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クロワッサン物語  作者: コダーマ
第三章 パン屋の正体

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指揮官の誇り(8)

「た、確かなのか?」


 自分でも間抜けな質問をしたと思う。

 努めて冷静にあらねばならない──最高司令官とはそういった存在だ。

 何があっても決して狼狽えることなく、泰然自若としていなければならない。

 でなければ誰も付いて来ない。

 なのに今、膝が震える。


「本当なら町に顔を出して市民や避難民を励ますところだけども、自分は今動くことができないからと。動けないならば、せめてこれくらいの働きはしてみせましょうと仰って。何百もの数の弾薬を……」


「死ぬ……ほどの怪我なんて思わなかった。見舞いに行った時だって、あんなに元気そうに……」


 震えが、蛇のようにゆっくりと腿へと這い上がってくる。


「お前は知ってたのか……何とか言え、リヒャルト」


「ひっ、父上……。心配をかけるから父上には言わないようにと命じられたのです。で、でも私もこうまで悪いとは知らなかった……」


 リヒャルト、と叫ぶ指揮官の前にバーデン伯が立ちはだかった。

 今しも息子につかみかからんばかりに詰め寄るシュターレンベルクを見て、慌てて間に入ったのだ。


「き、気を遣われたんだよ、市長様は。シュターレンベルク伯には指揮に専念してもらおうと思って」


「気を遣うなど……」


 震えは指先まで覆い、拳の形を作ることも出来やしない。


「おい、シュターレン……」


 市民に多大な犠牲を強いて死に追いやり、頼もしい部下も死なせた。

 若者を絶望の淵に追いやったうえに、身近に置いた者にも裏切られた。

 どんなに努力しても、このていたらく。

 震えは遂に全身を覆う。


 ──閣下は誇り高くいらっしゃらなければなりませんわ。


 不意に女の細い声が脳裏に蘇った。


「……エルミア?」


 辺りを見回す。

 流れる金色の髪を探して。

 悪戯っぽく細められた緑の瞳を求めて。

 常に菓子を頬ばっている柔らかな頬はどこに──。


 そんなものは無論ない。

 何故なら、それは壊れたものだから。


「ち、ちちうえ……父上っ」


 リヒャルトの叫びに我に返る。


「あ、ああ。大丈夫だ……」


 嘘だ。

 内臓まで痙攣しているかのよう。

 震えは止まらないし、思考まで鈍くなっていくのが分かる。


 市長が死んだだと。

 じゃあ何か?

 これから俺が一人で市を守っていかなきゃならないってのか?


「父上、市長殿に……会いに行かれますか?」


 リヒャルトの問いに首を振った時のことだ。

 何かが頭上を過ぎった。

 同時にゴウと空気が振動する。


 シャーヒー砲の尾を引く高い響きではなくて、低く唸るような不気味な音階。

 次の瞬間、轟音が鼓膜を激しく打ち鳴らした。


「何だ、一体!」


 叫んでバーデン伯が走り出す。

 夜目にも分かる。

 確認に向かうまでもない。

 ケルントナー門から十数メートルの先の壁が灰色の煙で覆われている。

 陵堡までは崩れていないが、壁面の所々がボコボコと奇妙な形に抉られている様がここからでも窺えた。


 市壁が破壊されたのだ。


 奇襲攻撃であらかた破壊した筈だったコロンボルナ砲だが、まだ生きていたらしい。

 今まで一度だって破損したことのない壁がこうも簡単に……。


 唇を噛むがもう遅い。

 夜の街のあちこちから悲鳴があがったのと対照的に、壁の向こうでは敵大軍が一斉に歓声をあげる。

 グラシのずっと向こうに居るのは確実なのに、迫る威圧感。


 瞬時に、市内で起こった悲鳴はかき消えた。

 征服されてしまう──その恐怖に市民たちは凍り付いたのだ。

 ただの壁ではない。

 シュターレンベルクにとって、そして市民にとって、ウィーン市壁は頼みの綱であり、長い包囲戦を耐え抜く唯一の拠り所でもあったのだ。


 隣りでリヒャルトが何か叫んで駆け出していくのが見えた。

 バーデン伯と、他に駆けつけた軍人らと共に一番近い陵堡に上がっていく。

 防衛を固めます。絶対に絶対に敵を壊れた壁に近付けてはなりません──そんな叫びがぼんやりと耳の横を過ぎる。


 シュターレンベルクはその場を動かなかった。

 視界が揺らぐのが感じられる。


 ──いつでも誇り高くいらっしゃらなければ。だって閣下は……。


 エルミアの言葉が、まるで耳元で囁かれているかのような生々しさで蘇る。


「そういえば……」


 ふと、思い出した。

 どこかで聞いた言い回しだと思ったのだ、あの時。

 アウフミラーが言っていたっけ。


 せめて最後くらいは誇り高くいたい、と。


 アウフミラーはハンガリー人で、オーストリア憎さのあまりオスマン帝国軍に情報を提供していたという。


「まさか、アウフミラーはエルミアと通じていた……?」


 あの言葉だけで判断できるものではないと、理性は告げている。

 だがもう確信していた。

 エルミアは間諜だ。

 でなければ若い娘がウィーン防衛司令官になど近付いてはくるまい。


 彼女がシュターレンベルクの傍で情報をつかみ、それをアウフミラーに流した。

 アウフミラーは貧しい身の上でありながらも、菓子を作ると言っていたっけ。

 思い出す。外出先から戻ってきたエルミアはいつも甘いものを頬張っていたではないか。


 辻褄が合って納得したと同時に、全身から力が抜けた。

 ウィーンを裏切っていたのは自分だ。

 間諜である若い愛人に、ペラペラと機密を喋った。

 結果、ドナウ艦隊は壊滅し、都市は包囲に苦しめられることになったのではないか。


「誇り……高く……もう、俺には、無理、だ」




 九月四日、これまで耐え抜いて来たウィーンの市壁が初めて損傷する。

 指揮官の誇りもこの時、崩れた。

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