太陽の手(4)
手渡されたパンは、少々変わった形状をしていた。
クルクルと巻かれた生地が三日月のように湾曲し、中央部分がなだらかに盛り上がっている。
「生地を薄く伸ばして、何枚も何枚も重ねて層にしてみたんだ。この層は僕、この層は姉さん、この層はシュターレンベルクって……大切なものをいっぱい重ねようと思って」
「ふぅん……」
パンよりも一瞬触れた手の温かさに、シュターレンベルクは我知らず息をつく。
高速で流れていた時間が、少しずつ速度を落としていく。
同時に瞼があたたかく、少し重く感じるようになった。
「温かい手だな。太陽みたいだ」
そう言うと、パン屋はあからさまにニヤついた。
照れるよなんて言うが、何をそんなに浮かれているか分からない。
「食べてみて。名前はそうだな……クロワッサンと名付けよう!」
「はぁ」
「ね、どう?」
とりあえず口に放り込むと、歯の間でサクッと音をたててそれは崩れた。
僅か三口ほどで消えてなくなったので、味などよく分からない。
元々食に対してこだわりもないのだから、感想などと聞かれても。
「別に普通だが」
そう言うと、パン屋の顔から笑顔が消えた。
「普通って何だよッ! 生地から薪の香りが漂って香ばしいでしょう! 食感はサックサク! お口の中でバターの深い香りが広がって。まぁバターは少ししかなかったから植物性の油脂を入れたんだけど。でも、味はいけてるはず……」
途中からフランツの声も力を失っていった。
ウィーン防衛司令官は射撃の腕は確かでも、舌はまったくもって役立たずであることを痛感したのだろう。
「……あの時のパンを思い出すな」
「えッ、何! 思い出したの?」
沈んでいたフランツの顔が、今度は輝く。
一六六四年、ザンクト・ゴットハルトの戦場。
あの日、若き日のシュターレンベルクが戦場で出会った幼い姉弟。
彼らはエルミア、フランツ姉弟だったのだ。
シュターレンベルクの中で、パンを手渡した記憶は薄れてとうに消えていた。
なのに十九年前のあの戦場での出来事を、この少年はずっと両手に抱きしめていたのだ。
「さっさと忘れろ。そもそも俺に恩なんて感じる必要ない」
拒絶されたと感じたか、フランツは一瞬口ごもる。
やがて、こう切り出した。
「この部屋は不思議だね。ずっと前に別れたきりだけど、この部屋にいたら姉さんと話ができるような気がして……」
視線を上空でさ迷わせて、フランツがぽつりぽつりと呟く。
「仕方ないよ。姉さんはもしかしたら幸せだったんじゃないかな。最後にシュターレンベルクと会えて……」
「そんなわけないだろうがっ!」
思わず怒声が。
こんな異国の地で若くして命を失うなんて、無念でない筈がない。
しかしフランツは首を振った。
見えない何かを見つめるように細められた双眸。
思いつめた表情は、驚くほどエルミアに似ている。
「僕はあの時、シュターレンベルクがくれたパンを忘れないよ。あの時、僕たちは村を焼かれてお父さんとお母さんを亡くした。途方にくれて死ぬしかなかったんだ。そんな僕たちを、シュターレンベルクは救ってくれたんだ。カチカチの固いパンが、口の中で甘く溶けていくのを僕は今も思い出すよ」
「やめろ……」
だからパン屋を目指したとか言うな。
気まぐれで孤児にパンを与えたことで、この手で犯した罪を贖うことなど出来よう筈もない。
「僕はパンを……、姉さんは希望をもらったんだよ。あのあと親戚のいる町へ逃げたけど、誇り高く生きていきましょうって姉さんいつも言ってた。姉さんが紋章を覚えていて、シュターレンベルクの名前を調べたんだ。シュターレンベルクは知らないだろうけど、僕たちはいつもいつもシュターレンベルクのことを話してたんだよ」
誇り高く生きようと──そしてエルミアは祖国のために、復讐のために働いたわけか。
歪んだ誇りに違いない。
それを、かつての自分が彼女に植え付けていたというのか。
「フランツ、頼みがある」
「なに?」
パッと顔を輝かせたフランツだが、シュターレンベルクの手にマスケット銃が握られていることに気付いて表情を強張らせる。
何といっても銃口はシュターレンベルク自身の方を向いていたからだ。
「これで俺を撃て、フランツ。エルミアの側に葬ってくれなんて言わないよ。俺の死体は壁の外にでも打ち捨ててくれりゃいい。それが俺への罰だ」
「シュターレンベルク………」
「ほら、撃ち方は分かってるだろ。お前の目の前で何度も撃ったからな」
「やだよ。僕は……」
「正直、俺はもう思い残すことがない。ウィーンも助かったしな。あとはお前の手で裁いてくれ」
銃を少年に押し付ける。
指をクイと動かして引き金に手をかける動作をしてみせると、フランツは整った顔を大きく歪めた。
「僕は……」
小さな呟き。
同時に両腕を振り上げる。
マスケット銃を放り投げた。
「僕は誰も裁いたりしないよッ! だって僕はパン屋だもん。毎日おいしいパンを焼くのが僕の仕事だもん」




