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『共鳴する記憶』

作者: 小川敦人

『共鳴する記憶』


「隆介さん、この週末時間ありますか?」


会社の帰り道、いつものカフェで菜緒子はそう切り出した。彼女とは同じマンションに住む隣人だった。彼女は地元の中学校で音楽を教えていて、何度か廊下ですれ違ううちに知り合いになった。

「ああ、特に予定はないけど」隆介は少し警戒しながら答えた。

「実はNPOの集まりがあって。カンボジア支援の活動をしているんです。隆介さんはプログラミングとかできるんですよね?」

隆介はソフトウェアエンジニアとして働いていた。彼女の言葉に少し驚いた。

「うん、それが…?」

「技術的な支援が必要なんです。データベースとか、ウェブサイトとか。良かったら一度、話を聞きに来てもらえませんか?」

彼女の眼差しには純粋な熱意があった。隆介は自分の週末の予定表を頭の中で確認してから答えた。

「わかった。話だけなら聞いてみるよ」


その週末、隆介は菜緒子に連れられて、都内の小さなコミュニティセンターを訪れた。そこには十数人の人が集まっていた。学生から定年退職した人まで、年齢層は様々だった。

「カンボジア支援プロジェクト」と呼ばれるそのNPOは、教育支援を主な活動にしていた。隆介は自己紹介の後、彼らのデータベース管理の手伝いをすることになった。週に一度の会議に参加し、徐々に活動に慣れていった。

ある日の会議後、菜緒子が隆介に声をかけた。

「隆介さん、知っていました?カンボジアには音楽がないんです」

「音楽がない?それはどういう意味?」

「ポル・ポト政権の時代に、芸術家や音楽家のほとんどが殺されてしまったんです。伝統音楽の記録も破壊されて。今、カンボジアでは伝統音楽を復興させる取り組みが行われています」

菜緒子の言葉に、隆介は言葉を失った。彼女は続けた。

「私、来月カンボジアに行くことになったんです。音楽教育の支援で。実は隆介さんにも一緒に来てほしいと思って」

「え?僕が?」

「そうです。現地の学校でのIT教育も計画しているんです。隆介さんの力が必要なんです」

隆介は迷った。海外ボランティアなど考えたこともなかった。しかし、彼女の真剣な表情を見て、断ることができなかった。

「わかった。考えておくよ」


結局、隆介は二週間の休暇を取って、菜緒子と共にカンボジアへ向かうことになった。プノンペン空港に降り立った時、湿った熱気が彼を包み込んだ。

「暑いね」と隆介はつぶやいた。

「でも、人々はとても温かいんですよ」菜緒子は笑顔で答えた。

彼らは現地コーディネーターのソピアップに迎えられた。流暢な日本語を話す彼女は、日本の大学に留学していたという。

「明日は芸術学校を訪問します」とソピアップは告げた。「子どもたちが皆さんの訪問をとても楽しみにしています」


翌日、彼らはプノンペン市内の芸術学校を訪れた。簡素な建物だったが、中には熱心に練習する子どもたちの姿があった。

菜緒子は日本の童謡や民謡を教えることになっていた。彼女がピアノを弾き始めると、子どもたちは好奇心いっぱいの目で見つめていた。

「今日は日本の歌を教えます」と菜緒子は言った。

彼女が「さくらさくら」を弾き終えると、子どもたちから拍手が起こった。次に、彼女は「君が代」の楽譜を取り出した。

「これは日本の国歌です」

彼女がピアノで「君が代」を弾き始めると、驚くべきことが起こった。子どもたちの多くが歌詞を口ずさみ始めたのだ。

演奏が終わると、菜緒子は驚きの表情で隆介を見た。

「どうして彼らは君が代を知っているの?」と隆介はソピアップに尋ねた。

「日本はカンボジアにとって尊敬される国です。多くの支援をしてくれていますから」とソピアップは答えた。「学校では日本について学びます。国歌もその一つです」

昼食後、ソピアップは彼らに市場を案内した。そこで隆介は興味深いものを見つけた。

「これは…」隆介は手に取った紙幣を見つめた。そこには小さく日の丸が印刷されていた。

「日本の援助で作られた紙幣です」とソピアップは説明した。「カンボジアの多くのインフラは日本の支援で建設されています」

隆介はその事実に驚いた。自分が知らなかった日本とカンボジアの関係。

「菜緒子さん、知ってた?」

「うん、だからこそ私たちの活動は意味があると思うの」と菜緒子は答えた。


滞在三日目、彼らはキリングフィールドを訪れた。ポル・ポト政権下で行われた大量虐殺の現場だ。

入り口で隆介はためらった。

「本当に入るの?」

「歴史から目を背けてはいけないと思うの」と菜緒子は静かに言った。

中に入ると、そこは静寂に包まれていた。ガラスケースの中には無数の頭蓋骨が積み重ねられていた。地面には服の切れ端や骨の欠片が今も露出していた。

隆介は言葉を失った。ここで何が起きたのか、想像するだけで胸が締め付けられた。同じ時代、彼は日本で平和に生まれ育っていたのだ。それはただの偶然にすぎないという思いが彼を襲った。

「1975年から1979年までの間に、約200万人が殺されたと言われています」と案内のガイドが説明した。

菜緒子の目には涙が浮かんでいた。

その後、彼らはトゥール・スレン刑務所(S-21)を訪れた。ここはポル・ポト政権下で政治犯が拷問され、処刑された場所だった。もともとは学校だった建物が、地獄の拷問所になっていた。

「ここでは約1万7千人が拷問され、わずか7人しか生き残りませんでした」とガイドは説明した。

壁には犠牲者の写真が並んでいた。男性、女性、そして子どもたち。彼らの目には恐怖が凍りついていた。

そして最も衝撃的だったのは、拷問を行っていた看守たちの写真だった。多くは10代の少年たちだった。

「どうして子どもが…」隆介は言葉を失った。

「彼らは洗脳されていました」とガイドは説明した。「家族から引き離され、クメール・ルージュのイデオロギーで教育されました。命令に従わない者は即座に処刑されました」

驚くべきことに、写真に写る少年たちは笑顔だった。彼らは自分が何をしているのか、本当に理解していたのだろうか。

博物館を出た後、隆介と菜緒子は長い間沈黙していた。夕暮れ時、ホテル近くの川沿いのベンチに二人は座った。

「信じられない」と隆介はようやく口を開いた。「あんな残虐なことをどうしてできるんだろう」

「人間の残酷さじゃないのかもしれない」と菜緒子は静かに言った。

「どういう意味?」

「ナチスのホロコーストについての研究があるの。アイヒマン裁判でハンナ・アーレントという哲学者が『悪の凡庸さ』という概念を提唱したんだ。大量虐殺を実行した人たちは、特別な怪物ではなかったって」

隆介は黙って聞いていた。

「彼らはむしろ、命令に従順で、社会的には『良い市民』だった。中国の文化大革命でも同じことが起きた。普通の人々が、イデオロギーや社会正義の名の下に、信じられないような残虐行為を行ったんだ」

「でも、どうして?」

「人間は集団思考に陥りやすいんだと思う。批判的思考を放棄して、権威に従うことで自分の責任から逃れようとする。『自分は命令に従っただけだ』って」

川面に映る夕日が赤く染まっていた。

「歴史は繰り返すって言うけど」と隆介は言った。「それを防ぐために何ができるんだろう」

「教育だと思う」と菜緒子は答えた。「だから私は教師になったし、ここに来たんだ。音楽は感情を表現する方法を教えてくれる。他者の痛みを感じる能力を育てる」

彼女の言葉に、隆介は深く考え込んだ。

「僕がプログラミングを教えることも、同じことかもしれないね。論理的思考は批判的思考の基盤になる。子どもたちが自分で考えることを学べば、洗脳されにくくなるかもしれない」

菜緒子は微笑んだ。

「そうだね。小さな一歩かもしれないけど、それが積み重なれば大きな変化になる」


残りの日程で、隆介と菜緒子は学校でのワークショップを続けた。子どもたちは熱心に学び、その純粋な笑顔に二人は救われる思いだった。

最終日、彼らは再び芸術学校を訪れた。今度は子どもたちが日本の歌と、カンボジアの伝統音楽を混ぜた小さな演奏会を開いてくれた。

「音楽は国境を越える」と菜緒子は子どもたちに語りかけた。「それは私たちの共通言語です」

帰国の飛行機の中で、隆介は窓から見える雲を眺めながら考えていた。

「僕たちは運がよかったんだね」と隆介はぽつりと言った。「日本に生まれただけで」

菜緒子は静かにうなずいた。「本当に。それはただの偶然なのに。もし私たちがあの時代のカンボジアに生まれていたら...」

「考えたくもないよ」隆介は言った。「でも、それを知ったからには、もう無関心ではいられない」

「政治の怖さを実感したわ」菜緒子の声は真剣だった。「『自分には関係ない』と思っている間に、世界は変わってしまう。ポル・ポト政権も、最初から残虐だったわけじゃない。理想を掲げた革命が、いつの間にか狂気に変わったんだ」

「日本でも、無関心でいることは一種の同意になるかもしれないね」隆介は言った。

二人は静かに考え込んだ。

「また来年も来ようと思う」と彼は菜緒子に言った。

「本当?」彼女は嬉しそうに尋ねた。

「うん。できることはまだまだあるし、子どもたちの笑顔を見ていると、こちらが元気をもらう気がする」

「わかる。私もそう思う」

「歴史の暗い部分を知ったけど、それだけじゃない。人間の回復力も見た気がする」

菜緒子はうなずいた。

「そうね。破壊された後でも、また音楽は生まれる。それが希望なんだと思う」

飛行機は雲を抜け、青空へと上昇していった。隆介は窓の外を見ながら、カンボジアで見た光と影、そして音楽と笑顔を思い返していた。

悲劇の歴史を知ることは辛かったが、それを乗り越えようとする人々の姿に、彼は勇気をもらった。小さな支援かもしれないが、音楽とプログラミングを通じて、彼らは何かを変えることができるかもしれない。その思いは、帰国後の日常にも新しい意味を与えていくだろう。

「菜緒子さん」と隆介は言った。「ありがとう。誘ってくれて」

菜緒子は微笑んで答えた。「こちらこそ、一緒に来てくれてありがとう」

窓の外では、日本の空が近づいていた。

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