祝福であり呪い
1−7
屋敷の開け放たれた窓から、鞭で叩かれる兄たちの泣き声が聞こえ、幼いラトゥーリアは怯えていた。
季節の花が咲き誇る侯爵家自慢の庭園の片隅、一番外に近いくさむらの裏で息を殺して本を読む。
そうしていれば使用人たちに屋敷の中へ連れ戻されず、授業が終わる夕食の時間前に食堂へ顔を出せれば何か言われる事もない。
(あとどれだけ、ここでぼんやりできるのかしら……)
青空を見上げながら、泣きたい気持ちになってくる。
花の香りと、パンの焼ける香りを吸い込んで、虫がひっつくのもご愛敬。
侯爵令嬢という立場を忘れて気ままにいれる時間は、もう残り少ない。
十歳の誕生日を迎えた後、ラトゥーリアにも授業を行う事が決まっていた。
(残り……)
数えたくはなかったが、あと一週間もない。
こんな晴れの日だけでなく、雨が降ったら来れなくなる。朝から使用人たちに呼び止められればまた時間が減る。
鼻の奥がつんと痛みを覚えてきたところで、顔の横のくさむらがガサりと揺れた。
「ラトゥーリア様、ここにいたのですか」
顔を出したのは、あの少年だ。
「■■■■■……」
「はい。■■■■■ですよ」
肝心の名前は、ぼやけて聞こえない。文字としても認識できずにいた。
ただ幼いラトゥーリアは笑顔で一文字一文字、宝物を愛でるように発音していた。
「二人だけだから……どうかお願いできますか?」
「……わかりました。ラティ」
侯爵令嬢の権力で言う事をきかせたていで、二人の口調はくだけたものになった。
だが二人とも端々に敬語が混じると言うおかしな雰囲気だ。
「泣かないで大丈夫。きっと貴方なら上手くやれるよ」
「本当に?」
「えぇ、ラティはかしこい、すごいっ」
「……本当に?」
「嘘じゃないですよ」
あぁこれも口癖だったと思い出す。
おどけて、適当に誉めたのを本心だと弁解する。
家族とその周囲とのやり取りで、ガチガチに緊張しきったラトゥーリアを脱力させてくれるお決まりのやり取りだ。
「兄様たち、すごく辛そう。
ムチも怖いのよ? でもそれ以上に、何か……優しかった兄様たちが冷たくて怖いものになっていくような気がして」
「……と、いいますと?」
「お父様や大人の言う事を聞くだけの、人形?」
知っている言葉で何とか恐ろしさを表現してみれば、少年は静かに相槌を打ってくれる。
「わたくしも、そうなってしまうのかも」
「……そうかもね」
「えっ」
「だってとても厳しいし、そうしないと耐えられないような気がします」
あなたの予感は正しい。
不安を肯定されてしまったラトゥーリアは慌てふためくが、その様子を見て少年は愛おしそうに微笑む。
「ただし、心を失ったとしても、本当は失ったように見えるだけ」
銀灰の髪にくっついた小枝や葉を取り除きつつ、少年はその真っ赤な瞳をラトゥーリアのアイスブルーの瞳に合わせた。
「あなたは、このお庭が大好きで、草むらの陰に勢いよく入っていくようなお転婆……いえ、勇気あるお方」
褒められた気がしないとラトゥーリアは頬を膨らませるが、少年は気にせず続ける。
「オレのような平民と変わらないような者にも、暖かく話しかけてくれる気さくなお方」
長いまつ毛が伏せられ、赤い瞳に柔らかな影が落ちる。
その瞳が少しだけ潤んでいたのを、ラトゥーリアは見逃さなかった。
「そして何より、オレの話を聞いて心を助けてくれた、優しいお方」
小さな手でハンカチを取り出して少年の頬に当てれば、一回り大きな手が上から重ねられる。
「覚えておいてください。あなたは、あなたですよ。
どんな事があっても、本当のあなたは消えません」
ひときわ強い光を帯びた赤の瞳が、優しい笑顔でくしゃりと細められる。
どんな苦難にも負けないと思えるおまじないだと思った。本当に心強くて、胸に焼き付いて幸せな気持ちでいっぱいになった。
だというのに、何故こんな死の間際まで忘れてしまっていたのだろう。
(……いいえ、今までの中で思い出してたら、きっとわたくしは、侯爵令嬢の役目すら果たせなかったでしょう。
あまりにも、あまりにも綺麗で、離れ難い……こんな、素敵な……)
ラトゥーリアという、彼の涙をぬぐった少女にかけられた祝福の言葉は、侯爵令嬢をただの恋する少女に戻してしまう呪いの言葉でもあったのだ。