文化祭の話をする。
ちゃんと覚えておきたい。
奏音の声が、頭の中に残っていた。
俺はスマホを握り直し、返信を打たずに画面を消した。
文化祭まで、あと三日。
その三日が、ひどく短く思えた。
*
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この作品は全6話で完結する短編です。
短い物語ですが、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
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