担任教師
────「ヘルメス皇国首都」冒険者酒場 10/02/夜
伊勢谷先生が追加で頼んだ麦酒のジョッキをお互いに何杯も空にした後、彼女は唐突に疑問を口にした。
「なあ、お前さ」
「なんで酔ってから敬語になってんだよ?」
「なんのことですか?」
確かに言われてみればそうだった。
「とぼけるなよ」
「さっきもそうだし、普段だって偉そうな口調じゃん?」
「どうしてでしょうね」
今朝から今晩まで、今日は相手の質問に答えず問い返すことが多い気がする……。
「普通、逆だろ」
「常日頃はお堅いのに酔うと砕けた口調のお嬢様、みたいな」
「でも不思議と今のほうが距離が近い気がするけどな」
「それはあなたの気のせいです」
「そんなことないだろ」
「身体の距離もこんなに近いんだからさあ」
そういって先生は私の肩に回した手に力を込める。
そのまま私は先生の胸元まで抱き寄せられた。
……私は何も動揺することなく文句を垂れる。
「これ、どちらかが男だったら問題になりますよ」
「そもそもお貴族様の生徒と飲んでる時点で問題だろ」
「場所が悪いだけでいっしょに飲むこと自体は別に問題ないと思いますけど」
「え?」
「そうなの?」
どうやら伊勢谷先生は心底驚いているらしく、目を丸くしたまま黙り込んでしまう。
それから私が麦酒を三口ほど飲むあいだ、彼女は考え込んでから口を開く。
「うーん、確かに私も現役の頃は晩餐会やら社交界やらで教師連中といっしょに飲んでいたような……」
と、ぼやき始めた。
当時の教師陣は気の毒だわ。
「私が前いた国だと、ガキは酒飲んじゃダメだったんだよ」
「その感覚がいまだに抜けてなかったみたいだな」
「だとしたら」
「その感覚なのに、私はあなたに飲まされていたことになるわけですが」
とんだ不良教師もいたものだ。
「そもそも学園の行事でいつも生徒と同じ場で飲んでいるじゃないですか」
「それになぜか私と初めて飲むような口ぶりでしたけど」
「入学式の後、学園の交流会でいっしょに飲みましたし」
「私が学園に入る前から社交界でいっしょに葡萄酒を嗜んでいたでしょう?」
「た、確かに……!」
伊勢谷先生はまるで本当に驚いたかのような顔で固まっていた。
いや、これは本当に驚いているようね……。
「でもさー、あんなお上品なのは飲んだうちに入らないからさあ」
「記憶に残らないんだよ」
「やっぱ酒はこういうところで飲まないと」
私はそうは思わないけれど、その感覚は理解できなくもない。
現に私は今の状況を楽しんでいる気がする。
「そういう意味では」
「飲みに付き合ってくれた生徒はやっぱりお前が初めてだよ」
そう言いながら彼女は再び私を抱き寄せた。
……私は何ひとつ動揺することなく離れようとする。
しかし、いくら力を入れても逃れることができない。
なんだこれは。岩にでも囲まれているのか。
だけどその感触は"傍目に見てきた"印象よりも、ずっと柔らかかった。
「もぞもぞするなよ。くすぐったいだろ」
伊勢谷先生は意地の悪い笑みを浮かべながら私を抱きしめ続ける。
「だから……問題になりますよ」
「何が問題なんだよ。女同士なんだしいいだろ?」
「駄目です……」
「なんで?」
先生はニヤニヤとしながら私を見つめる。
ぐう……。この人は私に何を言わせる気なのだ。
こういうことは芽衣との一件で懲りているのに……。
「そういう話はさっきしましたよ……」
「なんの話だっけ」
この女は……。
魔法で抵抗するどころか、本来ならシバき倒しても良いのだけれど。
不思議とそんな気は起きなかった。
「……私がサフィを好きだという話です」
「それとこれとで何の関係があるんだよ」
「だから……!」
私は言葉を続けようとした途中で抵抗をやめることにした。
この半年間、私の姿はこの人の目にどのように映っていたのだろうか。
入学以前から私のことを知るこの人には"私らしくなく"見えていたのかもしれない。
力を抜いて、私は先生の背中に手を回した。
「あんま無理すんなよ」
先生も力を緩めて私の背中を優しく撫でる。
「なんでサフィが好きかわかんないならさ」
「ほかの女でもいいんじゃないのか」
「はあ……」
「良いわけないでしょ……」
「先生は誰かを好きになったことがないんですか」
「そういうときって大体理由なんてわからないものでしょう」
「そりゃあ私ならわかんないだろうさ」
「でもお前だぜ?」
「お前みたいなやつが──
そんなことでテンパってるのは見てらんないよ……」
先生はこんなに感傷的なことを言う人だったんだ。
入学してから半年間そうやって感じてくれていたんだ。
私は少しのあいだ黙り込んで口に出すべき他の言葉を必死に探す。
「最初、私がわからないって言ってたときは目を輝かせてましたよね」
「そのときはさ、少し感心してたんだよ」
「お前も"何かをわからないと言えるようになった"のかって」
「でもそういう話ではなさそうじゃん?」
「なんていうか、"本当に何もわからないだけ"って感じ」
この人は何を言っているのだろう。
「教え子が人間らしいところを見せているのだから」
「少しは応援してください」
そんな私の言葉を聞いた先生は僅かに間を置いてから静かな声を発した。
「お前さあ」
「本当にサフィのこと好きなのか?」
そう言って先生は私のことを胸元に抱き寄せるどころか両手で抱きかかえ始めた。
私の右肩が先生の胸元に密着し、彼女の顔は見上げた目の前にある。
「傍から見たらわかるよ。お前があいつを好きなのは」
「でも好きなのはわかっても"好きそうには見えない"んだよな」
そんなことはない……と思う。
「片思いの相手がいるならさ、いまだって普通は嫌がるだろ」
確かにその通りだ。
それどころか今日は芽衣と一線を越えそうになってしまっていた。
「先生がしつこいから抵抗する気が失せただけですよ」
「そうかい」
「じゃあこれにも抵抗しない気か?」
そう言いながら先生はその端正な顔を私に近付ける。
や、やりすぎ……!
あまりの驚きに私は目を閉じてしまっていた。
だけど目を閉じていても唇に何かが触れる気配はない。
そこで恐る恐る目を開いてみると鼻先が触れ合いそうな距離に先生の顔があった。
そして額を私に押し当てながらつぶやく。
「ほらな」
「お前、女なら誰でもいいんだろ?」
私は酔っているせいか素直な言葉を口にしてしまう。
「誰でも良くは……ありませんよ」