聖女とは何か
────「イスキオス・エステート」自室 10/02/夕方
私はまた、燦然と輝く芽衣の仄暗い瞳を覗き込んだ。
その暗黒の輝きは赤褐色の色彩を帯び、夜空に月輪の渕だけが浮かんでいるかのような美しさを湛えていた。
後悔のない人間の瞳とは、ここまで美しいのだろうか。
私の瞳は彼女にどのように見えているのだろうか。
同じ輝きを放っているのだろうか。
「ねえ、あなたには何が見える?」
私は芽衣の瞳に引き寄せられ、彼女にもたれかかりそうになりながら尋ねる。
「……とても黒い瞳が見えます」
「たぶん私よりもずっと暗くて冷たい」
「でも、綺麗」
「私の瞳を反射するくらい深い暗黒……」
彼女の瞳を覗き込んでいたら、いつの間にか吐息を感じそうなくらいの距離になっていた。
そして、あまりにも前のめりになったせいで思わず彼女の膝の上に手をついてしまう。
「元の世界で夢はなかったの?」
「あります──
私はずっと聖女になりたかったんです」
"歪ん"でいる。元いた平和な国でそんなことを願い、この世界で自ら聖女となることを良しとした。
尋常な人間ではない。
恐らく彼女の世界でも"聖女"と呼ばれる人間は数多くいたはずだ。
だけど芽衣が望む"聖女"はいなかったのだろう。
「あなたにとって聖女とは、何?」
その"歪み"に……私は吸い寄せられていく。
「救世の徒。人々を救う存在。闇を打ち払い、世を救う乙女」
どこまでも"歪ん"でいるからこそ真っ直ぐで、この瞳に後悔はなく美しい暗黒を湛えているのだ。
「あなたは救世主になりたいのね」
ならば、この世界の聖女の役割は彼女に相応しい。
いつの間にか、お互いの鼻が触れ合いそうな距離まで近付いていた。
あ……まずい。
彼女に引き寄せられた私は、もはや口づけを交わせるほど密着している。
気付かないうちに芽衣の両手が──
彼女の膝上に乗った私の手を掴んでいた。
「サフィ様は……」
「彼女の家系は救世主たる命題があるんですよね」
「……良く知っているわね」
「それも宮廷の蔵書で知ったのかしら」
「いま世の中に広く知られている"私たちの聖女伝説"で欠けている部分を調べているうちに」
「自然とイフィリオシア家に課せられた"至上命題"に行きつきました」
初代皇帝が「聖女召喚の儀」を確立して以来、異世界聖女たちを権威付けるために、それまでにあった聖女の伝説は都合良く書き換えられた……らしい。
聖魔法を司るイフィリオシア家や他の各属性を司る七大貴族も皇国を興すにあたって新たな聖女伝説の流布に手を貸したのだという。
その一方で初代皇帝が頭角を現す前から、それぞれの家系には"至上命題"と呼ばれるものが課せられていたそうだ。
そしてイフィリオシア家の"至上命題"の一節には「救世主たれ」という言葉がある。
「至上命題に近付きすぎると寿命を縮めるわよ」
「宮廷の蔵書で知り得る範囲だけですから……」
伝説や伝承にその一節が散りばめられたイフィリオシア家の命題はともかく他の七大貴族の"至上命題"を知るのはマズい。
私ですら全文を知らないほどに秘匿されているのだ。
いつの間にか私の手を握る芽衣の力が強くなっている。
「……アマナ様は救世主がお好きなんですか?」
なんだその問いは。
「だからサフィ様のことを慕っているんですよね」
サフィに想いを寄せていることを他人に明かしたことはない。
だけど他人から見たら分かりやすいのかしら……。
「そんなことが理由で誰かを好きになる人間がいるの?」
「アマナ様は私の願望を見抜いて」
「そこに魅力を感じて」
「だから今こうなっているのだとばかり……」
"救世主たらんことを良しとする"ような異常な人間性に魅力を感じるのだろうか、私は。
いつからサフィに惹かれていたのかは覚えていない。
自分がどんな人間の何に魅力を感じているのかはわからない。だけど──
いま眼前にある瞳は美しい。
この瞳は、サフィよりも暗く輝いている。
「私は救世主になります」
「本当になれるかはわかりません」
「所詮は何百人といる"他と同じ聖女"のひとりですから」
「でもサフィ様は"真の聖女"です」
「だから……」
芽衣は何を言う気なのだろう。
「アマナ様の想いが成就するまでの代わりでも構いません」
そう言って芽衣は、その美しい瞳を閉じた。
そんなの良いわけないでしょ。
良いわけない。
良いわけ……。
それなのに私の鼻先が芽衣の鼻先をかすめる。
その瞬間、サフィの笑顔が脳裏に浮かんだ。
サフィ。
コンコン──
扉を叩く音が、言葉を失った部屋に鳴り響いた。