依頼9:ヴィンス氏の名を騙る自動人形の確保協力
リーピとケイリーは、ごく厄介な状況に直面していた。
アントンの花屋で働いている、フィンク議員の息子ヴィンス……になりすましている存在。それが体内からの菌糸漏洩を引き起こしている自動人形であることは既に確定し、あとは待ってさえいれば警察の部隊が現地に到着して拘束を行い、ひとまず一件落着となる運びだ。
しかし、フィンク議員にとっては実の息子と同じ姿をした存在が、公衆の面前で警察に拘束されることになる。
政治家である議員としては、非常に不名誉な噂だけが独り歩きしかねない状況だ。悪評だけが勝手に流布する状況を極力、未然に防ぐよう彼から依頼されて、現在リーピとケイリーは花屋のある大通りへと赴いていた。
そういった困難な状況に対処せねばならない矢先のリーピ達に折悪しく、何かと状況に首を突っ込んでくる靴職人のラーディが話しかけてきたのだ。
予想通り、ひとたび彼女に捕まれば、長々と無駄話に付き合わされる羽目になる。相変わらず、思考を整理しきる前に口から出てくるラーディの言葉は取っ散らかっている。
「あっ、そうだ、リーピさんとケイリーさんに、ちょっと謝らないといけないことがありまして……いや謝るほどじゃないかもって感じの内容なんですけど、でも私の思い付きで勝手にやっちゃったことがありまして、もしご迷惑になってたらどうしようかと、ずっと気になってたことがあってですね……。」
「そ、そうか。まぁ、歩きながら話そう。」
ケイリーが率先して返答する。
いつも会話を担当するのはリーピの役目だが、この場で考えを組み立てなければならない状況において流石に会話に応対している余裕など無い。
ラーディの側も、どうしても伝えたい内容であったらしく、リーピが無言のままであることについては気にかけず、そのまま喋り続けている。
「そのぅ、こないだ、私が休日の習慣として、いつも通りに道行く人々の靴を観察してた時のことなんですけどね。明らかに、高級な靴を履いているのに手入れもせずボロボロ、疲労困憊の体で歩いてらっしゃるお嬢さんがひとりおられまして……明らかに様子が変だったので、つい声をおかけしたんですよ。」
「ふむ、それは、たしかに気になるかもな。」
ケイリーもラーディに負けず劣らず話下手であった。通り一遍の相槌パターンを早くも使い果たしつつある彼女の傍らで、リーピは歩を進ませつつも沈思黙考を続けていた。
ここに来て、リーピは更なる懸念に思い至ったのだ。
ヴィンスに成りすましている自動人形の拘束が、警察によって円滑に行われたとしても、アントンの花屋が現場となってしまうことには違いないのだ。
彼の店で警察沙汰が起きたとなれば、多少なりと客足が遠ざかる結果にも繋がりかねない。
拘束されたのがヴィンス本人ではなく、容姿を真似ている自動人形であることを周知するにつけても、アントンの花屋がそのように身元を詐称していた存在を雇っていたとの噂に繋がることは避け難い。
ついでに、これまで人間に対しては従順であると信じられてきた自動人形が、他人に成りすましていた件で警察に拘束される様が大勢に見られることも自動人形の立場を悪くする。探命事務所を運営しているリーピ達にとっても無関係ではなく、自主的に仕事している自動人形への信頼低下は避け難いだろう。
今回の依頼、達成手段は当初の予定から大きく変更されなければならない……考え込んでいるリーピの傍らで、ケイリーがラーディの会話を引き受け続けていた。
「そのフラフラで歩いてるお嬢さんは、どうやら急に身寄りを失くしてしまったようでして。いえ、私も、個人的なことにあまり首を突っ込むわけにはいかないと思って、詳しいことは聞いてないんですけどね。でも、ちょっととはいえお話を聞いた手前、助けもせずに放置するだなんて出来なくって……それで、あなたがた探命事務所の連絡先をお教えしたんです。」
「なるほど、いよいよ窮した時に、本人が助けを呼べる相手が居るに越したことはないからな。」
必死で思考を続けているリーピは殆ど聞き流しており、ケイリーだけが返答を続けている。
ラーディが語っている“お嬢さん”とは、ほぼ間違いなくディスティのことであった。闇医師チャルラットの医院で聞いた話の通り、やはりラーディが探命事務所の連絡先を知らせていたのだ。
「でも後から思えば、他所様の連絡先を、了承も得ずに勝手に他人に知らせるだなんて非常識なことを、やってしまったわけでして……もしも、そのことであなたたちがトラブルに巻き込まれるようなことがあれば申し訳ないなと思いまして、遅ればせながらお詫びをしなければと、ここ数日ずっと考えてたんです。」
「いや、それには及ばない。実は、そのおかげで彼女から助けを求める通話を受け、我々としても新たな仕事に繋がったんだ。顧客についての情報を明かすわけにはいかないから、詳しい経緯は伝えられないが。」
「まぁ、それならよかったです……って、いやいや、やっぱり私がやっちゃったことについては変わりないですし、お騒がせしちゃったことについて何か埋め合わせを……あっ、そうだ、靴を、あなた方専用の靴をお誂えしましょうか?何だかんだで街の中を歩くことも多いでしょうし、オーダーメイドの靴は歩きやすさも靴底の擦れづらさも段違いですよ。」
「いやいやホントに、お気になさらず……でも、確かに、それは魅力的な提案だ……。」
会話パターンが枯渇しつつあるケイリーは言葉に詰まりつつ、ようやっと目的地であるアントンの花屋へ到着した。同じ時間経過でも状況次第では長く感じるという人間特有の感覚を、ケイリーは今なら理解できる気がしていた。
ずっと黙って考え込み続けていたリーピは、流石に思考に専念しただけあって、花屋に到着してからの行動方針を既に確立できていた。
店主であるアントンは当然のごとく店先に立っており、リーピ達の姿を見てにこやかに声を掛けてくる。
「いらっしゃい、今週はよくお目にかかりますね。また事務所に飾るお花をご所望ですかい?」
「えぇ、今日仕入れられたお花を見させてもらいに。今の時間帯は、ちょっとお暇ですか?」
「まぁ、お客さんが多いのは午前までですからね。出勤する前、取引先に持っていく花束をお求めの方がほとんどで。今日、市場で仕入れた花を店に出す作業が済むのは午後なんですが、新鮮な花が並ぶタイミングを分かって来店されるのはリーピさんみたいな常連さんだけです。」
朝方の様子とは打って変わって、のんびりした様子の店内を見渡しながらアントンは答える。
自分の予想していた状況が外れていないことを確認したリーピは、先ほどから同行し続けてきているラーディを上手く組み込んだ作戦へと着手した。
「そういえばヴィンスさんはどちらに?」
「店の奥で作業を続けさせてますよ、アイツに何か御用ですか?」
「いえ、実は以前この店に来させてもらった時に、ヴィンスさんの靴がかなり損耗しているのが気になりまして。」
アントンへと語るリーピの言葉を耳に入れ、ラーディが顔色をパッと明るくした。
靴職人である彼女はむろん前々から気づいていたろうが、話下手なラーディには、相手の気を悪くさせずに靴が粗末な状態になっていることを告げる言葉は見つからなかったのだろう。
もともと職に就かずフラフラしていたヴィンスに、靴を綺麗に保つ心がけなどあるはずもない。その中身が本人を模倣する自動人形に入れ替わればなおさら、怪しまれる要素を増やさぬよう身につける物はそのまま使用しているのだ。
ラーディの方へと振り返って視線を向けつつ、リーピは喋り続ける。
「やはりお客さんの前に出て仕事をするのですから、店員さんの身なりは整っているに越したことはないでしょう。せっかく、こちらに靴職人のラーディさんがおられるのですし、お客さんが居ない今の時間帯に、靴の状態やサイズを確認してもらうのはいかがでしょう。」
「たしかに、そりゃいいですな。おおい、ヴィンス!ちょっと出てきてくれるか!」
アントンは即座に頷き、店の奥へと呼びかける。
草花を整える作業もひと段落していたためだろう、ヴィンスはすぐに顔を出した。
「はい。お客さんですか?」
「いや、実はお前の靴がボロッちくて汚いことについて、ちょっと話をしててだな。お客は足先まで店員を見ている、お前も新しく靴を作った方がいい。ちょうど今、こちらに来られているのがラーディさんだ、プロの靴職人だぞ。」
「えぇまぁ、地道ですけど、靴職人やらせてもらってます……。」
アントンから紹介を受け、ラーディは顔を赤くして恐縮しつつもヴィンスへ頭を下げ挨拶している。
このヴィンスが人間ではなく、本人になりすましている自動人形であり、その顔面の隙間から菌糸漏洩を起こす可能性が高いことを知っているケイリーは、一瞬リーピへと警戒の目くばせを送った。
これまで何事も無かったとはいえ、ここには人間であるアントンとラーディが居るのだ。ここにヴィンスを呼び寄せることは、人間たちを危険に近づける振る舞いに他ならない。
リーピもそのリスクを承知の上なのだろう、話を彼は迅速に進めていった。
「靴を見てもらうと言っても、この場ではできることにも限りがあるでしょう。ヴィンスさんには、ラーディさんの工房まで来てもらうのが、新しく靴を作るのに一番早い道じゃないでしょうか。」
「しかし、僕は今まだ仕事時間中ですが。」
ごく当然のことを言って遠慮するヴィンス。むろんこの反応はリーピも想定済みであり、一旦この場を離れてアントンだけに真意を伝え、作戦への協力を募るつもりであった。
が、そのような回り道を辿る必要も無く、リーピとしても想定外の助け舟をアントン自らが出した。
「いや、どうせ今は客が来ない時間帯だ、仕事が終わってから行けと言われるのもダルいだろう。これは店長指示だ、今のうちにラーディさんに靴のサイズやら似合うデザインやら見てもらってこい。」
「いいんですか?」
「あぁ、店での接客のためだからな。新しい靴を買う金も出してやるから行ってこい。んじゃ、お願いしてよろしいですかね、リーピさん、ラーディさん。」
「えぇえぇ、もちろん、その、前々から、ヴィンスさんの靴の状態を見るにつけても、ウズウズしてたんです、はい。」
実際、ラーディは状態の悪いヴィンスの靴を前にして、ソワソワし続けていたのだろう。話が進む間にも、彼女はいくどもうんうんと頷き続けていた。
状況の成り行きを見守っているケイリーにチラと目くばせしながら、リーピはアントンへ告げた。
「では、僕らでヴィンスさんを靴づくりの工房へとお連れします。代わりと言っては何ですが、ケイリーをここに置いて行きますので、手伝わせたいことがあれば何なりと言いつけてください。」
「あまり器用な方ではないんだが、出来ることなら、やる。」
「構わないんですかい?いやぁ、こんな美人さんが店番をしていたら、お客が一気に増えちまうかもなぁ。では、ヴィンスのこと、よろしくお頼みしますよ。」
調子のよいことを言っているアントンであったが、本当に忙しい時間帯であればケイリーが接客に向いていない事実に悩まされることになっただろう。彼女はほぼ常に仏頂面で、言葉遣いも突慳貪、会話パターンも乏しいのだ。
さておき、ヴィンスとラーディを引き連れ、花屋から出ていくリーピ。
彼らの足音が遠ざかった頃合いを見計らい、ケイリーはアントンへ告げた。
「店の通話機を使わせてもらえるか?」
「えぇ、構いませんけど……リーピさん達に用件なら、今すぐ追いかけて行ったら間に合いますよ。」
「違う。リーピが連れて行ったヴィンスの位置を、警察に伝えるためだ。アイツは本物のヴィンスじゃない、なりすましている自動人形だ。証拠は既に揃っていた、警察による拘束は間もなく行われる。」
「えっ……そ、そうだったん……ですかい?」
驚いているアントンを後目に、ケイリーは店の奥に向かい、警察への通報回線へとつないで必要な情報を伝え始めていた。
―――――
リーピが至った結論は、『人目につかない場所へと偽ヴィンスを誘導する』ことであった。
そもそもアントンの花屋に警察部隊が押しかけ、標的の確保を行う時点で花屋には損害が出る。
目撃した者たちは“フィンク議員の息子が逮捕された”との認識を崩さないだろうし、いくら彼が偽者であると声を張り上げて伝えても信じてもらえる保証はない。ついでに、自動人形そのものへの印象悪化も懸念される。
ならば、警察が標的を確保する経緯をスムーズにして、さらに目撃者も可能な限り皆無となる状況を作り出せばよい。
そうした判断の末、今こうして偽ヴィンスを花屋から連れ出し、街の中心である大通りからも離れ、小さな工房や工場に挟まれた小道へと入っていったのだ。
「ラーディさんは、いつもこの道を通って工房へ行っておられるんですか?」
「そうです、人によっては殺風景だと感じるかもしれませんけど、必要なものだけで出来ている街の風景ってのも、見ていてすがすがしい気分になるんです……って、やっぱり私、変わってますかね。」
リーピからの他愛無い問いかけに対しても、妙な感性による返答を口にしているラーディ。
ヴィンスを連れ出す口実として利用した、靴職人であるラーディの工房へと向かう最短ルートであることには違いなかった。狭い路地ゆえに、前後を警察の部隊が挟み込んだ時点で偽ヴィンスも逃亡困難となるだろう。
……現状唯一の問題は、菌糸漏洩をいつ引き起こしてもおかしくない自動人形のすぐ傍に、生身の人間であるラーディを歩かせていることであった。ケイリーの通報内容を受けた警察の部隊が、速やかにこの現場を抑えてくれるのを願うばかりだ。
最悪の場合、このまま到着した先であるラーディの靴工房にて逮捕劇が引き起こされることとなるが……ラーディが負うリスクや工房への損害を考えれば、長引かないに越したことはない。
当のラーディは何も知らぬまま、隣を歩いているヴィンスの靴を眺めていた。
「いやぁ、それにしてもヴィンスさんの靴、じっくり見れば見るほどボロボロですねぇ。あ、いや、スミマセン、一度言及しちゃったら遠慮なく言っても良いものみたいに、好き放題言っちゃってますけど。履き方は綺麗だとおもいますよ、体重の掛け方のバランスが均等ですし。しかし、その汚れ……かなり長いこと、買い替えておられないんじゃないですか?」
「はい、長いこと履き続けている靴です。」
ラーディのやたらと冗長な言い回しにも、端的な返答だけを与えているヴィンス。
ここに来て、リーピは一つの違和感を抱きつつあった。
以前、アントンの花屋で働いているヴィンスの姿を確認しに来た時には、彼はもっと朗らかに振舞っていたはずである。店長の冗談にもテンポよく返答し、快活な青年そのものな言動であった。
そうしておいた方が、自動人形として疑われることもないと判断しての振る舞いだったのだろうが、今日はやけに淡々とした物言いしか口にしていない。
自動人形が疲れることなどないはずだったが、まさに仕事疲れで頭が回らなくなっている人間そのものな反応なのだ。だとすれば、敢えてヴィンス本人としての演技として、意図的に振舞っているのかもしれないが。
彼が警察に拘束される前に確かめようと、リーピは探りを入れるついでに言葉を掛け続けていた。
「しかしヴィンスさんは、お父上がフィンク議員さんですから、特等市民権をお持ちのはず。服や靴なども、購入するお金は潤沢にあったんじゃありませんか?」
「はい、ありました。」
「でしたら、どうして長らく靴を買い替えなかったのです?」
「なぜでしょうね。」
最低限の返答だけは口にするものの、全く相手との会話進行を意識しておらず、要領を得ない内容ばかりである。
リーピは並び歩いて話しながらも偽ヴィンスの顔を見つめていたが、相手の表情は全く変化していなかった。
じっくり見るほどに、ヴィンス本人の遺体から剥がされた顔面は、腐敗こそせずとも劣化が進んでいる様が明らかだった。表情筋が動きづらくなっているだろうし、眉毛や睫毛は半ば抜け落ち、余計に表情の乏しい印象を強めていた。
原因は不明ながら、ヴィンスとしてなりすましているこの自動人形は、中身が目に見えて劣化していっている。
彼の反応を確かめられるのも最後だと認識しつつ、リーピは進行方向を指さして告げた。
「おや、前に警邏隊の方々が集まっていますね。何か事件でもあったのでしょうか。」
「なんでしょうね……。」
もはや、偽ヴィンスが口にする言葉は、ほとんど上の空である。
当然ながら、この場を警察が固めているとなれば、ヴィンスに成りすましているこの自動人形を拘束する目的に他ならない。花屋からケイリーが通報した内容が正確であったおかげで、位置の特定も迅速だったのだ。
ラーディはずっと相手の靴ばかりを見つめているためか、なおも違和感に気づいていない様子であったが……不意に周囲を取り囲んだ無数の靴音には気づいたのか、ハタと顔を上げた。
「えっ、あのっ、なんか、警察の方たち、私たちのことを囲んでません?」
「ラーディさん、こちらに。」
リーピは歩みを止め、ラーディの腕を引っぱって、来た道を逆に戻る。
その直後、拡声器によって警邏隊から指示が放たれる。殺風景な工場地帯の路地に、無機質な声が反響した。
「そこの自動人形、市民から離れて地面に膝をつけ!お前が人間に成りすましていたことは分かっている!」
拡声器からの命令が響き、同時に警邏隊員たちが駆け寄ってきても、偽ヴィンスは目立った行動の変化も示さなかった。
既にリーピとラーディが自分の傍から離れていることにも気づかぬ様子で、ヨタヨタと歩き続け……すぐさま、彼の腕を掴んで後ろ手に拘束した警邏隊員に押し倒され、地面に組み伏せられた。拘束を実行する警邏隊員たちは全員が自動人形であり、菌糸漏洩のリスクとは無縁である。
「身柄を確保。搬送を行う。抵抗は無駄だぞ。」
「……。」
自動人形の警邏隊員から無機質な声を掛けられても、ヴィンスになりすましていた自動人形は無言のままである。
人間を殺害し、その顔面を奪ってしばらく本人に成り代わって行動を続けた自動人形。彼は四肢を拘束されたその場で、密閉可能な箱状のケースの中に押し込まれ、警邏隊員たちに抱えられて運ばれていった。
これまでの経緯を鑑みれば、あまりにも呆気なさすぎる幕切れであった。
一方、この逮捕劇の直前に偽ヴィンスのもとから離れたラーディとリーピもまた、警察が事情を確認するために一旦呼び止められていた。
この標的確保の現場を指揮していたのは、警邏隊の中で数少ない人間であるトロンドであった。
「あなたは、フィンク議員から依頼を受けていた探命事務所のリーピさんですね。議員からお話は通っています。ところで、こちらの女性は……?」
「こちらは、靴職人のラーディさんです。彼女が居合わせたのは偶然なのですが、アントンさんの花屋から標的を連れ出すために、ご助力いただきました。」
トロンドに応答しているリーピが冷静に言葉を連ねているのと対照的に、ラーディはまさに泡を食って狼狽の極みにあった。
むろん今自分が置かれている状況もラーディにとってはまるで慣れない場であり、ばかりか目の前にいるトロンドはかつて自分が個人的な好奇心を満たすためだけに、探命事務所へ身元調査を依頼した相手に他ならないのだ。
「あっ、えっ、あのっ、私、何が何だか、何が起きたんだか、まだ、全然分かってなくって、ですね……!いま、逮捕された方とは、ほとんど初対面でして、私が靴を作るところへ向かう、その道中でして……!」
「落ち着いてください。警察としての目標は既に完了しています。あなたの身元確認だけ、ご協力願います。それから、念のため滅菌処理にも同意いただけますか。」
菌糸漏洩をいつ引き起こしてもおかしくない自動人形の傍にいたのだから、それも当然の措置である。
既に、現場清掃のための作業用自動人形が、さきほど偽ヴィンスが取り押さえられた路面へ念入りに滅菌剤の噴霧を行っていた。
空中を舞い散っている薬剤の粉末を吸い込まぬよう、あてがわれたハンカチで口元を押さえているうちに、多少なりとラーディも落ち着きを取り戻していったらしい。
あるいは、自分なりの気の落ち着け方を実行しているのか……ラーディは、トロンドの履いている靴をじっと見つめていた。
「お、おっ、おまわりさん、綺麗な靴の履き方、ですね……警邏隊員だったら、歩き回ることも多いでしょうに、型崩れもしてなくて、手入れも行き届いた靴です。」
「ありがとうございます。」
本部への連絡も急がねばならないトロンドは、その一言だけをラーディに返すのみであった。
が、ようやく狼狽が落ち着きつつあるラーディの視線は不規則に泳ぎ、一件落着と見える現場の様相に不安定な未定事項の気配を見出しているようであった。
リーピも、先ほどの逮捕直前、偽ヴィンスについて違和感の根源を見出したところであったが……自動人形が持ち得ない、人間としての勘が強く働くラーディには、リーピ以上に勘づく所が多くあったのかもしれない。




