依頼20:製剤会社内情調査 3/3
ロターク本社を訪れた日の深夜、諸々の準備を済ませたリーピとケイリーは輸送車両の荷台に載せられ、製剤会社へと向かっていた。
夜を徹しての移動。荷台にて聞こえるのは、菌糸動力の軋み、クランクの回る音ばかりである。当然ながら窓も照明もない荷台内部は、真っ暗闇に占められている。
既に全身を作業用自動人形の身体パーツに換装し、全く同じ姿をした作業用人形たちと共に直立状態でラックに固定された状態のリーピとケイリーは、そのまま黙ってじっとしていれば別個体と見分けがつかない。
しかし常日頃から人間の模倣に努めてきたリーピは、空白の時間を会話で埋めずにいられなかったのだろう、傍らのケイリーに話しかけた。
「そういえば、僕がこうやって輸送されるのは初めてのことです。自ら向かう先を視ず、送られた先での扱いを人間に委ねるというのは、まさに自動人形らしい在り様なのですね。」
「私にとっては、初めてのことではない。ロターク本社にて製造され、品質チェックを受けた後、今と同様に輸送されて発注先に送られた。リーピは、違うのか?」
「はい。僕の場合は、雇い主様が直々に本社まで訪れ、その場で僕の性能の詳細確認を行われましたので。オーナーの身近に置かれる愛玩用自動人形として、注文と異なる仕様があれば早急に調整し直す必要があったのです。」
いずれも愛玩用自動人形として製造された、リーピとケイリー。
かつて共に同じ屋敷にて働いていた両名であったが、発注時の用途はそれぞれ異なっていた。
ケイリーに与えられた役目は、要人護衛の任を兼ねてのものだった。本格的な警護のためなら重装甲と高出力に特化した警備用自動人形が存在するものの、日常生活や来客のいる場にて設置するには物々しすぎる。護衛に十分な膂力と耐久力を有しつつ、ついでに外見も整っていることが求められて製造されたのがケイリーだった。
人間を採用する場合は容姿を条件に入れることなど憚られるものの、自動人形の場合は遠慮なしに外見を指定された。
一方で、リーピはと言えば、まさに愛玩用そのものの役割をもって製造されていた。見目麗しい少年の姿で書斎に置かれ、話し相手に相応しい教養と学習能力を有し、時には事務仕事の手伝いも可能とする性能である。
本来の雇い主から暇を出されて独立した後、ケイリーを誘って探命事務所を始めたリーピの思考回路は、この本来の製造目的が基盤となっているのだろう。
当時から要不要にかかわらず思考を続ける傾向は今も健在だ。リーピは喋り続ける。
「僕に設定された性能は、活かされる場が他に多くあるべきなのかもしれません。しかし今、こうして他の個体と全く同じ外見の身体パーツを装着して搬送されている状況に、安定感を見出すのも事実です。」
「人間の感情で言うところの、安堵というものだろうか。たしかに今、私も、思考領域に相当な余白を認識している。本来の自動人形相応の扱いを受けているため、か?」
「人間の指示に従うこと、いわば道具として機能することのみを求められるため、かもしれません。結果がどうあれ、そこで働いた意思は人間のものであり、僕ら自動人形が結果について責を問われることはないのですから。」
自動人形の身でありながら、人間を模倣して行動を続けるリーピとケイリーは、今あらためて人形と人間の差を知覚していた。
道具は失敗をしない。求められた性能を発揮していれば良いのだし、仮に本来想定される性能を満たしていなかったとしても、それは製造者の責である。道具に意思や主観はなく、故に不要と判断されれば主張の余地なく廃棄される。
所有者が手放した後の自動人形があえて存在を続ける目的が、人間の模倣に収束していくのは必然であったのかもしれない。永遠に模倣の域を脱し得ないとしても、自動人形の身では解き明かすべくもない難題に向き合い続けることこそが、自我を維持する理由となるのだ。
沈黙すれば、相変わらず真っ暗な荷台の中、菌糸動力車のクランク音だけが響くばかりである。
リーピはふと思いついたように尋ねた。
「そういえば、僕とケイリーは同日にお屋敷を追い出されたのでしたよね。あの時は、独立して事務所を開く段取りだけで手いっぱいでしたが……何故追い出されたのか、今までケイリーにお聞きしたことがありませんでした。」
「言われてみれば確かに、その話をしたことはなかったな。といっても、大した理由でもないんだが。簡単に言えば、雇い主の趣味が変わったんだ。私の後任は、私よりも高身長に作られた女性型自動人形だったからな。リーピは、どうなんだ?」
小柄なリーピと比べれば上背はあったものの、確かにケイリーは護衛用に作られた自動人形の中では身長の控えめな部類であった。
十分な出力を有したまま人形の構造を小型化可能とした技術革新の賜物でもあったのだが、何にせよ雇い主の趣味に合わなくなったとなれば活かされるメリットではない。
問われる側となったリーピは、久方ぶりに引っ張り出す記憶領域を探りながら答えた。
「僕は……これもさほど意外ではないかもしれませんが、少々喋り好きすぎたのかもしれません。追い出される数週間前から、雇い主様のお考えを婉曲な表現なしに言い当ててしまっては、気分を害されることを繰り返していましたから。」
「なるほど。容易に想像のつく場面だ。」
「もしかすると、僕のような容姿の自動人形が立場を弁えぬ言動を取ってしまったことで、雇い主様は小柄で幼げな外見を嫌うようになってしまったのかもしれません。だとすれば、ケイリーがより大柄な後任の人形に交代させられる遠因を作ってしまった可能性があります、申し訳ございません。」
「構わない、もとよりどう扱われるか自分の意思では決められないのが自動人形なんだ。それに、現状のような経験は、リーピと共に探命事務所をやっていなければ得られない、無二の時間だろうからな。」
ケイリーの発言を受けて、リーピは少し顔を俯けた。
それが人間の感情を模倣した振る舞いであるとするならば、申し訳なさと照れくささが混じった振る舞いのようでもあった。
とはいえ、表情は示されない。今はリーピもケイリーも、作業用自動人形として無機質な視覚受容器の穴が開いただけの、つるりとした曲面で覆われた顔面パーツを装着しているのだから。
リーピとケイリーが喋っている間も、全く同じ姿をした他の作業用自動人形たちは一切反応を示さなかった。当然、ここまでの会話は作業指示として受け取れる内容ではなかったためだ。人間が日常会話で用いる表現は、往々にして概念を対象とした曖昧な内容となる。
彼らに明確な指示を出せる人間として、専用の作業人形取り扱い技師が必要とされる所以でもあった。
―――――
目的地である製剤会社に到着し、荷台のシャッターが引き開けられたのは翌早朝のことである。
夜通し走ってきた菌糸動力車の内部へ運転手が養分液をじょぼじょぼと注ぎ入れている傍ら、商品搬送の責任者である配送スタッフが受け取り先の人間と話をしている。
作業用自動人形の姿で荷台内部の荷物用ラックに固定されたままのリーピ達には外の様子は充分に見えなかったが、彼らの会話内容だけは聞こえてきていた。
「こちらに商品お受け取りのサインを願います。……えーと、作業人形取り扱いの免許をお持ちの方は?」
「ん?そんなのが必要だとは、発注後に送られてきた仕様書に記載されていなかったが?まさか、取り扱い免許がなければ商品を渡せない、などと言うんじゃないだろうな。」
「いやまぁ、一応の確認だけです。あっ、どうも、サインいただきありがとうございます……商品はどちらまで搬入いたしましょうか。」
「ここでいい。」
「え?いや、しかし、発注いただいたのは、あくまで屋内作業用の自動人形ですので、直接建物内へと搬入する予定だったのですが。」
「もういっぺん言うぞ、この門の前に商品を置いていけ。敷地内まで運搬車両を入れられては邪魔なんだ。自動人形どもは、自分たちの脚で歩いて移動できるんだろ?」
「えぇ、そうですけど……わかり、ました。」
高圧的な物言いの客に応対し、閉口した様子の配送スタッフは渋々と言った様子で首を横に振りながら荷台へと上がってくる。
荷物用ラックから自動人形たちの固定具を一体一体外しつつ、彼は車外に聞こえない程度の小声を発した。
「リーピと、ケイリー、だったか?どこにいる。」
「こちらです。僕の右隣が、ケイリーです。」
「作業終了後の回収は、前もっての時刻通りに行う。それまで、こいつらの面倒を頼むぞ。客は、明らかに素人だ。」
配送スタッフからの頼みに、リーピとケイリーは頷いた後、促されるままに荷台から降りた。
荷台から降りる際の足取りが、明らかに他の作業用自動人形よりも滑らかな挙動となってしまったが……そんな差異にも気づかれないだろうことは、製剤会社の正門で待ち構えている顧客の出で立ちで分かった。
作業服ではなく、黒いスーツ姿。履いているのも安全靴ではなく、むやみとピカピカに磨き上げられた革靴だ。頭も整髪剤を塗りたくったようで、前髪を立ち上げて残りを後頭部へ流すように撫でつけている。
胸元の秘書徽章を見る限り彼は、市長の命令を受けて渋々ながら早朝から荷物の受け取りに駆り出された秘書のひとりなのだろう。
いかにも神経質そうな、しかめっ面のこの男が、自分の言いなりにならない存在を相手取ればますます機嫌を損ねるだろうことは、想像に難くなかった。
リーピとケイリーに続き、本物の作業用自動人形たちも輸送車両の荷台から降り、ずらりと整列する。全く同じ身体パーツを装備した個体は、目の前の男には全く見分けがつかないだろう。彼はただ面倒そうに、商品が降りてくるのを待っているのみであった。
荷物を下ろし、養分液の補充も済ませた輸送車両が去っていった後、男はようやく口を開いた。
「来い。」
あくび交じりで、いかにも億劫そうに告げ、こちらに背を向けてスタスタと敷地内へ入っていく。
が、どの作業用自動人形も、動こうとはしない。
当然ながら、移動するのであれば目標地点や移動開始タイミング、さらに移動速度が指定されるべきであるところ、いずれも不明瞭であったため、今の発言は命令であると受け取られなかったのだ。
自分の後を足音がついて来ていないことで気付いたのか、全く身動きしていない人形の群れを振り返り、黒スーツの男はイライラしたように喋る。
「来いって言ってるだろ、命令が聞こえてないのか。」
人間の感情表出も、作業用自動人形たちは受け取れない。声色にトゲが含まれたとしても、一切反応に変化は無く、正常に実行できる命令を待ち続けるだけである。
まさに自動人形取り扱い技師の存在が必要であることを如実に示す状況であった。
一般客であれば、困り果てて製造元に助けを求めるはずのところであろうが……政治家相手となればただ機嫌を損ね、不興を買うばかりの結果に終わるだろう。わざわざ新品を注文したのに送りつけられたのが不良品だった、などと騒ぎ立てられてはロターク本社にも迷惑が掛かる。
愛玩用として製造され、人間の意図を汲み取る思考回路を搭載しているリーピやケイリーが確かに必要とされる場面だった。
今は見た目が他の作業用自動人形と変わらぬ状態ながら、実際は他個体とは比べ物にならない知能を有しているリーピが、無機質に加工された声を発する。
「申し訳ございません。これより命令を実行いたします。速度5前進、目標識別自己番号-1、距離3未満だった場合速度1、即時実行。」
言い終えてから、リーピは先頭に立って歩き始めた。
今の命令内容は、全員が一列に並んで前の個体を追従し移動せよというものだ。今回の任務で設定された識別番号の最も小さいリーピが先頭になれば、全員を統率可能である。
自分よりも識別番号がひとつ小さい個体を目標として歩行していれば自然と一列になり、狭い入り口や通路でも通り抜けられる。前方の個体との距離が一定以下となれば減速することも指定してある。
これでも人間が理解しやすい形でまとめられた命令形態であるのだが、最適な命令内容を瞬間的に組み上げることは人形扱いの不慣れな人間には難しい。
ようやく歩き出した自動人形たちが、なぜ先ほどの「来い」という一言で反応しなかったのか、黒スーツの男には理解できなかったのだろう。彼は小さく舌打ちして、ふたたびずかずかと敷地内へ入っていった。
―――――
実質的にはリーピが引き連れる形で、作業用自動人形たちが到着したのは生産ラインではなく、製剤会社の営業部門が入っているオフィスの方である。
オフィス建物のエントランスにて男が立ち止まったため、リーピは全員に停止を命じて自身も足を止めた。
相変わらず、人形に対して言葉を尽くす必要性など皆無だと考えているのだろう、いかにも面倒くさそうな喋り方で、男は告げた。
「この建物の中、掃除しろ。ゴミ袋は用意してあるから、掃除が済んだら外に出しとけ。」
「清掃時に出たゴミを詰めた袋は、建物外に配置するようにとのご指示ですね。建物の中、というのは、全てのフロアにおいて、各部屋のみならず廊下やホールも含めてでしょうか。」
「全部だ。建物の中、っつっただろうが。細かいことまで、いちいち言わなきゃ分からねーのか。」
念を押すリーピに対して吐き捨てるように告げ、黒スーツの男はスタスタと去っていった。
ひとたび命令を出しさえすれば作業用自動人形が勝手に仕事を済ませてくれる、と彼が考えているのであろうことは、ある意味大助かりであった。現場に留まられて、逐一文句を付けられては命じられた作業も円滑に進まないだろう。
リーピは、今なお律儀に列を作っている作業用自動人形たちの最後尾を守っていたケイリーを呼び寄せ、話をする。
「この建物全体を清掃する目的であれば、自動人形の数は明確に不足しています。今日だけで清掃作業は終わらないでしょう。」
「だが、今日の任務時間完了後には、今回の作業に従事した自動人形は廃棄処分となる予定だ。あの市長は、費用も時間も潤沢に用意する気が無いと見える。」
「仕方ありません。衛生状態を万全に回復する、というレベルの清掃は実現不可能ですが、目立つ範囲の片付けを優先的に実行しましょう。一度の作業で使い捨てる自動人形をわざわざ発注したのも……普通の清掃を想定していないため、でしょうから。」
ケイリーと喋りながら、リーピは既にオフィス建物の奥へと視線を向けていた。
半開きの一室の扉からは、廊下へとこぼれ出た砂の塊のようなものが見えていた……あの街で、特異菌糸に感染したアントンの身体が辿った末路と同じ状態である。
ほぼ全ての社員は、特異菌糸に感染した後、養分及び水分の枯渇による身体崩壊を職場内で迎えたのだろう。激しい労働中ではなく、デスクワークの最中に身体維持の限界となったのならば、乾燥しきったのちも辛うじて人間の姿を保っている遺体が残されているのかもしれない。
もともと人体であったはずの存在、乾燥しきって崩れた遺体が、無数に残されたオフィス。とはいえ、滅菌剤生産による利益を欲している市長としては、製剤会社の建物ごと放棄するわけにもいかない。
先ほどぶっきらぼうに命令だけを投げつけて、そそくさと去っていった黒スーツの男も、こんな気味悪い場に長居したくなかったのだろう。
「では、遺体であった存在の回収、および遺体による汚損の清拭のみに作業内容を限定し、即時実行しましょう。」
「あぁ。かなり余裕のない状況での作業だが、モース研究主任が制作した自動人形の性能を過小評価されるわけにもいかない。」
リーピとケイリーは頷き合い、作業用自動人形たちに個別指示を与え、一個体が担当可能な範囲を設定し、清掃作業を開始させた。
これから行われる内容は全く単純であり、何ら目標達成を阻害する要因など無い。
自動人形たちは床に横たわっている人体の残骸を回収し、袋に詰め込んでいく作業を淡々と進めるのみである。特筆すべき出来事など、起きようもない。
しかし自動人形でなければ、円滑に進めることが困難な作業には違いなかった。
現場に用意されていたのはまさにゴミ袋そのものであり、そこに詰め込まれるのは元々人間であった存在の残骸だ。アントンのように、どうにか遺体の一部だけでもかき集められ、葬儀が執り行われる存在も居る一方で……この企業内で就業していた面々には、文字通りに廃棄される末路しか待っていないのだ。
自動人形たちだからこそ従事させられる内容ではあり、同時に、その責を担うべき人間たちの罰を肩代わりさせられるような状況でもあった。
「……。」
作業用自動人形たちはもとより感情などなく、愛玩用自動人形であるリーピもケイリーも同様に、この作業に対して特に情動を抱くことなどない。
……が、今の自分たちが作業用人形そのままの恰好であり、感情を模倣する行動を求められていないことは、何よりも救いであるように思われた。ただ淡々と黙して清掃作業を続行するのみである。
とはいえ、この製剤会社内部へと潜入した本来の目的は、内情調査である。
他の作業用人形たちに下階を任せ、真っ先に最上階へと上がっていったリーピとケイリー。両名は、重役室と思しき一室にて、デスクの全ての引き出しが抜き出され、設置された大型金庫の扉も開けっぱなしになっているのを見つけた。
上等なスーツを着込んだ一団の亡骸が、デスクの上やソファにもたれかかるように残されている部屋の中、リーピは金庫を覗き込んで言う。
「ケイリー、金庫の内部は空っぽになっています。貴重品はもとより、製剤会社の企業秘密に関する書類はことごとく持ち出されているようです。」
「さすがに、情報を丸ごと残したまま清掃作業を始めさせるほど、あの市長もマヌケではないか。崩壊している死体を放置したまま、重要書類を回収させられた部下も災難だったろうな。」
「とはいえ、全てが持ち出されたわけではなさそうです。これを見てください。」
更に室内の探索を続けていたリーピは、書類用シュレッダーの中を開き、紙屑でいっぱいになっている様を示した。
機密保持のために企業に導入される書類用シュレッダーは、不規則かつ細かな図形パターンを書面上にインクで塗りつけた後、更に縦横の細かな紙片へと細断する方式である。インクを乾燥させる必要もあり、手回しでの稼働ゆえに処理に時間はかかるものの、確実に書類の機密は保たれる。
その処理後の紙屑が相当量存在する、ということは……製剤会社の役員らは、既に大半の機密事項を処分し終えていたということだ。
いや、正確には役員ら本人ではなく、彼らが感染した特異菌糸の意図である。当然ながら菌糸の立場としては、滅菌剤の生産ノウハウが失われることで、自分たちの生息域拡大に都合よい環境が築かれるのだから。
「重要書類の処分がほぼ完了していたということは、僕らにとっても情報入手の機会が失われたことになりますが、間接的に推測できる事項も存在します。後になって製剤会社を訪問したガリティス市長らは、滅菌剤生産に関わる情報をほぼ入手できていないでしょう。」
「あの市長が利益ほしさに滅菌剤生産を主導しても、生産体制の持続は困難になる可能性が高い、ということか。」
元からある生産ラインを維持することはどうにか出来たとしても、メンテナンスのため必要な知識が失われていては不具合発生時に対処不可能である。そもそも既に、この製剤会社の生産ラインから搬出される滅菌剤は、軒並み不良品ばかりとなっているのだ。
製剤会社内部での異常事態を隠し、何食わぬ顔で滅菌剤を生産販売し続けようとする市長の意図は、世間における菌糸漏洩リスクの軽減にほぼ寄与しないだろう。
「今回の調査結果につきましては……ディスティさんの元に、残念な内容を持ち帰ることになりそうです。」
「モース研究主任にも、だな。社会に対する影響力で言えば、ロターク本社にこの内情を伝えることの方が大きいだろう。」
ケイリーの言にリーピも頷き、室内の遺体残骸を袋に詰め込む作業を進めつつも、部屋の中に残されている情報を求めてロッカーや棚の内部まで詳細に調べを進めていった。
しかし、情報を記した書類はもとより一枚たりとて残されていない。
ばかりか、情報とは無縁の装飾品の類もことごとく持ち去られている。製剤会社に関する情報を奪取するためであれば手を付ける必要のない品も、市長の命令によって部屋漁りを実行した面々は懐に入れずにいられなかったと見える。
人間が自身の欲を最優先に動いた結末がいかなるものか、明瞭に示される光景だけがこの部屋には残されていた。




